第五章、サンティアゴ・デ・チーレ 1973年9月 Ⅴ
その時、わたしは自分でも信じられない無謀な質問を口にした。
なぜ、そうしたのか分からない。ただ、ピノチェット将軍という男にはまだ言い尽くせてないものがあると感じたのかもしれない。
「将軍、あなたはアジェンデ大統領を恐れているのですか?」
ピノチェット将軍は、閉じていた眼を開け、少し驚いたようにわたしを見た。
「ほう、質問の意味が解らないが」
わたしは自分の中にある勇気を確かめた。よし、―大丈夫だ―
「あなたは、アジェンデ大統領を逃がそうとしている。それも決行日を間近に控え、多忙なあなたがその時間を割いてマヌエルを連行するという面倒なことをして、そうしてまで大統領に伝えさせようとしている本当の理由は別にあるのではないですか」
「・・・・続けろ」ピノチェット将軍は鋭い目でじっとわたしを見据えた。それは、わたしを充分に委縮させたが、それでも続けた。
「なぜ逃亡や亡命を勧めるのです。死んだ者は物言わないが、生きている者はあなたを非難し、敵対する。あなたはそれを分かっていながら逃がそうとする。軍人ですから殺すことに躊躇いはないはずです。六年前、ボリビア政府はエルネスト・チェ・ゲバラを裁判にもかけず射殺したではないですか。なぜ、あなたはそうしないのですか?アジェンデ大統領を逃がそうとしているのですか」
ピノチェット将軍は、また目を閉じてしまった。部屋の中が静寂に包まれた。そして、外では静かに雨が降り出した。
「カルロス。席を外してくれ」
「ヘネラル・・しかし・・」
「心配するな。こいつらだけを残して、君たちは階下で待て」
「分かりました」
カルロスたちが階段を下りていく音が聞こえなくなると将軍は煙草を取り出して火を付け、静かに語りだした。
「わしはサルバドールと同郷だ。バルパライーソの港町で生まれ育った。奴は覚えていないだろうが、わしは学生の頃から彼を知っている。あいつは学生の頃から光っていた。仲間たちに夢を与え希望を持たせることができるリーダーの資質というものを全て備えていた。わしは彼に憧れ、彼の演説を何度も聞きに行った。それは素晴らしいものだった。チリは理想の国に変わり、世界のお手本となる国が実現することを信じたくなった」
「・・・・・・・」
「しかし、ある日、彼の素晴らしさには致命的なものが欠如していることに気付いた。彼の思想は『人間の善意』を基礎としていた。正論や真実が武器であり、それを民衆が支持すると信じていた。しかし、群衆の中で、正論であるはずの彼のディスクルソを聞きながら、わたしは胸の中から黒々と嫉妬が湧き上がり、体中を覆い尽くし脳の中まで真っ黒に浸食されていくのを感じた。なぜかわかるか?」そういって将軍は笑みを唇に浮べ、顎をしゃくって面白がるようにわたしの答えを催促した。
「・・・あなたが含まれていなかった・・でしょうか」
将軍は満足そうに頷いた。
「そうだ。お前は何かを持っている。頭ばかり下げている奇妙な日本人とは違うようだ。その気があるならチリに残れ、わしがバカ者たちどう使うか傍で見ているが良い」
「・・・・・・・」
「まあ、いいだろう。話を続けよう・・・そして、周りをみるとわしと同じ目をした者が何人もいることに気付いた。それは大抵、明日の理想から遠い、今日の貧乏に苦しんでいる者だった」ピノチェット将軍はしばらく考えるふうに言葉を切った。
「いいか・・・・・・嫉妬とは憧れだ。わしはサルバドールに憧れ、それと同時に嫉妬した。彼は裕福な家庭で理想を語れる環境を持ち、卒業後弁護士の資格を取ったが、それすら職を得るためではなく理想を追うためだ。そういうサルバドールにわしの嫉妬は膨らんでいった。そして、わしは職を得るために陸軍に入隊した。軍人の世界には理想は要らなかった。喰うために必要な存在は、命令という非理想的な世界だけだった」
「・・・・・」
「アジェンデに嫉妬していたわしにとって、軍隊は居心地の良い世界だった。理想という戯言をいう者はなく、あらゆる力が本物だった」
「それでは獣ではないか・・・」マヌエルが呟いた。
「違うな。マヌエル、人間と獣の違いは何だと思う。どっちも生まれて死んでいく。腹がへれば飯を食う、セックスで子を増やす。違いがあるとしたら人間はこうしてものをしゃべることだ。それが一番やっかいなことだ。暴力だけで強いものが弱いものを統率するには限界がある。統率を無限にしているのは言葉が生み出す想像だ。実際の力というのは使う必要など殆どない。力があることを分からせるだけで充分だ。あの頃のアジェンデの言葉には力があった。しかし、その力は理想という麻薬のような幻覚で、実際には存在しない力だった」
ピノチェット将軍は引出しを開け、煙草を取り出して火を付けた。顔の付近が明るくなり暗い表情が浮かんだ。
「マヌエル。彼はどうしている・・・わが友・・サルバドールだよ。いまだに理想を持ち続けているか。民衆を見離してはいないか」将軍は、疲れたように声をひそめて静かな声で訊いた。
「大統領は信じています。民衆を。だから国民投票を行うと決めたのです」
ピノチェット将軍はため息とともに煙草の煙を吐き出した。
「それが困るのだよ。そういうことをせず国を出て行けば良いものを」
「国民は必ず大統領を信任しますよ」
将軍は流れていく煙の行方を見るように上を向いた。それから、もう一度視線をマヌエルに戻した時には、その目から静けさが消えていた。獣のような獰猛な光がやどり、そして彼に顔に冷笑が浮かんだ。
「それにどんな意味があるのだ、マヌエル。お前の舌とペニスの先に付いているのはなんだと思う。欲望だよ。生きようとする欲望が口から飯を喰う。子孫を残そうとする欲望がペニスから精液を吐き出す。人間という獣は欲望で生きている。そして神はその欲望に快感を与えた。それは神の洒落たインチキだ。我々はその快感に囚われ、物を貪り、男は女を犯す。欲望と快感は人間に生存を強制させるために神が仕組んだペテンだ。」
激しい言葉とともに将軍の目は異常な光を放っていた。その激しさは狂気の嵐のように吹き荒れたかと思うと、すぐに治まり、魂が抜け落ちたように呟いた。
「わからないのは、なぜ、なぜそのような幻想を抱かせてまで、神は我々を生存させようとしているのだろうか・・」
将軍の目から光が消えた。
そして、雨が降り始めた外を振り返った。部屋から音がなくなり、外に降る雨音が三人の心の中に沁み込んだ。
唐突にピノチェット将軍の静かな声が響いた。
「君の名前を訊いていなかったな。何と言うのだね」
「トーマです」
「お前はアジェンデの仲間と違って現実的な考えを持っているようだな。なぜ、わしがアジェンデを逃がそうとしているのか、それがお前の質問だったかな・・・」
「そうです。教えて下さい」
「お前は、どうしてわしがアジェンデを逃がそうとしていると思ったのだ」
「それは、将軍の言葉に愛情を感じたからです。それが増悪から来るものならアジェンデ大統領を殺した方が後腐れない。しかし、将軍は逃げることを勧めている」
ピノチェット将軍は目を閉じたまま話し出した。
「さっきも話したが、わしはサルバドールと同郷だ。それだけではなく同じバスクの出身でもある。わしの中にはふたつの相反するものが住みついている。そしてそれは両立しないものだ。この相反するものは、アジェンデに会った最初の日に感じた憧れと嫉妬が原点だったのだろう。わしは憧れという心躍るような想いと、嫉妬という暗黒に沈む毒々しい感情を抱いたのだ。アジェンデはわしの良心だ。あいつは俺の中で壊れて無くしたものが何であったかを思い出させてくれる。彼を殺せばわしは地獄に落ちて良心というものを失うだろう。バルパライーソで初めてアジェンデの演説を聞いたとき、彼は俺の良心を、無くしかけている俺たちの良心の救世主だと思った。ところが、良心が芽生えると同時に、俺の腹の底からどす黒い嫉妬が湧き上がり、憎しみがそれに続いた・・・・」
「・・・・・・・」
「わしは気が狂いそうになってその場から立ち去った。愛と憎しみが胸の中で競って、わしを食い殺そうとしていた・・。あの時と同じだ。いいか、わしはこのままではアジェンデを殺さなければならない。そして、殺すと同時にわしは良心をなくす。良心を無くせば、わしの中にある暗黒がチリを焼き尽くすだろう。そうなる前にアジェンデに逃げるように伝えろ。彼を救うだけでなく、わしを、そしてチレーノを救うのだ」
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