第三章 ブエノス・アイレス 1973年6月 Ⅻ
ガレージの奥には、修理工具が作業台の上に散らかり、天井から釣り下がった鎖には分解されたエンジンが油で汚れたままぶら下がっていた。それは抉り出された血みどろの心臓が揺れているようにも見え、恐怖を生々しくよみがえらせた。
パードレは、床に転がっていた椅子を起して座った。男たちは同じような動作でひとつ椅子を起すと、わたしをその椅子に押し付けるようにして座らせて傍に立った。
パードレは、真正面からわたしを見つめてしばらく何も言わなかった。そして、納得したかのように話しかけてきた。不思議と彼の持つ怜悧な表情が消えていた。彼は煙草に火を付けた。
「トーマ君、わたしにはもう時間がないのだ。アレハンドロが消えてしまった。彼が軍に捕らわれた可能性はない。レガたちも彼を探している。彼が姿を消したのは君が現れたからだ。つまり、彼は自ら姿を隠したことによって、我々の想像が正しかったことを証明している」
「どのような想像ですか」
パードレは、すこし苛立ったように煙草を深く吸ったが、ゆっくりと吐き出して言った。
「トーマ君、ペロンは明日、六月二十日スペインから凱旋帰国する。そのペロンが、我々の支持できる指導者であるかどうか確証がない。いや、わたしの持つ情報では彼はもう以前のペロンではない。我々労働者の指導者でもなければ、アルヘンティーナの希望でもない。彼はいま、ただの老いぼれにすぎない。しかし、その老いぼれの傍には欲のつっぱった無能な後妻のイサベル、人殺しのロペス・レガなどがたむろしている。ペロンが政権を取れば、側近たちは老いぼれを意のままに動かせる。それはアルヘンティーナが暗黒の時代に落ちることを意味している。我々はそれを止める。そのためにはアルヘンティーノが敬愛するチェを蘇らせる必要があるのだ。それには君の協力が必要だ。その重大さを君は知らなければならない」
パードレは話し終えるのと、吸い終わった煙草を捨てるように沈黙した。彼はわたしを正面から見据えて確かめていた。
「わたしに何ができるというのですか。わたしはこの街に来たばかりで、ペロンやアルゼンチンの政治などに興味はありません。それにアギレーラさん。アレハンドロは現れないですよ」
ホセ・アギレーラは両手の掌に顔を埋めた。そして、顔を上げたとき怜悧な表情が戻っていた。ゆっくりともう一本の煙草に火を付けても話し出さなかったが、唐突に立ち上がった。
「君は嘘を言っている。君は街を歩き、地方から出てきた労働者や学生達の集会する場所に行き、その行動や声を興味深そうに聞いていた。そして、誰かが近づくのを待っていた。いいだろう、そう難しいことではない。あのアパートの管理人をしている太ったロクサーナという女に君を預かっていると伝えればアレハンドロは間違いなく現れる」
「・・・・・・」
その時になって、わたしは自分の軽率な行動を後悔した。
「しかし、アレハンドロは用心深い。どうやらペロンが帰国するまで身を隠すつもりでいるようだ。そしてペロン体制が確立して身の危険がなくなるまで現れないだろう。我々はそう結論づけている」
アギレーラはわたしに近づくと、屈みこんで耳元で呟いた。それは静かな声だった。
「いいかトーマ、もう一度言う。わたしには時間がない。そしてお前にも時間を与える気はない。どうあっても君に協力させる。しかし、君に今晩だけ考える時間を与えよう、マルセーロにも頼まれているからな。しかし、これが最後だ。君の結論がわたしの意に反するなら、それが君の最後でもある」
そう言って、パードレは背を伸ばし、パンッと手を叩くと男たちに「よく見張れ」と言い残して外に向かって歩き出した。
ガレージの中は静かになった。姿の見えない男たちはどこかで見張っているのだろう。この広い空間は音を飲み込み静けさを増幅させた。パードレの残した言葉だけが耳朶の奥に響いた。
わたしは両手両足を椅子に縛られていた。男たちが去るとわたしはすぐに体を揺すり、腕を動かしてみたがロープが緩む気配はなかった。数時間も挑んだあげく、諦めて辺りを見渡すと工具が置かれている作業台が眼についたがそれも遠かった。それに抜け目のない男たちは椅子を後ろの鉄柱に縛ってあった。万事休すだ。どうにもならない。ため息をつくと気が緩み、なぜか恐怖すら緩んだような気がした。そして、恐怖が少し退くと睡魔に誘われた。その重さに頭すら支えることもできず前に落ちるように眠った。
何時間経過しただろうか、時刻を確かめたかったが、腕時計は縛られたロープの中に埋もれていた。時刻が判らないことは死を予告された者にとって辛いのだろうか、それとも気楽なのだろうか。
わたしはアゲレーラの拷問に耐えることができるだろうかと想像すると、また恐怖が復活した『無理だろう、耐えることなどできるわけがない』彼らは何度も人を拷問した経験のあるプロなのだ。わたしが耐えることなど不可能だ。
そう思った時、ふと思い出したことがあった。あれは、確かテレビのインタビューだった。レポーターが試合の終わったボクサーに「殴られるのは痛いですか」というバカげた質問をしていた。唇が切れ、眼が腫れ上がったボクサーは朴訥と答えていた。
「殴られるよりも、殴られる前の恐怖の方が痛いです」彼は確かそう言った。
そして、ライトの光で眩しそうに眼を細め、去っていく殴り合った相手ボクサーの背を見ながら、自分に言い聞かせるように、もう一度小さく呟いた「殴られたくないと思うと怖い。だから、俺は、殴られることを決意してリングに立つんだ」たどたどしいその言葉にわたしは感動さえ覚えた。あのボクサーのようにこれから起こることを当然と受け入れてしまえば恐怖はなくなるかもしれない。
メイの言葉を思い出した。
「痛みは警告よ。これ以上身体を傷つけてはいけないという警告よ」メイはそう言った。わたしは拷問という最大限の警告を当然のものとして受け入れることができるだろうか。そして拷問の結果、わたしは死ぬのだろうか。老人であれば生きる気力を、枯れていく老木のように失って、甘んじて死を受け入れることができるだろう。だから老いは必要なのだ。死を迎えるために。
しかし、わたしはまだ老木ではない。心も体も生きようという気力をたっぷりと蓄えている「生きたい」という欲望を持ったものにとって死はやっぱり辛いものだろう。ましてわたしにはアントニーナがいる「そうだ、アントニーナがいる」そう呟くと、朦朧としていた意識を生きのびようという気力が取り去った。アントニーナは微笑んでいた。僕も微笑んだ。そしてアントニーナは、わたしに答えを与えてくれた。
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