樹影の下で 第四章 サンタクルス・デ・ラ・シエーラ 1973年8月 ⅩⅦ
二日後、アレハンドロは朝食も取らずにサンチャゴ行きの航空券を手に入れると言ってトロンピーリョ空港に出かけて行った。マルセ-ロはまだ寝ているのか彼の部屋からは物音がしない。
私は「セントロに行く」と伝言を残し、静かに扉を開けてドン・セーサルの屋敷からそっと外に出た。さわやかな朝だった。空気は新鮮で、空が高く、青空の下で町は静けさに包まれていた。通りには人通りも少なく、それは静寂というより平穏という風景そのもので、朝日に反射した砂地の道路が白く輝いていた。わたしはバスを停めて「セントロに行くか」と運転手に訊ねると「バーモ」といって乗せてくれた。
バスはレネ・モレノ街をゆっくりと走ってカテドラルの東側に停まった。そこが終点のようですべての乗客が降りて、多くの者はカテドラルの脇にある小門から聖堂に入って行った。わたしは迷いながらも人々に続いて聖堂の中に入った。
朝のミサはすでに始まっていた。私は袖廊の壁に寄りかかって、神聖な思い出に意識を向けた。あのクリチーバの大聖堂から今日に至るまで、教会はアントニーナを想う聖なる場所となっていた。
ミサが終わると、わたしはカテドラルの正門からベンティクァトロ・デ・フリオ公園に出るため階段を下りた。頭上ではカテドラルの鐘が鳴っていた。クリチーバのカテドラルの鐘を聞きながらアントニーナの手を取って走った日が取り戻せない遥かな日であったかのようで懐かしく切なかった。
ミサの後の公園は晴着を着た家族連れで賑わっていた。わたしはその賑わいを楽しみながら公園を斜めに横切りリベルタ街に向かって歩きだした。歩きだした時には明確な目的はなかったが、朝食をとらなかった空っぽの腹がこの通りにあるはずのカフェを思い出させてくれた。記憶では日本人が経営しているカフェ店で、サルテンニャという焼きパイが美味いという評判だった。歩いている間に空腹がそれを目的に変えた。
カフェ東京という看板はすぐに見つかった。記憶していたように公園からそう遠くないブエノス・アイレス街とフロリダ街の中間にカフェはあった。サンタクルスの旧市街にひしめいている古いアドベ家屋のひとつで、少し軋む木のドアを押して中に入ると、身なりのいい初老のアベックが日当たりの良い窓際のテーブルを占領していた。奥のテーブルは朝日の陰でよく見えなかったが、ひとりの男が雑誌を読んでいた。
わたしは入口に近い席に座った。すぐに丸顔のウェイトレスが近寄ってきたので「サルテンニャふたつ、それからカフェ」と、注文した。そして戸口から外を眺めると、充分に昇りきった朝日で暖かくなった町は通行人も増えて華やいだ雰囲気に満ちていた。
そう待たされることもなく注文したサルテンニャはテーブルの上に置かれた。サルテンニャは肉や野菜を香辛料と一緒にして煮込んでパイ皮に包んで上をよじって窯で焼く。カリッとしたパイ皮の中からこぼれる煮汁が香ばしい。
ひとつ食べ終わって、もうひとつに手を出そうとすると、コーヒーが運ばれて来て「どうぞ」という日本語で勧められた。視線をあげると不安そうな小柄な日本人女性が傍らにたっていた。
「あなた、日本人でしょう?」彼女は心配そうに訊ねた。
「ええ、そうです」
「わたしはこのカフェの店主だけどね、あんたはどこから来たの。日本から?」
「・・・・・・」
「あの奥に座った男ね、ここは日本人がよく来るかと訊いていたけど、誰かが入って来るたびに薄気味悪くじろっと見てさー。あんたも気をつけなさいよ」
女性は沖縄方言なまりで親切そうに注意し、もっと話したがっていたが、奥の男が気になるのかテーブルを離れた。
それを待っていたかのように、その男は立ち上がると筋肉質の身体と訓練された者が持つ特有な俊敏な動きでわたしのテーブルに近寄ると、傍に立って見下ろして言った。
「あんた、トーマという名か?」
「・・・・・」
「どうやら俺は運が良いらしい。大尉の命令でも今日一日中こんな処に座っているのは退屈だと思っていた。うわさ通り日本人は勤勉らしい、あんたがその勤勉者で朝一番に来てくれて助かったよ。」
「・・・・・」
「大尉からの伝言だ。『ここで待っていろ、逃げ出すようなことはするな。悪いようにはしない』それだけだ。さあ、俺の任務は完了だ」
「あなたは軍人ですか?」
「俺が他の何に見える。俺はエステバン軍曹だ。これは俺からの忠告だが、大尉の伝言は守った方が良いぞ。すぐに大尉がここに来る」エステバン軍曹は念を押すようにそう言って店を出て行った。
エステバン軍曹が出て行くと、日本人女性が心配そうに近づいて来た「大丈夫?どうしたの、何か問題でもあった?」
「いえ、知り合いからの伝言を届けに来ただけです。直にその知り合いが来ますので、しばらく待たせて下さい」
「・・・まあ、問題がなければいいけど、あの男は軍人でしょう。普通ではないようだから気を付けなさい」
「大丈夫です。ご迷惑はかけません」
皿に残ったサルテニャはもう冷えていた。食べる気もなくなりコーヒーを飲んだ。待つべきか、それともアレハンドロに報告してサンタクルスから脱出すべきだろうか。アレハンドロはもう航空券を手に入れただろうか。様々な選択肢が私を迷わせた。しかし、迷いはあったが不思議と不安はなかった。それはパーティで笑ったプラド大尉の印象が残っていたからだった。―大尉は軍人だ。それにゲバラを捕らえたほど有能な軍人だ、あの夜のアレハンドロに見覚えがあるというほど勘も鋭い―という小さな不安も芽生えた。
わたしは逃げ出すことも考えたが、すぐにその考えを放棄した。それはプラド大尉の抱いている疑惑を裏付けることになる。また、エステバン軍曹が残して言った伝言の最後は確か『悪いようにはしない』だったはずだ。それを信じるしかなかった。
プラド大尉は、そう待つこともなくカフェ東京のドアを開けて入ってきた。今朝は白いシャツの胸元を開け、長袖を一折りして着ている。髪も軍服を着ていた時のようにきれいに櫛を入れていなかった。町に散歩に出たついでにカフェに寄ったという雰囲気だった。
「待たせたな」そう言って、プラド大尉は口元をゆるめて笑った。その笑みを見て私は覚悟を決めた。
「いえ、あの晩、大尉に正直に話していれば、今朝はご足労かけませんでした」
プラド大尉の視線が厳しくなり、そしてしばらく黙していたが、その口元に先ほどと同じ笑みがまた浮かんだ。
「ここに来るまで、私は君たちをどうすべきか悩んでいた。しかし、その言葉で決めたよ。六年前と同じことは繰り返えさない」
「・・・・・」
「実は、結婚式の後、バリェ・グランデの動きを調べさせた。すると気になる報告がいくつか届いた。トーマという名の日本人がマルタ病院を訪ねたこと。また、同じ頃バリェ・グランデには二人のアルへンティーノが滞在していた。その二人のホテルをトーマ、つまり君たちが訪ねたこと・・・そうだ、君は美しいアルヘンティーナと連れだっていたらしいが、その女性はどこへ行ったのだね?」プラド大尉は子供のような好奇心をのぞかせたが、すぐにそれを消した。
「まあ、女性のことを問題にするのは野暮だ。ともかく、バリェ・グランデからそういった報告が届いた。そして、あの結婚式の後、招待者に聞き込みをしたが、あの夜の結婚式には身元の分からない者、パラカイディスタが七人いたようだ。そして最後まで身元が分からなかったのは君と、そして君の傍に腰掛けていたアルヘンティーノ。それからノビアと踊ったもうひとりのガウチョだけだった。二人のアルヘンティーノはバリェグランデにいた二人とそっくりだった。そのふたりが君と結婚式に現れる。それにプカラ村から来たシラー神父とチェ・ゲバラを逮捕したわたし。こんな偶然はありえない。それで、日本人が来そうな店を見張らせたわけだ」
「・・・・・・」
「私は、あの男に見覚えがあると君に言った。その答えはバリェ・グランデから届いた『大尉、その男はチェと似ていたそうです』という報告だった。わたしは最大のミスを犯し、うっかりと見過ごすところだった。結婚式に来た男はチェのような鬚はなかった。しかし、あの夜、あの男の顔が影で隠れる度に記憶の底から湧き出てくるような焦りがあった。そう、あの男は確かにチェに似ていた。いやうりふたつといっても良いほどだ。これも偶然かね」
「・・・・」
「トーマ、私はエルネスト・ゲバラを捕らえたことを誇りになど思っていない。いや、後悔に近い想いさえある。その想いが、君たちにチャンスをやれ、救えっと言っている。トーマ、ボリビア陸軍は警察と協力して、これから四十八時間以内に、サンタクルスからアルゼンチンに向かう道路を封鎖する」
「アルゼンチンに向かう道路?」
「そうだ、カミリ村からビリャモンテ村に向かう道路は封鎖される。そしてヤクイバ村の国境は完全な検問が敷かれる。ゲリラの仲間と疑わしい連中がアルゼンチン方面に逃げたという情報があったからだ」
「それは、あなたが流した・・」
プラド大尉は話を中断すると、カウンターから心配そうにこちらを見ていた日本人女性に手を挙げた。そして彼女が近付いてくると「カフェをくれるかね。君ももう一杯どうかね」と勧めた。
カフェがテーブルに置かれるまでプラド大尉は話を続けようとはしなかった。そして日本人女性が心配そうに立ち去ると胸ポケットから煙草を出して火をつけ、ひと息喫ってから話だした。
「君たちがどういう目的があってバリェグランデを訪ねたのか知らない。チェの死体を探すというミステリーにかぶれたのかもしれない。しかし、今さら何かが変わることはない。チェは死んだのだ。そしてチェの死後もキューバがボリビアに関心を持ち続けることはないだろう。君たちはペルーだろうが、ブラジルだろうが、四八時間以内にボリビア国境を越えることだ。今なら問題ない」
「しかし、空港は検問が敷かれているだろうし、陸路でボリビア国境を四八時間以内に越えることは無理です」
「その通りだ。しかし、私に考えがある」そういって煙草を灰皿で消して、カフェを飲んだ「旨い、いい香りだ。日本人は何をさせてもうまい」と言って、もう一度カフェを飲んでから訊いた。
「君たちが結婚式に来た目的はシラー神父だろう」
「そうです」
「彼からチェの最後を訊きたかったのかね?」
「ええ、アレハンドロ、チェに似た男の名前ですが、彼はシラー神父がチェにミサを授けたとき生きていたという噂を確かめたいと言っていました」
「死んでいたよ」
「え!」
「チェだよ。間違いなく死んでいた。チェの死体をバリェグランデにヘリで移送した時、わたしは二度目のゲリラ掃討作戦を命じられてイゲーラにはいなかったが、チェはその前に死んでいた。それは私が確かめた」
「そうですか。やはりシラー神父に会うのは無駄なことでしたか」
「いや、無駄ではない」驚いてプラド大尉を見ると、彼は頷いて言った「君たちはシラー神父の協力で逃げるのだ」
「・・・・・」
「君が言った通り、四八時間で国境を越えることは無理だ。その後は他の国境警備も厳しくせざるを得ない。だから君たちの選択肢は飛行機以外にない」
「しかし、空港は・・・」
「だからシラー神父の協力が必要だ。シラー神父が所属するドミニコ会の会合がサンティアゴ・デ・チーレでまもなく開催されると結婚式で話されていた。わたしがシラー神父に頼めばアレハンドロたちはその会合に参加するドミニコ会の修道士として出国できる。ここはカトリックの国だ。それに行く先がアルゼンチンでなければ疑われることもないだろう。君は別にひとりで行くがいい、その方が安全だ。捜査の対象はアルヘンティーノであって日本人ではない」
私はその運命に唖然とした。またもや運命は必然的にわたしをチリに、サンティアゴ・デ・チーレに導いている。しかし、それをプラド大尉には話さなかった。
「それで、彼は誰だ?チェなのか、それともアレハンドロと呼ばれている別人か?」
「わかりません。私にもわかりません。ボリビア陸軍は、本人照合のためチェの両手を切り落としたそうですが、その結論は誰だったのですか」
「私は、情報部員ではなかったし、いまでもそうだ。軍人として国に忠実に仕えている。政府は死んだ男をチェだと発表した。その事実だけしかしらない。しかし、あの男はそっくりだ。バリェグランデにチェの兄弟が来たが、その兄弟でさえあれほど似ていない」
プラド大尉はすこし考え込むように煙草を吸って視線を外に向けた。それから肩をすくめると「まあいいか。あの男がチェで、私が捕えた男がチェではないとしても、私の任務は完了している。軍人は命令によって動くものだと言い訳しておこう」と言った。
ドン・セルヒオの屋敷に戻るとアレハンドロは戻っていたが憂鬱そうに居間のテーブルでカフェを飲んでいた。そして同じテーブルではマルセーロが朝食にしては大きすぎるビフェを切り刻んで口に運んでいた。
「どこに行っていた?」マルセーロが訊いた。
「プラド大尉と会って来ました」
アレハンドロはカフェのターサを置いた。マルセーロは肉を口に運ぶ動作を止めた。
「おい、わかるように話をしろ。誰に会って来たんだって?」
「プラド大尉。ガリ・プラド大尉です」
「やっぱりそう言ったのか」マルセーロはナイフを皿に投げ捨てるように置いて
「それで拷問にあって、その大尉殿が一個小隊を率いてここを囲んでいるのか?」と訊いた。
「いえ、逃げろと言われました」
「なぜだ?」黙っていたアレハンドロが訪ねた。
「大尉は六年前と同じことを繰り返したくないそうです」
「エルネストを捕らえた彼がそう言ったのか?」
「ええ、チェを捕らえたことを彼は誇りに思っていないそうです」
「そうか」と言ったきりアレハンドロは黙してしまった。
わたしはプラド大尉が話したことを二人に伝えた「僕の判断は間違っているでしょうか?」わたしは、アレハンドロの沈黙があまりにも長いので不安になって訊いた。
「いや、間違いは冒していないだろう。多分、それは大尉の本心だろう」それからアレハンドロは「あいつも浮かばれるだろう」とつけ足した。それが誰なのか訊いても答えてくれないだろうと思った。
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