第五章、サンティアゴ・デ・チーレ 1973年9月 Ⅱ
ベアトリスと名乗った女性は、スミレ色のワンピースの上からグレイのカーディガンを着ていたが、空港の外に出ると吹き付けた風に寒そうに両手を胸元で組んだ。そして、駐車場に停まっていた数台の車の中にあった小さなプジョーに案内すると、助手席に乗るように言って、運的席に乗るとすぐに車を出したが心配事があるのか、走り出しても遠くの暗闇を見つめていた。
「大丈夫ですか」
「え、どうして。ああ、お腹ね」
「いや、そうではなくて。でも何カ月ですか」
「妊娠八ヶ月よ。実はここに来る前に産婦人科に検診に行っていたの。それで遅れてしまったの、でも順調よ」彼女はそう告げてお腹の上にそっと手を添えた。
「では、心配事は別のことなのですね」
「ごめんなさい。色々あってなかなか集中できないの」
「アジェンデという姓は、サルバドール・アジェンデ大統領のご親戚ですか」
「ええ、娘です」
私は驚いて彼女を見た。ベアトリスはそれに気づいて恥ずかしそうに笑った。
「そんな大げさなことではありません。実際には父の雑用係みたいなものですから」と言った。
「アレハンドロはなぜあなたを知っているのですか」
「・・・・・・」ベアトリスは答えぬくそうに躊躇した。
私はアレハンドロと自分の関係を先に話すべきだと思った。
「僕はボリビアでアレハンドロとチェ・ゲバラの死について調べていました・・・・」
そして、サンチャゴ市内に向かう車の中で、ブエノス・アイレスからサンタクルスまでのことをかいつまんで話した。
語り終えると、ベアトリスは「では、トーマは、彼がエルネストなのかアレハンドロなのか断定できるのね」と強い口調で訊いた。
驚いて彼女を見ると「どっちか確認できたの」と言って、前方の闇から一瞬わたしに視線を移した。
「・・・・・、いえ、確認していません。彼が『自分はアレハンドロだ』と告げただけです」
「そう、なら私たちと同じね。だけどあなたはエルネストとアレハンドロの二人に会ったことがあるでしょう。二人に会った者は少ないの。父も私もエルネストには会ったことがあるけどアレハンドロには会ったことがなかったの、それに、67年に生き残って、クーバに帰ったタンボやウルバーノ、ベニグノたちもアレハンドロのことは一言も話さなかったわ」
「あなたは、どちらだと思いますか」
「解らないわ。でも父のサルバドールはエルネストであることを願っているわ。でも、いまのところは生き残ったのはアレハンドにしておきましょう」
「それは、アレハンドロにとって辛いことだと思います」
ベアトリスは一瞬黙ってしまったが「そうね、自分でない者が生き残って欲しいと願われては・・・気が付かなかったわ。トーマ、あなたは優しいのね」
それからベアトリスは黙ってしまい、その寡黙を破ることはためらわれた。
サンティアゴの闇にベアトリスの白い顔が映っている。肩より少し長い髪をこげ茶のバンドで後ろにまとめているので横顔がよく見えた。少女らしさが残った瞳は瞬きもせずヘッドライトの先の暗やみを見つめていた。彼女の唇をきつく結ばせているのは決意なのか、不安なのだろうか。ベアトリスはサイドの窓を少し開けた。冷たい風が車内に乱入した。
「ごめんなさい。少し気が重いの」
「ずいぶん心配事が多いのですね」
すると、ベアトリスは苛立ったように「あなたは今のチリがどのような状態なのか知らないの。7月にはバルパライーソでクーデター未遂があったわ。アメリカはチリを痛めつけるために銅の在庫を放出して国際価格を下落させたわ。キリスト教民主党は裏切るし、ブラッツ将軍が辞任して、父はやもえなくイキケの刑務所所長だったピノチェット将軍を任命したけど。私にはあの男が信じられないわ。」と、吐き出すように強い口調で言って、そして「ごめんなさい。不安なの、チリも政府も、そして父も、このお腹の中の子がどうなるのか、全部不安で、不安でたまらないの」と声音を弱々しく落とし、また沈黙の部屋に入って鍵をかけた。
私の脳裏に「あの国の導火線には火がついている」という石井のセリフがよぎった。
「・・・・・・・」
「ごめんなさい。あなたは外国人よね。これは私たちチリ人の問題だわ。だけど、なぜこんな時にこの国を訪ねるの?チリはいま誰にも構っているひまなんてないの。この国が、自分の家族がどうなるのか心配していないチリ人なんて一人もいないわ」
ベアトリスの言葉に含まれているのは、チリに関係のない私のような外国人が物見遊山的にここにいることに耐えられないという苛立ちだった。
私はサンタクルスを発つ時に感じた期待感が罪悪感に変わっていくのを覚えた。
「すみません。この時を選んだのではないのです。この時に僕がチリを訪問したのは偶然で、そして、アレハンドロはアジェンデ大統領を助けることができる可能性があると話していました。ですから来たのです。役に立てれば良いのですけど」
ベアトリスは驚いたようにブレーキを踏んだ。車を道路脇に停車すると、落ち着かすようにハンドルを握ったまま深呼吸をした。
「では、彼はやっぱりエルネスト、エルネスト・チェ・ゲバラなのね」と嬉しそうに私を見て笑った。
「・・・・・」
「ねえ、そうでしょう。彼ならチリの民衆をまとめることができるわ。アジェンデに力を与えるわ。アジェンデを倒そうという勢力の力を確実に削げるわ。七年前にボリビアで死んだと言われているあの男を覚えていない者はいないわ。彼は英雄だわ、このチリでも」
彼女は救いを求めていた。しかし、私は答えられなかった。黙っている私にベアトリスは次第に笑顔を消して不安そうに「違うの?エルネストではないの?」と訊いた。
「その答えはさっきと同じです。僕には分かりません。彼が、つまりアレハンドロですが、彼のいう可能性とは書簡なのです」
「書簡?」
「ええ、そうです。我々はチェが殺されたイゲーラ村の近くで、その書簡を回収したのです」
「書簡、何の書類なの?それがどうしてチリを、父を救えるの」
「その書簡は、もともとアジェンデ大統領がマイアミの協力者から手に入れて、チェに渡したものだそうです」
「ねえトーマ、分かるように説明して。どういうことなの。あなたはそれを読んだの」
「ええ、読みました。でもそれがなぜチリを救えるか分かりません」
「どうして?読んだのでしょう?そこにはチリのどういうことが書かれてあったの?」
「ぼくが分からないのは書かれてあったことではなく、チリのことです。すみません。ぼくはチリの情勢を知らないのです」
ベアトリスは、しばらく私を見つめていた。そして、もう一度深呼吸をすると、ゆっくりと車を車道に戻して走らせた。その横顔は政治家の秘書ではなく、父親を心配する普通の娘でしかなかった。
サンティアゴ市内に入ってもベアトリスは寡黙のままだった。市内の明かりが増えオギンス大通りに入ると、ふと気づいたというふうに「アレハンドロはなぜトーマをサンティアゴまで同行させたのかしら」とつぶやいた。
信号機が赤に変わり、プジョーが止まった。プラカードを持った大学生らしい若者たちが道路を渡りだした。先頭の男が「ビーバ、チーレ。ビーバ、アジェンデ」と叫ぶ。後の続くものが「ビーバ、チーレ。ビーバ、アジェンデ」と復唱する。ベアトリスは、それを黙ってみているだけだった。まるで彼女には若者たちのシュプレヒコールが届かないかのように、あるいは父を支持するその叫びにすら怯えるかのように彼女はハンドルを握った手に強く力を込めていた。
「カトリカ・デ・チーレ大学の学生たちよ。ほら、そこが大学なの」
若者の一人がベアトリスに気づいた。
「オーラ、ベティ、応援しているよ。アジェンデ大統領によろしく」といって、車の窓から数名の学生たちが彼女に握手を求めた。
「ありがとう。あなたの声はモネダまで届きそうね」といって、不安そうな顔を笑顔に変えて微笑んだ。
車はゆっくりと夕暮れのオギンス大通りを走っていた。サンティアゴの街は不思議なほど静かで、街灯が灯りはじめた歩道を歩く市民にも落ち着きがあった。右側に広場のある白い建物が見えてくるとベアトリスは車を更に減速させ「あれがパラシオ・デ・モネーダ。モネダ宮殿。つまり大統領府よ」と、ゴシック建築の建物を目で示した。
広場の奥にモネダ宮殿の白壁が街灯に反射していた。もとは造幣局だったという基本的な知識しかなかったが、三階建てほどの高さしかなく、そのせいか建物は横に長く、壮大な印象を与える建物ではなかった。すでに夕暮れは夜に変わって暗くなっていた。大統領府の上階の窓は殆ど明かりが灯り、衛兵らしき者たちの影が外灯の下で身動きもせずに立っていた。ベアトリスは視線を前に戻しアクセルを踏んだ。私は通り過ぎていくモネダ宮殿を追うように眺めた。なぜか、カーサ・デ・モネーダは力を失って夜の中に闇に飲み込まれる老人のように感じた。襲い掛かる悪霊を跳ね返す力もなく、恐怖と不安という二重の闇に包まれていた。
ホテル・ディエゴ・デ・アルマグロはモネダ宮殿を過ぎて、三つ角先の同じオギンス通り面していた。
「あそこよ、あのホテル。アロハンドロたちは不在だけど」
「きっと行き先も告げずにいなくなったのですね」
「ええ、そうです。どうして知っているの?」
「いつもそうですから。アルの常套手段です」
ホテルの玄関に車を停めると、ベアトリスは「ごめんなさい。アレハンドロから、あなたと一緒のところをあまり人に見られないように言われているの。だからここで失礼するわ」と言って、申し訳なさそうに謝った。
「ええ、その方が用心になるでしょう。僕にとってもあなたにとっても」
ベアトリスは、それを聞いて不思議そうに私を見た。
「トーマは、アレハンドロが来なければ、あるいは私が迎えに行かなければどう行動していたの」彼女の口調には好奇心があった。それが、大統領秘書官としてなのか、女性としてなのか判断はできなかった。
「僕には選択肢がなかったのですから、必ず誰かが来ると信じるしかありませんでした」
「そうね。実に明快な答えだわ。選択肢がないときは結論がひとつしかなくて迷うことがないのね。アレハンドロはまだ戻っていないと思うわ。あなたに『ホテルで待つように』と、伝えてくれと頼まれたわ」
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