第五章、サンティアゴ・デ・チーレ 1973年9月 Ⅲ
ホテルにはアレハンドロもマルセロも戻っていなかった。ベッドの上に荷物を放り出してしまうと他にやることもなかった。窓に近づきオイギンス大通りを見下ろすと、南米では都会といってもよいはずのチリの首都サンティアゴには人影が少なかった。時間はまだ午後9時過ぎで、夕食に出かけるには頃合いの時間であったが、街そのものが何かに怯えて委縮しているように感じたのは、ベアトリスが残していった言葉のせいだろうか「この国は危機に瀕している」という。ベアトリスの言葉には政治が変わるという生半可な不安ではなく、それだけではおさまらない、世の中が強引に押し潰されるかのような恐怖が感じられた。
死んだエルネスト・ゲバラはサルバドール・アジェンデとどのような関係があったのだろうか?。あのような書簡を託されるのであれば深い親交と信頼があったはずだ。もしアレハンドロがチェなら、その関係が明らかになるだろう。チェでなければアレハンドロはどうするだろうか?。アジェンデ大統領を救うことを考えるはずだ。いや、チェであってもアレハンドロであっても第一義は政権を救うことではなく民衆を優先するはずだ。そして、アレハンドロはなんらかの行動に移っているからこそここにいないのだ。
そう推測すると、安堵と同時に、もう一つ重大なことに気付きはっとした。
チリの危機は間近に迫っているということだ。三日前にサンティアゴに到着したはずの二人に猶予も与えず、ベアトリスを空港に迎えに行かせたということは、多分、危機が近づいており、一刻の猶予もないほどの状態なのだろう。一瞬、クーデターという不吉な文字が脳裏に浮かんだが、それを打ち消した。
私は、窓辺を離れベッドの縁に腰掛け、そしてこれから何が起こるのかを考え始めた。その時、電話が鳴った。
「フロントですが、お客様がお見えです」
「どなたでしょうか」
「マヌエル・サンチェス様です」
知らない名前だった。
「分かりました。すぐに下に降ります」
誰だろうか?そして危険はあるだろうか?と、躊躇したが、私がここにいることを知っている人物に躊躇しても仕方のないことだった。上着を取るとドアを開けて部屋の外に出た。廊下は暗くひんやりとして、その突き当りの辺りだけが明るく、その光に向かって歩き、階段の手すりにたどり着いて下を覗くとフロントに背広を着た男が新聞を脇に挟んで立っていた。なぜか軍服を予想していた私はほっとして階段を降りた。
男は三十代半ば頃の歳で、長髪で痩せていた。わたしが階段を降り切らない前に振りかえると階段を見上げ、新聞を持った手をあげて安心させるかのように笑みを浮かべた。近づくと手を伸ばして「マヌエル・サンチェスです。アジェンデ大統領の補佐官を努めています」と挨拶した。
わたしは握手しながら「トーマです。失礼ですが、どなたから私がこのホテルに居ることを訊いたのですか」と名乗り、質問した。
男は不思議そうな顔をしたが「ああ、ベアトリスからです」と答えた。
「他には誰か・・?」重ねて訊くと、もう一度同じような表情を浮かべ、それからにっこりと笑うと「用心深いのですね。それが今のチリに必要なものです。もちろんアレハンドロもマルセロも存じています。そして、これが私の身分証明書です」と言って、上着の内ポケットから財布を取り出して開いて見せた。
「失礼しました。ホテルから友人が消えたので、用心した方が良いだろうと思いまして」
「ベアトリスが話していたとおりです。それでアジェンデ大統領も会ってみたいと言い出しましてね。チリに着いたばかりでお疲れでしょうが、モネダ宮殿まで同行ご願えませんか」
「これからアジェンデ大統領に会うのですか・・」
「ええ、大統領は好奇心旺盛な方でして、是非、アレハンドロの友人をお連れしろとのことです」
表に出ると、夜のサンティアゴは冷え込んでいた。しかし、その寒さよりも、賑わいがあるべき時刻に人影が少ないことが不気味で冷たさを感じた。
「モネダ宮殿は近いので歩きませんか」とマヌエルは誘った。
サンティアゴの街は奇妙な静けさに包まれていた。この街には何かが潜んでいるのだ。獰猛な獣は唸り声を立てずに涎を垂らして潜んでいる。
「ええ、歩きましょう」と言って、マヌエルと並んで歩き出した。
「ベアトリスはとても心配していましたが、大統領は私と会う時間なんてあるのですか」
「チリの状況は酷いですよ。しかし、いまさらジタバタしても始まらないでしょう。やるだけやったのです。後は運命でしょうか、相手の出方を待つしかありません」
「相手とはピノチェットですか。それとも民衆でしょうか」
マヌエルは立ち止まって私を見た。そして「なぜ、民衆と考えるのですか?」と質問した。
「このオイギンス大通りに人影が少ないからです。サンティアゴ市民は誰を恐れているのですか。アジェンデ大統領ですか、それとも彼に敵対する者ですか。」
「君の想像通りだよ。大統領は敵と戦うことはできても、恐れおののいている民衆と戦うことはできない」マヌエルは大通りの並木を仰ぐように見上げてため息をついて言った。
「大統領は民衆のためにこれまで最大限の努力をしてきた。しかし、アメリカや企業があらゆる手段を使って圧力をかけてくることは予期していたが、国民がアジェンデ大統領の示した道を我先に駆け出して奪い合うなんて想像すらしていなかった。彼は口には出さないが、失望し、哀しみを抱いている。権力は魔物だ。魔物は常に同じ力を保持して、権力を握った者に憑依するだけなのかもしれない」
マヌエルは、またゆっくりと歩き出した「民衆はアジェンデの意図を超えて、国営化という美名のもとに、我先に企業を私欲で奪い合っている。奪掠する人間の欲望に大統領も我々も哀しみすら感じている・・・だから、怖いのだよ。このようなことが続くはずがないと分かっているのは、他でもない略奪している者たちの方だ。だから何かが起こることに怯え、その怯えがさらに凶暴になって略奪を繰り返す・・・。」
「怯えがあるなら、止めることはできるのではないですか」
「できるだろう。しかし、それは暴力というアジェンデが一番嫌っている方法だ」
「では、怯えている者たちは誰かがその暴力を使おうしていると予感しているのですか。それは誰ですか?」
「トーマ。南米で暴力といえば軍に決まっている」
私は新聞に掲載されていたピノチェットという名の将軍の不遜ではあるが獣とは程遠い端正な顔と青い目を思い出していた。
その時、黒塗りの車が脇を過ぎて停車した。マヌエルははっとしたように「トーマ、逃げろ!」と叫んだ。
その叫びと同時に車から二人の男が飛び出した。逃げ場を探して後ろを振り返ると、すでに二人の男が退路を塞いでいた。
前方から近づいてきた男のひとりが、慌てるふうもなく「大統領補佐官のドクトル・マヌエル・サンチェスですね。同行して頂けませんでしょうか」と、丁寧な言葉で頼んだが、返答を求めている口調ではなく、必要な手続きを伝える感情のない冷酷な声だった。そして停車した車から運転手らしき男が降りて後部ドアを開けた。
「彼は無関係だ。私だけを同行しろ」
マヌエルがそういうと、男は肩をすくめ「申し訳ないのですが、将軍からあなたと同行している者がいたら、家族だろうが、友人だろうが、ご一緒にお連れするよう指示されています」と言った。男は落ち着いた濃灰色の背広を着ていた。しかし、屈強な体格と髪型には軍服の方が似合っただろう。
マヌエルとわたしは別々の車に乗せられた。車に乗せられるとすぐに黒い布袋を頭にかぶせられ、車は猛スピードでサンチャゴの街を走りだした。目隠しの黒い袋は、方角を分からなくする効果より恐怖心を煽る効果のほうが高かった。見えなくなったのは視界だけでなく、生命の行方だった。その恐怖に怯えながら、サンチャゴに到着した日にこのように袋を被されて連れ去られようとしている自分の不思議な運命が何故か可笑しくなった。
「何を笑っている」
気づかずに声が出たらしい。右の窓際に座った男が私の胸を突いた。
「いえ、笑ったのではなくて。怖くて声が出たのです。どこに連れていくのですか。誰と会うのですか」
「会うのはお前ではなくで、ドクトル・サンチェスの方だよ」
「それならなぜわたしも連れて行くのですか」
「人質だよ。左翼の連中にプレッシャーを与えるには人質が一番だと将軍が言っていた。まったく将軍はインテリだよ。効果というものをよく理解していなさる」
「将軍とはピノチェット将軍ですか?」
「・・・・・」
「私は日本人です。時間がなくて日本大使館にはまだ連絡していませんが。大使館に勤めている友人には今日サンチャゴに到着することを連絡したので、ホテルに戻るのが遅いと心配します。後でホテルに電話をさせて頂けませんでしょうか」
「分かった。後で判断しよう」男は、指示されたこと以外の行動は取れない軍人らしく答えた。
これからどこに連れて行かれるのか。誰に会い、何が起こるのか分からなかったが、左翼という言葉を聞いて、日本人であることを伝えた方が良いだろうと直感的に判断した。しかし、それは自分を守るがマヌエルの危機を救うことはできないことを思うと、私の小さな策略は裏切りを含んでいるような罪悪感を伴った。
「ピノチェット将軍はどのような方ですか」
「俺はピノチェット将軍だとは言っていない」
「いまさら否定しなくても良いでしょう。どうせこれから会う方ですから」
「まあ、いいだろう。将軍は判断が早く、それも的確だ。そして行動力がある。リーダーとしての資質は全て備わっているといってよい」
「すると、そろそろ政権は変わるのでしょうか」
「将軍が決断すればな。アジェンデにはもう何の力も残されていない」
「すると・・」
「それだけにしておけ。お前が日本人であることは良く分かった」
私は自分の計略を見透かされて恥ずかしくなったが、確かに、伝えるべきことは伝え、最小限の知るべきことは知ったと思った。これから会うのはアジェンデ大統領ではなくピノチェット将軍に変わったのだ。
コメント
コメントを投稿