第五章、サンティアゴ・デ・チーレ 1973年9月 Ⅰ



 入国審査官はパスポートをめくり「ハポネスだね。どこからだ?」と、横柄に訊いた。
「ボリビアです」
「ボリビアね。それで、入国の目的は何だね」
「観光です」
審査官は視線を上げてわたしを見た。そして唇端をわずかに歪め、バカなことを聞いたというふうに冷笑した。
「観光だと。サンティアゴで何を観光するのだ。ストライキか?それともメルカードに並ぶ市民の買物行列か。インフレ率500パーセントという数学を学びに来たのか。いいかね、今のチリに観光できるものなんてなにもない。若いの、忠告するが、できるだけ早くチリから出国することだ」そう言うと、それ以上訊ねることもせず、パスポートに『7日間』という短期滞在期限の青いスタンプを押した。

予感はあった。しかし、実際にアレハンドロとマルセーロが来ていないことを確かめると、大きなため息をついた。そして急にリュックの重量が増したような気がして担ぎなおした。
―こんなもんだろう―と、思ったが、「心配するな。迎えに行くから」と、陽気な口調でサンタクルスのトロンピーリョ空港を発った二人からサンティアゴでの連絡先を聞いていなかったことを後悔しながらプダウェス空港の到着待合室を出た。
空港の建物の外に出るとジャンパーの胸元に冷たい風が吹きこんで膨らんだ。サンティアゴの九月はまだ冬だった。その冬空を見上げると、まるで大きな黒い鳥が翼を広げたような不吉な雲が空を遮り覆い被さっていた。上着の襟を立て、ジッパーを首元まで閉めさせたのはその不吉な予感だろうか、それとも不安に怯えた心だろうか。どっちでもそう変わりはなかったが、サンティアゴに来たことを後悔しながらも期待を抱いたのはなぜだろうか。

バス停の方向に歩き出してからーぼくは何処に行こうとしているのだ。空港を離れたらアレハンドルたちはどうやって僕を見つけるのだろうかー
そう気付いて立ち止まった。そしてーひどい仕打ちだーと、思って呟いたが、見捨てられることはないだろうというたったひとつの希望に期待して空港に踵を返した。

空港の到着待合室に戻ると、誰もいなくなった広々とした空間に寒々と空席のベンチが並んでいた。そのひとつに腰掛けると、冷たい感触が伝わり、ー甘いぞ、来ない可能性だってあるぞーという声が内側から皮肉っぽくささやいた。不安になってもう一度外に出てみようかと迷い始めていると、黄色のスカーフで髪を束ねた女が現われ、トイレに入り、そこに用具室があったのだろうかバケツとモップを持って出てきた。女は不審そうにちらっと私を見たが、モップをバケツに突っ込み、びしょびしょに水に濡らすと床の掃除を始めた。人気のない冷たく静かな空間にはバケツの水音とモップが床を擦る音しか聞こえてこない。待つこと以外に成すこともなく、わたしは組んだ両手の甲の上に顎を乗せて掃除をする女を見ているしかなかったが、この寒さと静けさの中に一人でいるよりは少なくともましだと思った。
そして、アレハンドロから渡されたエルネスト・チェ・ゲバラの手紙を思い出してバック中から取り出した。まだ封の切られていない封筒をしばらく見ていた。なぜ、アレハンドロは私に渡したのだろうか。もし、彼がアレハンドロでなく、チェだとしたら、彼は私に何を託そうとしているのだろうか。しかし、この寒々とした空港でゲバラの手紙を読むことをためらい、もういちどバックの中に戻した。

風が強いのか、空港のドアは時々開いてはバタンと閉じる。ドアから入ってくるのはスール風と不安。そして、ドアから逃げていくのは希望と期待か。
誰かが捨てて行った新聞が風で開いたドアの隙間から入り込み、床を伝って足元まで飛ばされて来た。それを拾って手にすると、踏みつけられて靴跡のついた紙面のトップに「陸軍総司令官アウグスト・ピノチェットが我が国の陸軍総司令官に就任」という見出しと軍服を着たアウグスト・ピノチェットというヘネラルの写真が掲載されていた。

写真の男は指令を出すことに慣れたふてぶてしいヘネラルの威圧を備えていた。軍人らしく裾だけを短く刈った髪をていねいに後ろに撫でつけ、黒く長い眉の下にはヨーロッパ系の証である美しいブルーの瞳が遠くを見るように細めていた。そして、薄い口髭の下の厚めの唇にはその男の頑強な意志が現れていたが、そのブルーの瞳の奥に冷たい湖水に触れたような寒気を感じさせた。

記事を読み始めようとすると、いきなりドアが開き、強い風が吹きつけ読みかけの新聞を千切れるほど煽った。そして、開いた時と同じようにいきなり大きな音を立ててドアが閉まり、風がやむ。吹きつけた風が強かっただけに風が止んだ後の静けさは不気味ほどだった。
私の不安を感じたのか掃除婦が手を休めてモップの柄に寄りかかって訊いた。
「ケパーサ・ホーベン」
私は話しかけられたことが意外ですぐに答えることができなかった。
「スペイン語は話せるの?」掃除婦は不安そうな声で訊いた。
「ええ、話せます。友人を待っているんです」というと「ムヘール?」と訊いて女は微かに笑った。
「いえ、アミーゴです」
「アミーゴなんて、そんな長い時間待てるわけないわ」と言って、今度ははっきりと笑った。
「ありがとう」
「え、なにが」
「いえ、あなたがチリで最初に話したチレーナです」
「まあ、光栄だわ。それで、どこから来たの」女は親身になって訊いた。
「ボリビアです」
「そう、で、待ち人が来なかったらどうするの。あなたチーノ?」女の瞳には好奇心が宿っている。
「いえ、ハポネスです。来なかったら、ともかくサンチャゴ市内まで行ってみます」
「そう、でもセントロはここから遠いわよ。それに、さっき出たバスが最終で、後はタクシーだけしかないわ。料金が高いけど大丈夫?」気づくと女は思ったより若かったが、それでも束ねた長い髪の横には幾筋が白いものがあった。女はモップをもう一度バケツの水に浸しバシャバシャと音を立てながら「タクシーだけでないわ。この頃は何でも高いの。高いだけでなくてサンティアゴには何もないわ。パンすらなくなって、アジェンデ大統領のせいだという人もいるけど、彼は私たちために必死に働いているわ。それに彼ひとりでそんなにたくさんパンを食べるわけがないでしょう。」と言ってクスクス笑った。

「・・・・・」
ドアが開いた。今度は風ではなく、人が入ってきたことがはっきりと分かるような開き方だった。そして、ドアの方を見ると、慌てたように女性がひとり駈け込んで来た女性がわたしをみて安堵したように胸で吐息を吐き出し、近寄って来た。
その女性を見て掃除婦が「アミーゴね。あのお腹は何カ月?」と、片目をつぶって今度はニヤっと笑った。

「トーマさんですか」
「そうです」
「私はベアトリス・アジェンデ、アレハンドロから頼まれてあなたを迎えに来ました。遅れてすみません」
「いえ、それで彼らはどうしたのですか」
「ともかくホテルに案内しますから。訳は車の中で説明します」
「わかりました。ありがとうございます」リュックを担いでベアトリスの後を追いながら、掃除婦に「ありがとう、親切にして頂いて」と言うと「あんた、あのセニョーラ知っているの。わたし、テレビでしか彼女を見たことなかったわ」と目を丸くした。そして「ホーベン、あんた誰?」と質問を重ねたが、答えを求めているようではなかった。

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