樹影の下で 第四章 サンタクルス・デ・ラ・シエーラ 1973年8月 ⅩⅤ
私はホテル・コルテスに戻っても何もすることがなく数日を過ごした。アレハンドロとマルセーロは現れなかった。ふたりが現れないことに―これで普通の旅に戻れる―という安堵感が多少だが心の中に芽生えていた。―ボリビアの山中で起こったゲリラたちの死は、日本人の私が関わる必要のないことだ―という説明で自分自身を納得させようとした。しかし、その説明は明確でありながらも説得力がなかった。
そして、この複雑で危険なことに関わることに躊躇いを覚えながらも、サンタクルスで始まった物語はサンタクルスで終わりにしようと何度も決心を繰り返しながらも、物語を終止符まで読み終えたいという誘惑に胸が騒いで落ち着くことができなかった。
結局、わたしは待ちくたびれてサンロッケ教会に滞在しているというシラー神父を訪ねることにした。
サンロッケ教会行きのバスに乗った。バスはシエテ・カリェと呼ばれる雑然としたメルカードを通り過ぎ、人混みが少なくなったボリーバル通りとイシドーロ通りの静謐な住宅街の角で私を降ろした。
教会は、サンタクルスの町によくあるコロニアル風の家屋を大きくしたような造りだった。ただ、正面入り口の上には三重の塔があり、一段目と二段目は鐘楼で三番目は時計台だった。その上に小さな丸い屋根があり最後は十字架で終わっていた。教会のデザインはシンプルで、カトリック教会によくあるようなごてごてとした装飾は施されていなかった。淡いクリーム色に塗装され、茶色の線で縁取りされた壁は質素で清らかな印象を与えた。
突然、「ついて来てくれ」という男の声を聞いた。
教会を眺めていた私の横を通り過ぎたベレー帽の男が囁いた声だった。そして教会の右横の通りに入ると、その軒下を先に歩いて行った。
その後ろ姿はマルセーロだった。驚きと、そして嬉しさ、それから不安が交差した。私はしばらく立ち止まり、間を空けて彼の後を歩きはじめた。
マルセーロは振り向かなかった。町はスール風が吹いていたが、真夏のような眩しい陽射しは、緊張しているはずのマルセーロの後ろ姿をのんびりとした風景に変えさせていた。
マルセーロは、モンセニョール・サルバティエラ通りを市外バス・ターミナル方面に向かってゆるやかな坂を下っていた。私は彼と並行に反対側の歩道を歩きながら、マルセーロの後をつけている者がいないか確かめたが、ターミナルに近くなるほど人混みが増え、それらしき者を特定することはできなくなった。
マルセーロが突然角を左に曲がった。あっと思い道路を渡らなければと焦っていると、突然右腕を掴まれた「ここだ」腕を掴んだ男は右側の角を曲がった。
「アレハンドロ!」
「黙って」
彼は腕を離したが、油断なく辺りを見ながら早足で歩き、さらに右に曲がり、停めてあった車に乗った。それはバリェグランデに乗って行ったローバーではなく、ウィリーのジープだった。
「どこにいたのですか」苛立ちをこめて訊いた。
「後にしろ。マルセーロをピックアップしてからだ」アレハンドロはにやりと笑うと「アンドレアと別れたのか」と逆に訊ねた。
「どうせ知っているんでしょう。後をつけていたんでしょうから」わたしはさらに苛立って答えた。
「トーマ、からかっているんではない。アンドレアはああ見えても心のやさしい娘だ。俺はこのままふたりが一緒になって欲しいと思ったほどだ」
アレハンドロはジープをコチャバンバ街道の町はずれでUターンさせて停車した。
「アレハンドロ、メイを愛していないのですか。僕は今、アンドレアと別れ、そしてそれが感染したようにアントニーナとの別れまで思い出して悲しくてたまらない。あなたはメイを愛しいと思わないのですか。彼女を抱きしめたいと思わないのですか。平気なのですか!」
「トーマ、すまんな」
「あなたは誰ですか?アレハンドロ、それともエルネスト?」
「・・・・・・」
「なぜ、黙っているのですか。私にも話せないのですか。そうでしょうね、メイにさえも言わなかったのだから」
「メイは知っている」
「え!」
「マルセーロが着いたようだ」アレハンドロは視線を逸らして、対向から走ってきたバスが道端に停車するのを見た。
停まったバスには「コチャバンバ」と、行き先が手書きで表示板に書かれてあった。そのバスから誰かが降り、そして発進すると道路脇にマルセーロが立っていた。
マルセーロは暫らく佇んで辺りを確かめると、道路を渡って来て「よう、トーマ」と陽気に挨拶したが、私は答える気分になれなかった。
「何むくれているんだクンニャード。アンドレアがブエノスに帰ったのがそんなにショックか」マルセーロは車に乗り込みながらそう言った。
「ふたりとも、僕らがどれだけ心配したか分かっているのですか。それに僕はクンニャードではありません」
「すると、可哀そうに妹は弄ばれて捨てられたのか」からかうマルセーロに、私はむっとして黙った。
「こちらの訳は後から話そう、今は用心が必要だ。トーマ、どうしてサンロッケ教会を訪ねたんだ?」アレハンドロはジープを発進させた。
「すると、あなたたちはバリェグランデから付けていたのではないのですね」
「そうだ、我々がサンタクルスに着いたのは三日前だ。フリオ爺さんがアンドレアに誘われたことを自慢げに話しているのは伝言として聞いた。流石にトーマだよ。しかし、サマイパ―タに寄る時間が無かった。急いでサンタクルスに行き、シラー神父と合う必要があった」
「どうやって、シラー神父にたどりついたのですか、フェリペですか?」
「君はフェリペに会ったのか」アレハンドロは驚き、心配気に訊いた。
「いえ、危険だと思い会いませんでした」
「そうか、よかった」アレハンドロは安心したように息を吐き、しげしげとわたしを見た。
「どうかしましたか?」
「いや、それは君の才能だろうな。どうしてフェリッペが危険だと判った。あいつと接触していれば君たちの命はなかっただろう」
「マルタ病院のドクトル・アブラムを訪ねた時に見かけた男をニコラスが殺された現場で見ました。そして、セントラル教会でエルナンデス神父から、チェの遺体が無くなった晩、シラー神父とフェリペというマルタ病院の門番をしている男が軍用車から降りて来たと聞いたのです。フェリペの顔は知りませんでしたけど、マルセーロがバリェグランデで『アレハンドロは散歩に出かけている』と言っていたのを思い出して、ひょっとしてアレハンドロがその男を訪ねたのが原因でニコラスは殺されたのではないかと思ったのです。あの晩、フェリッペがシラー神父のお供でトラックから降りて来たのでなければ、軍の側についているという答えしか出ません。ですから会わなかったのです。アレハンドロはニコラスに会う前にフェリペと会ったのですね?」
「そうだ。そしてニコラスは殺された。フェリペはニコラスとマルタ病院を見張っていた軍のスパイだ。そうかフェリペはそこまで関与していたか」
「ニコラスを殺すより。あなたたちが来たことを軍に通報した方が簡単ではなかったのでは?」
「フェリペはホアキンたちを裏切ったロハスのように俺たちを裏切れば、キューバの組織に殺されるのではかと恐れていた。まあ、もっともらしく俺が吹き込んだのだが・・・。ニコラスもフェリペも二重スパイだが、異なっているのは、フェリペはニコラスの正体を知っていたが、ニコラスは知らなかったということだ。フェリペが恐れたのは自分の正体がニコラスにばれ、それが軍に伝わることだ」
「それで、アレハンドロと会えないように殺したのですか」
「そうだろう。彼が手を下したか、それとも軍に妙なことを吹き込んだのかもしれない」
「それで、彼らが裏切っていることをいつから知っていたのですか?」
「ニコラスはチェが死んだ時。フェリペは今回会った時だ。彼は我々をバリェグランデから追い払うため『シラー神父に会って下さい』と言って、早く行かなければ神父はプラカ村からイゲーラ村に行って、そこからカミリ村に行くと言って騙した」
「疑わなかったんですか?」
「勿論疑った。しかし、我々はバリェグランデに戻ってくるんだ。嘘を言ってどうする。しかし、ニコラスを殺して逃げるとは予想しなかった」
「それにしても、プラカ村ならもっと早く戻れたはずでしょう。イゲーラ村まで行ったのですか」
「そうだ。ボリビアに来るチャンスはこれが最後だろうからな」
「で、何か見つかりましたか?」
「着いたようだ。後にしようか」
そこはサンタクルスの南外れににあるエスタシオン・アルへンティーナに近い場所だった。駅の手前で左に曲がり、塀で囲われた屋敷の前でアレハンドロはクラクションを鳴らした。暫くすると鉄製の扉が内側から押されて開いた。そして車が中に入ると開いた時と同じように音も立てずに静かに閉じられた。
「ドン・アレハンドロ。旦那様がお待ちです」
扉を開閉した男は我々を屋敷に案内しながら言った。屋敷は平屋でそう大きくはなかったが、黒光りする太いタヒーボの原木を軒の柱にして、たっぷりとゆとりのある幅広の回廊が、夕刻の陽ざしの暑さを屋敷まで届かないように防いでいた。
その廊下にこれもタヒーボの木だろうか、重厚な木造りの椅子に老人が座っていた。
「ドン・セーサル」アレハンドロは老人に近づいて屈むとその手にキスをした。
老人は重そうな瞼を動かし「すると彼がトーマ君かね。無事でなによりだ」と言ってまた瞼を閉じたが「それでシラー神父には会えたかね」と訊いた。
「いえ、サンロッケ教会の前でトーマを見つけ、危険を感じて引き揚げました」とアレハンドロが答えると「その方がよい。6年前のことだ、今さら急ぐ必要もあるまい」と言って少し咳こんだ。
「旦那様、お休みになった方が」
老人は煩そうに手を上げ「それで、シラー神父はどちら側なんだ。教会も赤は嫌っていたから、神父といえども用心に越したことはない」と言った。
「分かっています。ですからシラー神父がサンロッケ教会に滞在していることは確かめましたが、安全であるか確認できるまでは接触しないつもりです」
老人は何度か軽く頷いた「では失礼します、ドン・セーサル」アレハンドロはそう言って離れた。
「あの方は?」案内された部屋に荷物を置いて訊ねた。
「ああ、彼はセーサル・フェレーロといって、イタリア系のアルヘンティーノだ。長いことサンタクルスに住んでいる」
「アル、イゲーラ村で何を見つけたのですか?」
「回収に行ったのだ」そう言ってアレハンドロは煙草に火をつけた。
「回収?何を」
「あの頃、つまり67年だ。我々はキャンプ地の他に、万が一に備えて物資や情報、金、武器などを地中に埋めた。その中のひとつは、エルネストは私にしか明かさなかった。それを回収して来た」
アレハンドロは唇から煙草を離し、ゆっくりと煙を吐いた。そして立ち上がり衣装棚に近寄ると中から古い擦り切れた布袋を引っ張り出した。
「これだよ。この中にはエルネストとフィデル・カストロが交信した書簡が残されている。これを見つけたらウーゴ・バンセルやリチャード・ニクソンという二人の大統領が喜ぶだろうが。奴らの手に渡す気はない」
「その書簡をどうするのですか?」
「フィデルに返そうと思うが方法はこれから考えよう。しかし、もっとやっかいな別の書簡も見つけた」
「なんですか?」
アレハンドロは黙って煙草の火を消し「マルセーロ、カフェをもらって来てくれないか」と頼んだ。
マルセーロはむっとして「私の前では話せない内容ですか」と怒った声音で訊いた。
「いや、そうではない。間を置きたいのだ。話すべきかどうか判断するためにな、君が戻って来るまで待っている」
「すみません。今もらって来ます」
「ウィスキーも少し頼む」
マルセーロはニヤっと笑うと「そうとう危険な内容のようですね」と嬉しそうに言って部屋を出て行った。
アレハンドロは二本目の煙草に火をつけた。
「アンドレアは素晴らしい歌手になる。俺は毎晩ミロンガで酔って彼女のタンゴを聞いていた。酒は心の痛みを忘れさせてくれたが、彼女のタンゴは忘れた痛みをもう一度思い出させた、俺は酔い潰れながらアンドレアのタンゴを呪っていた。あの娘の歌は心に沁みた。きっと素晴らしい歌手になる・・・どうして笑っている?」
「いえ、あなたが借りていたピーソの管理人のロクサーナが『好きな女の匂いの付いたものならハンカチ一枚だって捨てやしない』と言っていたのを思い出したのです」
「そうか、ロクサーナには申し訳ないがまだ家賃を払えない」
「いえ、彼女なら待ってくれますよ。アルが家賃を払いに来るのが待ち遠しいという喜びがありますから」
マルセーロは戻って来るとアレハンドロと私にカフェのカップを渡し「ウィスキーは戸棚にあるそうです。勝手に飲んでくれとドン・セーサルは言っていました」
部屋の中にはカフェの香りが漂った。沈黙はアレハンドロの決断を待っているささやかな催促だった。
「話すことにしよう。決断は君たちがそれぞれ下すことだ」アレハンドロはそう言って汚れたザックを見た。
「エルネストが交信していたのはフィデルだけではない。アジェンデ、サルバドール・アジェンデと連絡を取り合っていた」
「アジェンデ・・というと、チリのサルバドール・アジェンデ大統領ですか」
「そうだ、六年前はまだ上議員だった。その後、親米政権に民主的な選挙で勝利し、大統領となった。アジェンデはエルネストを信頼していたようだ。そして、ある書簡のオリジナルをエルネストに託した。その書簡はマイアミの協力者と呼ばれている人物からエルネストの手元に届けられた。その書簡の入った封筒に、アジェンデは『わたしは民衆による選挙で民衆によってチリの政権を取る。そして民衆のための真の政治を行う。この書簡は君がボリビアで使うか、あるいは君の夢であるラテンアメリカ解放ために使うか、それは君の判断に委ねよう』と書いている」
「・・・それで、その書簡はどんな内容のものですか?」
アレハンドロは返答をためらった。
「俺たちは何度か聞いている。オペラシオン・コンドルだ」と言った。
アレハンドロが言葉を切ると、部屋は沈黙に包まれた。気がつくと、誰もカフェに口をつけていなかった。冷めたカフェを飲むと苦さが口に広がり、不安の底で恐怖が蠢くのを感じた。
「マルセーロ、ウィスキーをくれないか」と、アレハンドロが言うと「ああ、俺も飲みたくなった。トーマ、どうだ」と、マルセーロが訊いた。
「いえ、僕は飲みません」
「こんな時も、つき合いの悪い奴だ」
マルセーロはグラスにウィスキーを注いでグラスをアレハンドロに渡し、思い出したように窓に近づくと外を窺った。
「すっかり暗くなっています。予定では例の場所でシラー神父と接触するために出かける時刻ですが、どうしましょうか」
「そうだな・・、予定通り実行しよう。トーマ、我々の情報ではシラー神父は今晩、ある結婚式の祭司を務める。我々はその場所でシラー神父と接触するつもりだ。この件は後にしよう。君も準備したまえ」
「しかし、僕は招待されていません」
アレハンドロはニヤっと笑った。
「俺たちもだ。サンタクルスの結婚式はパラカイーダといってな、招待されてない、関係もない連中が押しかけて来るのが習慣らしいから心配するな」と言った。
「パラカイーダ?落下傘ですか?」
「そうだ、これから我々は落下傘部隊として出撃する」
そう言って、ウィスキーを飲みほした。
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