樹影の下で 第四章 サンタクルス・デ・ラ・シエーラ 1973年8月 Ⅺ
眠れない夜が明けた。二人はヴェンティ・トゥレス・デ・エネロ公園の正面にある教会を訪ねた。昨夜見た石造りの教会の前に立つと石壁には1630年と建立した年が刻まれていた。
―コロンブスのアメリカ大陸発見は1492年・・・・、つまり138年後には、スペインのコンキスタドールたちは太平洋から千キロ以上も離れた南米のこんな奥地まで到達していたのだ。彼らをここまで導いたのは何だろうか。冒険心だろうか、それとも人間が持つ深い欲が未知に対する恐れを越えてここまで到達させたのだろうか。いや、まてよ。これは教会だ。すると信仰心か・・伝道者をバリェ・グランデまで到達させるほど強い意志とはなんだろうか。布教という神への信仰心も新大陸を新たな宗教で染めるための陣取り合戦ではなかっただろうか。ボリビアは1825年にスペインから独立した。この教会はその200年近くも前に建立されたことになる・・・―。
「ねえ、なにぼんやりしているの」
「あ、いや、こんなところにずいぶん古い教会だと思って、ほら見てごらん、343年も歴史があるんだ、この教会は」
「そんな何百年の古い歴史ではなくて、たった6年前の歴史を探しているんでしょうあたしたちは」
「そうだった。シラー神父が今何処にいるのか、まず、この教会の司祭に訊いてみようか」
教会の入口は公園側に面していなかった。右横に角を曲がると数段の階段があり、そこが教会の正門で、二枚の大きな扉は開かれていたが、ミサには早いらしく礼拝所には誰も居なかった。中に入ると礼拝堂の天井はそう高くなかった。身廊から祭壇に近づくと右奥から黒の詰襟の祭司服を着た年配の神父が出てきた。
神父は私たち二人を見て「おや?」という表情を浮かべた。痩せすぎの背丈の高い神父は笑みも見せず厳格な表情のまま近づいて来た。
「お早うございます。村の方ではないですね。どちらからの訪問者でしょうか」その声も容貌とそっくりで厳格そのものだった。
「わたしはブエノス・アイレス。あたしの彼はハポネスよ」アンドレアは彼女だけでなく私も紹介したが、彼女は神父のようなタイプが苦手らしく、後の会話を続けようとせず、神父を避けるようにわたしに譲った。
「それで、ミサに参列するには早いのですが。ご用件がありましたら伺いましょうか?」神父は厳格な顔に不似合なほど透き通ったブルーの目をしていた。
「僕らは観光できました。この教会を外部から見ていたのですが、とても歴史がありそうなので、失礼とは思いましたが無断で教会に入ってしまいました」
「いや、教会の扉は常に開かれているものですからお断りする必要はありません。そうですか、教会建築にご興味がおありですか」神父の口調が多少柔らかくなった。
「ええ、僕は教会や古い建物が大好きです。この教会はゴシック様式ではないですね。ピラールではなく壁に重心を掛け、尖塔アーチがなく、どことなくイスラム建築を思わせるような箇所がある。それに建築の広さと比較して高さが足りない気がする。ファサードには装飾があまり施されていない。だれが建てた教会でしょうか」
神父は建築について問われたことが嬉しかったようだった。
「この村には、アラブ系の移民が多く住みつきました。323年前にこの地に教会を建てようと決意したフランシスコ会の宣教師たちもアラブから来た人々の影響を受けたのでしょう」
神父は教会の天井や壁を見ながら話した。その口調には贔屓の学生に講義するような嬉しそうな響きに変わっていた。
「この地に来たのはフランシスコ会の宣教師ですか。確かプラカ村のシラー神父はドミニコ派だと伺いましたが」
「よくご存知ですね。シラー神父とお会いになったのですか」
「いえ、昨日、ヌエストロ・セニョール・デ・マルタ病院を訪問して、ドクトル・アブラムにエルネスト・ゲバラのことを伺いました。ドクトルの話によると、シラー神父はゲバラの遺体がラ・イゲーラ村からヘリコプターでバリェ・グランデに移送されようとした時、プラカ村から驢馬で駆けつけ、ゲバラにミサを施したと伺いました」
「そのことは私も聞いている。そうか、アブラム院長が話しましたか・・。あのドクトルがゲバラのことを話すなんて、あなたはドクトルに信用されたか、あるいはよほど聞き上手のようですね」
「いえ、私は真実を知りたいと思っているだけです」
「真実ですか、真実は様々です。様々な神が存在するように。チェの真実も、ボリビア政府の真実、それを傍観していた村人の真実。あなたが知りたいと思っているのはどの真実ですか」
私はパードレの意外な問いに戸惑った。彼はじっと私を見ている。私も彼の瞳の奥を見た。そこには好奇心ではなく人間の心底に問いかけるものがあった。
「知りたいのはゲバラの真実です。革命家としての彼ではなく、人間としてのチェ・ゲバラです。そして、誰がどう考えたかではなく現実です。彼が捕えられて、殺害され、葬られるまでに何が起こったのかという現実です」
パードレは目を閉じた。考え込むようにしばらくそうしていたが、もう一度目を開けると「わたしの居間でお茶をご馳走しましょう」と言った。
教会には他に誰も居ないのか、パードレは自らお茶を入れて運んできた。わたしたちの前にティーカップを置くと、向かい合ってソファに腰をおろして紅茶をすすった。
「私はエミリオ・エレナンデス神父です。あなた方のお名前をまだ伺っていませんでしたね」
「はい、わたしはアンドレアで、彼はトーマです」
「それでトーマはどうしてゲバラの真実を知りたいのかね」
「それは、私はエルネストに会ったことがあるからです」
その答えに、神父だけでなくアンドレアも驚いたようにわたしを見た。
「それは、いつのことだね」
「1967年の夏です。十四歳だった僕はサンタクルスからラパスに旅をしました。その時、そのバスにゲリリェーロたちが乗り込んできて、バスに乗っていた医者を一人誘拐して行きました。その時のゲリリェーロがエルネスト・ゲバラでした。彼は僕の横に腰かけて『日本人か』と訊きました。そうだというと『私は君の国に行ったことがある』と懐かしそうに話しました」
「そうですか、チェは懐かしそうにしていましたか。わたしは君の恋人やチェと同じアルヘンティーノです。六年前、チェたちの遺体が運ばれて来たとき、わたしは彼らのために祈ったが理由があって、彼らに死後のミサを授けることができなかった」
「パードレは誰かを教会に匿っていたのですか?」
パードレは、一瞬驚きを目に浮かべたが、ブルーの透き通るような目でじっとわたしを見た。
そして驚きを隠した声で「どうしてそう思うのかね」と訊いた。
「それは・・。パードレが厳粛な人の死に際してミサを行なえなかったのは、死者よりも生者を匿うことを優先したからではないかと思ったからです」
パードレはそれに答えず、また紅茶を一口飲んで、ティーカップを膝の受け皿に戻した。そして不思議なものを見るように私を見て「モイセスにそのことを話したかね」と言った。
「モイセス?そのことといいますと」
「ドクトル・アブラムのことです。彼にチェに会ったことを話しましたか?」
「いえ、話していません」
「そうですか。それでも彼が話したのは何故だと思うかね」
「それは・・・。多分ですが、怒りだと思います」
「ドクトルは何に怒りを感じていたのかね?」
「ドクトル・アブラムは軍にチェの両手と頸を切り落とすように命令されたそうです。それが医者としての道義に反していると憤慨したのかもしれませんし、あるいはカトリック信者としてのモラルであったか、それとも彼もエルネスト・チェ・ゲバラと会ったことがある可能性もあります」
「なるほど。彼は話すことによってチェの両手を切り落とした罪の埋め合わせをしたのか」と言ってパードレはしばらく黙した。そして静かに話しだした。まるで遠くを眺めるかのように。
「チェの遺体がこの村で公開された5日後、魂が抜け落ちたような男が教会の中で倒れていた。その男は二月ほど経って軍も去り、村が日常に戻ったある夜、この教会を出て行った」
「・・・・・・」
「その男は・・・チェとそっくりだった」と言ってエレナンデス神父はため息をついた。
「その男の名は?」
「あの男は唖であるかのように一言も口をきかなかった。名前すらだ。君は知っているのではないかねその男の名を」
「お茶を頂いてもいいですか」
そして私は1967年の夏の旅を最初から語り始めた。エレナンデス神父もアンドレアも質問をすることなく最後まで聞いていた。私は語り終えると、告白しおえた罪人のようにエレナンデス神父の言葉を待った。
「遺体はエルネストだろうか、それともアレハンドロだろうか」とエレナンデス神父は独り言のように呟いた。私にも答えはなかったので「分かりません。もしかするとシラー神父が知っているのでは」と言った。
「彼は、チェの遺体を追いかけるようにプカラ村からバリェ・グランデに出て来て、この教会に宿泊していた。そして、遺体がなくなった次の日の朝、プカラ村に帰って行った。シラー神父はここに居た男とは会っていない」
「シラー神父はここでなにをしていたのですか?」
「私は訊かなかった。彼は頑固な男で、話し出すと声が荒くなる。それが私を彼との会話から遠ざけている理由だ。しかし・・最後の夜、深夜になっても帰らないシラー神父を心配して探しに出ると、村はずれの飛行場の方面から来た軍のトラックから彼は降りてきた。どうしたのかと訊くと『通りかかったので乗せてもらった』と答えたが、あの方面には人家もなく、変だと思った。確かフェリッペもトラックの荷台から降りてきて『ブエナス・ノーチェ、パードレ』と挨拶してくれた」
「フェリッペとは?」
「マルタ病院の門番です。シラー神父が降りてきたトラックの運転席にはマリオ・バルガス大尉が乗っていた。シラー神父は急ぐように村の方へ歩き出したので私もすぐに引き返えしたが、その後からすぐに軍用トラックが走り去った。あの時間、あの場所で何があったのか」
「シラー神父は今もプカラ村ですか?」
「そうだ。しかし彼は今朝サンタクルスに出かけた。来週にならなければ戻らないだろう」
お茶をご馳走になったことに礼をいうと、エレナンデス神父は「気をつけなさい。君の知ろうとしていることは軍が、いや、ボリビアの国家が隠そうとしている秘密だ。そのような秘密を探ろうとする者がいると気づかれれば君たちはどうなるかわからない。いや、聖職者にあるまじきことだが、わたしは君にゲリラを匿ったことを話したことさえ後悔している」と、心配そうに忠告した。
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