第五章、サンティアゴ・デ・チーレ 1973年9月 Ⅳ



車は夜のサンチャゴを疾走した。彼らは一言もしゃべらなかった。無言のまま時が過ぎ、やがてアスファルトから逸れたのだろうか、砂利を踏むタイヤの音がしてスピードが落ち、そして、やがて止まった。
「降りろ」腕を掴まれて引きずり出された。
車外に出ると、冷たい風が梢を切りさき、葉を散らす響きが聞こえたが、辺りには人家の気配が感じられなかった。袋を被されたまま積もった落ち葉を踏んで歩いた。そして数段の階段を登り室内に入った。気温が温もり、背を押されて今度は木造り階段を登り、ドアが開く音が聞こえ、再度背を押されて室内に入り、最後に肩に手が置かれて椅子に座らされた。気配でマヌエルも傍に座っていると感じた。

「カルロス、袋を取れやれ」という濁声が聞こえた。
首の後ろで縛られていた紐が解かれ袋が外されたが、闇に閉ざされていた眼には正面の微かな明かりさえも眩しかった。瞬いて目が慣れてくると、まず大きな窓が見えた。そしてそれを背にして座っている男の影があった。室内は仄暗く、窓が明るいのは外灯が点いているせいだった。
男の表情は影になって見えなかった。さらに目が慣れると男が青い軍服を着て椅子の肘掛けに置いた両腕を胸の低い位置で組んで座っていることが分かった。そして、彼と我々との間にはどっしりとした机が隔てていた。
「ヘネラル・アウグスト・ピノチェットだ」男はそう名乗った。
「・・・・・」
「アカは挨拶もできないのか」と、我々を連行して来たカルロスと呼ばれた男が憎らしそうにマヌエルの背を小突いた。
「挨拶と云うのは、頭に袋を被せて強引に連れてこさせた相手に対してするものではない」とマヌエルが答えると、「アカだけに口が達者だ」といってカルロスは拳を振り上げた。
「カルロスやめとけ、今晩だけはお客さんだ。決行の日が来ればこいつの命など虫けらの価値も持たない。しかし、言っておくが袋はお前たちの用心のために被せたのであって、わしにとってはどうでもいいことだ」
「決行の日とは何ですか?」マヌエルが訊いた。
「やっと話す気になったか。説明などいるまい。決行は決行だよ。確かマヌエルといったな、お前の名前は。お前の胸の内で怯えている哀れな小人に決行とは何かと訊ねてみるんだな」
マヌエルは押し黙っていたが、呟くように訊いた。
「クーデターですか」
将軍の顔に冷笑が浮かんだような気がした。
「笑わすな。そんなもんではない。クーデターというのは、倒れないだけの力があるものに対して使う軍事行動だ。どうしようもない哀れな者たち相手にクーデターなんて必要ない。我々は貴様らのような自殺願望者を相手に、国を巻き添えにするのはよせ、愛国心があるなら国を自滅させず、他国に逃れろと選択を与えたいだけだ」
ピノチェット将軍は、椅子から身を起こすと、前屈みになり机に寄りかかった。
「今日、君に来てもらったのは、哀れなアジェンデにその選択を伝えてもらいたいからだ。無駄な希望を抱くなと伝えろ。彼が信じて・・・いや彼だってバカではない、もう信じてなどいるまい。彼は、これまでにやったことが無駄ではなかったという希望にすがりついているだけだ。アジェンデに伝えろ、民衆という羊は軍の力に怯え震えて小屋に隠れている。今なら生命は保障する。好きなところに逃がしてやる。多少の金だって持ち出して構わない。それが彼にとって現実的な最高の選択肢だ」
将軍の声は独り言のようだった。誰かに話していると言うより、それは相手にする必要もない者に対して、仕方なく話しているような声音だった。
「将軍、あなたの大統領に直接伝えたら如何ですか。あなたは現政権の閣僚だ。まだ大統領の命に従う義務がある」
「愚かなことを言うな。わしは迷惑しているのだ。前任のプラッツ将軍がやるべきだったことをわしは代行させられている。よいか、軍人のプラッツだって逃げたのだ、民間人のアジェンデが逃亡したって誰も彼が卑怯者だとは言わない。アジェンデのそう伝えろ。マヌエルといったな、お前の役目は伝書鳩としてアジェンデのところに飛んで行きわしの言葉を伝えることだ。良いか、これはいわば慈悲だ。お前たちは国民投票を行うというが、それは許さん。返答は明後日の正午までだ。それ以降は返事などいらん。我々はやるべきことをやるだけだ。そう通告しておこう」
マヌエルは身を乗り出した「国民の意思を恐れているのですね」
「マヌエル。お前は愚かなうえに無知なようだ。いまさら国民の意思を確かめて何が変わる。民衆に略奪の動機を与えるだけだ。つまり今までと同じようにこの国をみっともない無秩序に陥れるだけだ」
「将軍、その無秩序をアジェンデ大統領のせいにするのですか。それは、あなたがた軍や大企業、いや、その後ろに隠れて搾取しているノルテ・アメリカーノの責任ではないですか」マヌエルの瞳には怒りが宿っていた。
「お前たちは、議論で勝てば国を良くできると思っているようだ。未来は知らんが、現在は、お前たちのように理想郷を夢見る連中は国民を飢えさせるだけだ。そういう理想は国が栄えてからにしろ。マヌエル、お前と議論をする気はない。問題を解決する可能性もない議論は無駄だ。もう一度言うが、お前の役目はヘネラル・ピノチェットから直接聞いたことをアジェンデ大統領に直接伝えることだ。」
ピノチェット将軍は冷笑を浮かべていたが、マヌエルはさらに激しく言った。
「民主的に選ばれたチリの大統領をクーデターで倒すことは、民主主義の否定です」
「マヌエル、クーデターと呼びたければそれでも構わんが、選挙だけが体制を変えるのはではない。過去の歴史の多くは力による体制の変化だ。民主主義なんて、体裁だけを装った愚衆政治だ。民主主義が世の中を素晴らしくできるなんて、どこの国が実証できる。ヨーロッパか?彼らは民主主義を唱えながら王室を存続させるという矛盾を続けている。アメリカか?あの国は王室がない劣等感を民主主義に置き換えているだけだ。第二次世界大戦が終ってまだ三十年すら経っていない。いいか、民主主義というのはまだ実験中の政治システムだ。しかし、結果は判っている。」
ピノチェット将軍は両拳を顎の下で握りしめ、熱を帯びた話し方になっていた。
「民主主義は体制を選んだのは民衆だというきれい事にすぎない。表向きを取り取り繕っているが、どうやって民衆に選ばれた。選挙で多数を取ることが何故正当なのだ。いいか、世の中には階層が必要なのだ。階層を選挙で選ぶか、力で選ぶか、相続するかの違いだ。我々の上に全能の神と云うのが存在するなら、階級の最上階に神がいる。人々は全能という神の力に無条件に従っているだけだ。信仰ですらそういうものだ」
「・・・・・・」
「階級の底辺には貧乏人や無能な者が群れている。頂点の指導者と、底辺の中間には個というものを持たない要領のよい者が上にへつらい、下に威張りくさっている。それは我々軍人だろうと、社会だろうと、仕組みは同じだ。その仕組みは効率的で、社会はその仕組みがなければ機能しない」
ピノチェット将軍の顔は上気したように赤くなり、言葉は政治演説のように熱を帯びていた。それは彼がその言葉を信じていることを示していた。
「教えてやろう。政治は思想ではない。政治のコツは民衆という家畜に餌を与え、ほどほどの満足を与えることだ。それが国を安定させる。左派の連中は革命という言葉を好むが、革命は思想という頭で起こすものではない、腹だ、腹を空かした民衆が餌を求めて革命を起こすのだ。きれいごとではない、食えなければ死ぬしかないのだからだ。だから必死になる。体制側が持つものを喰い尽くすために襲い掛かる。それがロシア革命であり、フランス革命だ。高尚なユートピアを作るための革命など存在しない。」
「・・・・・・」
「わしは民衆の支持などいらん。アジェンデの失敗は民衆に直に接したことだ。貧乏人は金を要求する。小さな金だが際限なく永遠に要求する。いくらあっても足りるもんではない。貧乏人は国を食いつぶすまで永遠に食う。欲というものはイースト菌と同じで簡単に膨らむものだ。膨らんで食うものが足りなくなると不満を持つ。そして膨らんだ欲が破裂して、勝手なことをやりだす。それが貧者だ、いまのチリだ」
ピノチェット将軍は言葉を切って、息を整えるように椅子の背にもたれた。青い目がマヌエルからわたしに移った。
「なにか言いたいことがあるようだな。ハポンシート」
「ええ、将軍は民衆の支持がなくてもこの国の統率ができると思っているのですね。すると、将軍は後世で、悪人の汚名を着るかもしれません」
「ハポンシート。お前の質問は現実的だ。だから理解できるだろう。まあ、見ていろ。馬鹿な人間には善悪の区別がつかない。欲だけが見苦しくつっぱっている連中だ。悪人というのは、その馬鹿な人間を使うことができる者を指すんだ。アジェンデはちっぽけな道徳観が邪魔して、 馬鹿な人間を使うことができず、気がつけば、逆に彼らの欲に使われ振り回されているのだ」
「すると、あなたは自分を悪人だとおっしゃっているのですか」
「いや、わしは悪人にもなれると言っているんだ。ハポンシート」
「将軍。あなたの思い通りにことは運ぶかもしれない。あなたは誰の力も借りず、誰の評価も必要としない。あなたを滅ぼすのは、多分、あなた自身でしょう。我を忘れたあなた自身でしょう」
ピノチェット将軍は、また椅子の背にもたれ、これ以上話すことはないというふうに目を閉じた。そして「マヌエル。わしが言ったことをくちばしに咥えて持って行け。さあ、もう帰ってよい。そっちのハポンシートもだ」と、冷たい言葉で最終通告を言い渡した。そして、「送ってやれ」と、カルロスに命令した。

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