樹影の下で 第四章 サンタクルス・デ・ラ・シエーラ 1973年8月 ⅩⅢ



マタラル村に着くまでアンドレアは黙っていた。私も運転に集中していた。二人の沈黙を暗闇が包んでいた。静けさの中で私の意識は心の深部にまで降りて行き、そこに留まって何かを探した。周りが全て消えた。チェの遺体もアレハンドロの行方もターニアの涙、そしてアンドレアの愛さへも。目はライトに照らし出された悪路を認識して運転を続けていたが、私の想いは探し当てたひとりの女性だけに向かっていた。彼女とのすべの会話、笑い声、太陽と海、汗ばんだシャツ、握られた手の感触、涙、そしてキスと別れ。これらをひとつづつ思い出しては幸福と不幸とに交互に揺さぶられた。喜びに溢れたかと思えば、切なさに身を切られる痛みに耐えた。
そしてマタラル村の灯りが見えるとアンドレアは暗闇の中で緊張を解くように大きく息を吐いて「トーマ、あそこに停めて」と言った。
私は車を左側に寄せた。そこは三叉路で、右に行けばサンタクルス・デ・ラ・シエーラ、左に向かえばさらにアンデス山脈を登り、コチャバンバまで行ける。
車を停めた角にはガス街燈が燈っていた。その下には赤い服を着た太った女が、夕涼みなのか椅子を持ち出して座っていた。上からの明かりで顔は影になって見えなかったが、わたし達が車を降りると、女は大義そうに立ち上がって傍らのアドベ煉瓦の家の中に入った。
女が入って行った家にもガス灯が燈っていたが、その光はふわっと膨らんで明るくなったかとおもう消えそうになるほど萎んで暗くなった。アンドレアは車を降りるとその家に入っていった。仕方なく私も続いた。そこは食堂兼雑貨屋のようで、汚れた小さなテーブルがみっつだけ置かれていたが、壁際には商品棚が並び、酒やタバコ、そして缶詰類が並べてあったが、その棚の前に置かれた口の開いた麻袋には乾燥した緑色の葉が詰められていた。そして、そこから異様な臭いがしていた。アンドレアは眉をひそめて「トーマ、あれなに?」と訊いた。
「コカの葉だよ。この辺りでも噛む習慣があるらしい」
アンドレアは近づいて袋を覗き込んだ。
「試してみるかい、ビーコと一緒に噛むといい」食堂の女は服が窮屈なのか、しきりに太った身体を揺すっては裾を下に引いていた。
「ビーコってなに?」
「知らないよ」
「重曹よ、ここらではそう言うの。コカと噛むと疲れもなくなって、それから・・あっちの方も良くなるらしいわよ」といって女は品のない薄笑いを浮かべた。
「あっちの方は、コカよりアモールの方がいいわ」アンドレアは女に言い返し、それからコーヒーはあるかと訊いた。
女は雑巾でテーブルを拭きながら「パンとケーソも付けるかい」と訊いた。
「ええ、お願いします」
「わかったわ」
女はテーブルを離れ、棚の横にある小さなドアを開けて奥に入った。しばらくするとラジオのスイッチを入れたらしく、甘い女性の歌声が聞こえてきた。
「ジグリオラ・チンクェッティね。イタリア語だけどいい歌だわ、ディオス・コモ・ティ・アーモ・・・・」アンドレアはその歌を口ずさんだ。
「アン、ここから先の道路は舗装されている。サマイパ―タに着くのは、多分九時頃だろう。どうだろうか・・・」彼女はわたしの言葉を聞いているふうではなかった。目を閉じたままチンクェッティを歌っていた。
「あんた上手いね。カンタンテのようだわ」カフェを運んできた女は驚いたようにアンドレアの歌を褒めた。
「ありがとう」アンドレアは礼をいって歌いやめた。
カフェは喉から胃の中にゆっくりと落ちていき、それから疲れた体中にカフェインを浸透させていった。私はその感触を味わって目を閉じた。するとアンドレアが私の手を取って握りしめた。その手のひらにもカフェから伝わった熱が残っていた。
「トーマ、私ブエノスに帰るわ」
唐突だった。
「・・・・・」
「止めないの?やっぱりアントニーナを愛しているのね」
「アン・・」
「何も言わないで、もう決めたの。あの暗くて酷い道を走っている時、トーマの心は何処かに行ってしまい、あたしはひとりぽっちだったわ。そしたらジリオラ・チンクェッティの歌が流れてきた。あのメセーラは預言者ね。私はカンタンテよ。歌を歌いたい。ブエノスでタンゴを歌いたい」
アンドレアは目を閉じて泣いていた。その目からゆっくりと涙が流れた。頬を伝わって落ちた涙は、わたしの心の中にも落ちた。
「アン・・・」
「なにも言わないで、聞きたくないわ」アンドレアはそう言ってほほ笑んだ。

マタラーニ村を出るとアンドレアは快活になった。マルセーロの失敗やミロンガで酒を飲んで酔った客がアンドレアを口説いて連れの奥さんに殴られたことなどを楽しそうに話しては笑った。私も一緒になって笑った。
すでに別れは告げられていた。その別れを受け入れたことをふたりは認めたくなかった。心の哀しさとは逆に快活に振るまい、もし誰かが見ていればこれほど楽しそうなふたりはいなかっただろう。しかし、わたしの心ははり裂けそうな悲しみで満たされていた。そして間違いなくアンドレアも。
夕刻の丘の上からサマイパ―タ村の灯りが見えるとアンドレアは「いつまで滞在するの?」と訊いた。
「そうだね。二晩だけでいいだろう。それ以上待っても無駄だと思う。それで彼らが来なければサンタクルスに戻ろう」
「トーマごめんなさい、部屋はふたつ取って」
「わかっている。そうする」再び沈黙が襲った。
そして私たちはサマイパ―タに着いた。

夜が開けても山麓の村は霧の中に沈んでいた。周りの山々の頂きはなだらかな曲線で険しさがなかった。霧はその優雅な山に似つかわしく、優雅にゆっくりと動いて村から離れようとしなかった。
目覚めるとすぐに窓を開けて外を見た。霧が運んでくる冷たい大気が部屋に流れ込んできたが毛布を巻いた体はベッドの暖かさを保っていた。霧の中から鳥の鳴声が聞えてきた。昨夜は運転の疲れで宿に着くとすぐに眠れた。アレハンドロたちがどうなったかという不安もアンドレアの哀しみの言葉も遠のいて、ただ、この疲れがありがたいと思いながら眠りに落ちた。しかし、目覚めるとすぐに蘇ってきたのはその不安と哀しみだった。
その想いを感じていたかのようにドアがノックされた。私はなにも訊かずにドアを開けた。そこには体中に哀しみを抱きかかえてアンドレアが立っていた。
「トーマ」部屋に入ると、悲しみに堪え切れなくなったアンドレアは私に抱きつきて泣き出した。
「アンドレア」
「トーマ、どうしたらいいの。あたしふたつとも欲しいの。歌も、あなたも」
わたしはメイの言葉を思い出していた。「得ることは、無くすことの代償。何かを得ようとする時、わたしたちが考えなければならないのは、その代価で何を失うのかであって、何を得るかではないの」彼女はそう教えてくれた。しかし、それを思い出してもその言葉をアンドレアに伝えることはできなかった。そして正確な秤に人生を乗せるような冷静さはアンドレアにも、そして私にもなかった。ふたりにあったのは溢れるような情熱と愛情だけだった。
私は体にまとっていた毛布の中にアンドレアも包んだ。彼女の体は冷えて小鳥のように震えていた。
「アンドレア、ふたりの女性を愛するのはいけないことだろうか。でも僕は間違いなく君も愛している」
「トーマ。あなたはターニアに忘れないと誓った。そして、その誓いを守って、ここまで来た。今度はわたしに誓って。アンドレアを愛しているって。エテルナメンテと」
なぜだろうか、私の愛するふたりの女性は別れに際して同じように誓いの言葉を求めている。アントニーナも「愛しているって誓ってほしいの。誓いは心の支えになるわ」といった。わたしはまた誓いだけを残して別れるのだろうか。

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