樹影の下で 第四章 サンタクルス・デ・ラ・シエーラ 1973年8月 Ⅻ
教会を出ると、二人は公園の中ごろにあるベンチに腰かけた。背高く伸びた椰子の葉影には鳥が潜んでいるのか、頭上から鳥の声が降ってきた。雨もすっかり上がり、朝の太陽は急いで昨夜の雨を乾かしていた。公園を挟んで教会の反対側に位置する村役場の入口の前には村人が並んでいるが、村役場はまだ閉じていて、人々は石階段に腰掛けて会話をしていた。
「次は、マルタ病院のフェリッペね」アンドレアの声には安心したような響きがあった。「それからターニアのこと、誤解してごめんなさい」と謝った。
「そうだね。次はフェリッペだが、マルタ病院には住んではいないとエルナンデス神父はいっていたから、昼食に帰宅する時がチャンスだ」
「ねえ、アルやマルセーロはどこに行ったのかしら」と言って、アンドレアは小さくため息をついた。
「もし、昨日のお昼にイゲーラに向かったのなら、今晩か明日の朝には彼はここに戻って来る。僕らもそのつもりで準備しよう」
「なんだか、このまま会えなくなるような気がして心配だわ。ニコラスという男は殺されたし、彼らも無事であればいいけど・・・」
「大丈夫だよ。でも、ニコラスの件に関しては僕らも用心しなければ」
「・・・・・どうして殺されたの?」
「わからない」そう答えながら、あることが閃いた。
ホテルに車を置き、ふたりは歩いてマルタ病院に向かった。
アンドレアは躊躇していたが、メルカードの雑多な入口で立ち止まり「喉が渇いたわ。待っていて」と言って、飲物を買いに入っていった。
わたしは、昨日と同じカフェ・チェの角でニコラスが殺された理由、というより彼が殺されたきっかけは何だったのだろうかと考えていた。
―どこかで眠っていた歴史のスイッチがオンになったのだ。そのスイッチはどこにあったのだろうか。私たちがバリェ・グランデに到着して翌日、ニコラスは殺された。その早朝アレハンドロは出かけていた。マルセーロには散歩に行ったと言ったというが、そうだろうか。誰かと会って来たのではないだろうか。それは誰か―、そこまでで思案は途絶えた。
「もう疲れた。見てこの変な飲み物」アンドレアが戻ってきて、ビニール袋に氷と一緒に入った茶色の液を見せた。
「飲んでみたかい?」
「まだよ。トーマに見せてから飲もうと思って。これ何、飲めるの?」
「ああ、モコチンチといってね、乾燥させた桃を水で戻して砂糖とシナモンを加えて煮た後、冷やして飲むんだ。僕は好きだよ」
アンドレアは、今度もおそるおそる口をつけ一口飲んだ。
「甘ったるいわ。でも冷えているから美味しい」
「気に行ってよかった」
アンドレアは歩きだすと腕を組んできた。わたしは一瞬ビクッとした。その反応にアンドレアは怪訝そうに「どうしたの?」と訊いた「いや、なんでもない」と答えたが、私はアントニーナと腕を組んで歩いたことを刹那に思い出したのだ。
あれはもう遠い日々のようだ。悲しさが胸を満たし、切なさが心を傷つけ、するどい痛みが全身を通り抜け、アントニーナの悲しみと痛みを感じた。アンドレアはそれを察したのかそれ以上なにも訊かなかった。
緩やかな坂を降りてマルタ病院に着くと中には入らずに外で待つことにした。もうすぐお昼だったのでフェリッペという男は家に帰るはずだった。人家は少なく病院の向いにある雑貨屋で時間を潰すことにした。
「ねえ、どうして直接マルタ病院を訪ねないの」
「フェリッペという男に気づかれず人相を確かめたいからさ」
「どうして?知っている人なの?」
「いや、そうじゃなくて、でも多分、見覚えのある顔だと思う」
その男は、そう待つこともなく病院から出てきた。それはエルナンデス神父が説明した男の人相とよく似ていた。そして、私が予想した男だった。
「トーマ、あの男は昨日私が轢きそこなった男だわ」
「そうだ。そして彼はニコラスが飛び降りた場所にもいた。ぼくらは彼に接触すべきではないと思う」
「どうして?」
「すでにアレハンドロが会っているからさ。あの男はシラー神父と軍のトラックに乗っていたという。しかし彼はシラー神父に同行したのではなく、軍に同行してチェの死体を処分するのを手伝ったに違いない。どうしてアレハンドロがフェリッペを訪ねたのか知らないけど、彼はチェの死体の処分を手伝ったときから、そして今も軍の手先として、マルタ病院やニコラスに近づく者を見張っていたに違いない。ニコラスの死の原因はアレハンドロがフェリッペを訪ねたことがきっかけになったのだと思う」
「アルはニコラスに会ったのかしら」
「ふたりが生きているのならニコラスには会っていないだろう。戻ろう。僕たちは旅行者になり切るんだ。そうでないと危険だ」
ふたりは、メルカードの食堂で昼食を済ませ。ゆっくりと村を散歩した。それから教会の前の公園に戻りベンチに座ると、何かを語りあっている恋人のように肩を抱き合って過ごした。そして教会の鐘が鳴り、村役場の門が閉じられ、家々に灯りがともり、闇がゆっくりと僕らを包み隠しはじめる頃、ホテルに戻りチェックアウト済ませて荷物を車に乗せた。
「出発するの?」
「ここを出よう。サマイパ―タまで行き、そこでアレハンドロたちを待とう。日が暮れるけど運転は大丈夫かい?」
「ええ大丈夫よ。だけどアルやマルセーロへの連絡はどうするの?」
「僕たちは彼らの伝言を探したじゃないか。彼らも同じように僕らの伝言を探すはずだ」
「どこに伝言を残すの?」
「ガソリンを入れに行けばいい」
フリオ爺さんはしつこくアンドレアに残るように誘った。ガソリンを半額にすると提案したが、アンドレアは笑って、爺さんは良い男だと褒め、また来ることを約束した。
「その時はそっちのチーノは連れて来るんじゃないぞ」爺さんは私を横目で見て怒鳴った。
「ビエホ、よかったらサマイパ―タまで追いかけて来なさい。あたしはしばらくそこで待っているから」
「本当かい、本気にするぞ。婆さんが泣くが知ったことじゃない」
「あたしもハポネスを捨てるわ。いいわね、サマイパ―タよ・・・」最後はわざとらしく小さな声でフリオ爺さんの耳元に囁いた。
「やり過ぎじゃないかい。本当に追いかけてきたらどうする」
「あら妬けた?それなら目的をふたつも果たしたわ。あのケチな爺さんが自分の商売の燃料を使ってまで追いかけてこないわよ」
バリェ・グランデ村を後にすると冬の太陽は早々に沈み、風景は暗闇の中に沈んで消えた。ライトに照らし出されるのは白い道路に黒々と横たわる大蛇のような轍で、私たちの帰りを待ちかねていたかのようにジープを左右に揺らした。
「どこまで話したかしら」暗い車内の中で運転をしながらアンドレアが言った。
「なにを?」
「ほら、身の上話しよ」
「ああ、ホセがチェの死に疑問を持ったところまでだった」
「続き・・聞きたい」
「君がいいなら」
「・・・ホセはチェやアルの過去を調べて、彼らが学生の頃住んでいたピーソを見張らせていたの。チェは現れなかったけどアルが現れた。だけどそれがどちらなのかホセは判断できず。私に『ミロンガに誘え』と指示したの。アルは用心もせずついて来て毎日店で酒を飲むようになったわ」
車が深い轍に落ちて車体の底が地にぶつかった。しかしアンドレアは構わず更にアクセルを踏み込んで抜け出した。しかし、轍から抜け出すと車輪は砂地に埋もれて空転した。それもアクセルを踏みこんで抜け出したが、車体は砂地から抜け出したとたん右方向にスリップした。
「ミエルダ!」アンドレアはハンドルを切り返し、ブレーキを踏んだが間に合わず、ジープは横滑りして路肩の溝に片車輪を落として止まった。
「大丈夫かい?」車から出て車体を調べながらアンドレアに訊いた。
「ええ、それより出せるかしらこの溝から」
「僕がやってみよう。君は外で待っていてくれ」
「え、トーマ運転できるの?」
「ああ、免許証は無いけどね」
「それなら私だって持ってないわ。なによ、出来ないふりして」
「ちがうよ。僕は運転しないといったんだ。できないとは言ってない」
「なによ!屁理屈男」
私はギアをバックに入れて車体をゆっくり後進させ車輪が空転する前にギアをローに変えて前進させた。それを何度か繰り返して車体を前後に揺らして反動をつけると、最後に素早くギアをバックに変えてアクセルを踏み込んだ。後輪から砂煙が舞い上がりジープは勢いよく溝から飛び出した。
「どうぞお嬢さん」運転席から降りてアンドレアに運転席を譲ろうとすると、彼女は私が開いたドアを無視して助手席側に乗った。
「いやよ。私疲れたわ。トーマ運転して」
「でも僕は免許証を持っていない」
「まだそんなことを言っているの!怒るわよ」彼女の声は、すでに怒気を含んでいた
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