樹影の下で 第四章 サンタクルス・デ・ラ・シエーラ 1973年8月 Ⅸ



「なぜそう思ったの?」
マルタ病院を出て車に乗り込み、エンジンを掛けるとアンドレアが訊いてきた。
「なにが?」
「ほら、チェがアルヘンティーナに帰りたがっていたって」
「ああ、君を見ていてそう思ったんだ。僕はチェがこの地で革命を起そうとしたことにいつも疑問を抱いていた。こんな人の住まない場所で蜂起するなんて理屈に合わない。そう思っていたけど君がブエノスに帰りたいといい続けているのを聞いていると、理屈ではなくて心情的、つまりセンチメンタルなものではないかと思ったんだ」
「センチメンタル・・・」
「ああ、君と同じでエルネストもアルヘンティーナが恋しかったのさ。ほらバリェ・グランデの南はイゲーラ村で、峠を越えればアルヘンティーナに続いている。ゲリラの行動としては相応しくないけど・・彼は故郷に帰りたかったのではないかと思った」
「そう、それでターニアは誰?どうして彼女を知っているの」
「知っている?」
「しらばっくれないで、昨夜も寝言でターニアと呼んだでしょう。どういう関係だったの!」
「ハハハハハ・・・」わたしはつい笑い出してしまった。
「なによ!なにが可笑しいの」
「だって、君は勘違いしているよ」
わたしが説明しようとした時、誰かが道路に飛び出した。
「エストゥピド!」マルタ病院からいきなり飛び出して来た男を轢きそうになって、アンドレア急ブレーキをかけ、窓から身を乗り出すと罵った。
飛び出してきた男は美しい女性の罵声に目を瞠って立ち止まったが、謝るようにしぐさで少し頭を下げて立ち去った。飛び出して来た男に対してか、私に対してだろうか、アンドレアは苛立たしそうに車を出した。

カフェ・チェ・ゲバラにアレハンドロたちの姿はなかった。
「こういう場合はどうすることになっていた?」
「指示はなかった。想定外だ」
「もう、だから無用心なのよ。そんなに簡単に予想外が発生するなんて、どうかしているわ」
「アレハンドロの職業は軍人ではなくて医者なんだ。大目にみようよ」
「コマンダンテのチェだって、もともと医者だわ」
「それはそうだが、まあ、順番が逆になっただけだ。僕たちが待って、彼らが現れたらここを出よう」
カフェ・チェのコーヒーは、濃縮したコーヒー液と湯が別々に出てきた。アンドレアはコーヒーの入ったポットの蓋を取って「これ、どうやって飲むの?」と聞いた。
「カップに濃縮されたコーヒーを入れて、好みの濃さに湯で薄めればいい」
「へんなコーヒー」と言いながら、アンドレアはコーヒーと湯を入れ、おそるおそる口を付けて飲んだ「味は悪くないわ」と言ってもう一度飲んだ。
「さて、アレハンドロたちが来ていない理由はなんだろう」
「ニコラスという裏切り者を訪ねると言ってなかった?」
「そうだ。だからしばらく待って来なければ、我々もそこに行くしかないが・・・」
「問題が発生しているなら、アレハンドロたちと同様になる?」
「そうなると思う。だから、彼らが姿を表さない場合はニコラスという男を訪ねる必要はあるが、近寄っていけないと思う」
「やっぱり、トーマと行動して正解だわ。あんたは自分以外のことなら正確な判断ができるから」
「自分以外?」
「自分の感情と、それに関係する他人の感情には鈍感で、なにも気付かないわ」
昼食が近くなり、店は混みだしてきた。コーヒーだけでねばっている客はありがたくないらしく、二人の座っているテーブルからボーイはことわりもなく椅子を二つ持ち去った。
「来ないね。そろそろ行動にしなければ」
「ええ」アンドレアの返答には力強さがなく、いつもの挑戦的な光が眼になく心細げだった。

ソレダ街は市場からカテドラルのある公園に向かって坂を降り、村役場の庁舎の前を通り、そのまま公園沿いに進んだ路地だった。しかし、その路地は何事があったのか近付くと人だかりで車では通れなくなっていた。
車を停めて、傍を行く人に「どうしたのですか」と訊くと「自殺だよ。一人暮らしのニコラスが身投げしたらしい」と、歩きながら答えた。アンドレアの顔が蒼白になった。わたしは彼女の手を握った。
「大丈夫だよ。アレハンドロやマレセーロであるはずがない。車を停めて歩いて行こう」アンドレアは、少し頷くと車を脇の歩道に片車輪をのせて駐車した。
「三階から身投げしたらしい」
「誰だ、身投げしたのは?」
「ニコラス・カマチョだよ。向かいのミランダ婆さんが、ガラスが割れてニコラスが落ちるのを見たらしい」大勢の人々が集まっていた。訊ねるまでもなく誰がどのようにして死んだのかは、人ごみの中にいるだけでわかった。また、アンドレアの手から力が抜けていくのも感じられた。
人混みの中から前に抜け出すと、五名の警官が死体を囲むようにして傍にしゃがんでいた。人混みの後方から「道を空けろ、医者が来た」という声が聞こえ、人混みに小さな空間ができた。その細い隙間から肩を斜めにするようにしてマルタ病院のモラレス院長が通りぬけていった。彼は、私たちの側を通り抜けるとき「おや?」というような表情を見せたが、立ちどまらずに通り過ぎた。
医者が来ると警官たちが立ち上がったので、仰向けになった男の死体の顔が見えた。男は地面にぶつかったときに首の骨が折れたのか、頭が左側に異常に傾いていた。もじゃもじゃの長髪と髭面は彼がゲリラだった証だろうか。それとも隠れ住むために必要な装いだろうか。死体の頭部の下から血が流れ出て石畳に広がっていた。そし見開いた眼と口は何に驚いたのか、信じられないといった表情をしていた。
その時、人混みの中から強い視線を感じた。その視線の方向に目を向けるとマルタ病院から飛び出して来た男が私とアンドレアを異様なほどするどい目付きで観察するように見つめていた。私の視線に出会っても男はしばらく目を逸らさなかったが、ふっと眼を細めると視線を逸らし、人混みの中に姿を消した。

「どうする」車に戻るとアンドレアが訊いた。
「アレハンドロたちは車を持っている。ともかく彼らのホテルに行って車があるかどうか確認してみよう」
ホテル・アルトゥーロに着くまで不安に包まれて二人は何も話さなかった。そしてホテルに彼らの車はなかった。私たちはいったんビクトリア・ホテルに戻ったが、そこにも彼らからの伝言はなにも無かった。部屋に入ってベッドに腰掛けるとアンドレアは黒い瞳で催促するように瞬きもせず真っ直ぐ私を見つめた。
「・・・・」
「捕まったのかしら、二人とも」不安な声が彼女の唇から聞こえると、私の不安も高まったが、否定するように言った「いや、警察に捕まったなら村の噂にのっているはずだ。そして僕たちもすでに捕まっているはずだ。僕たちが今朝ふたりを訪ねたことはホテルの受付の男が知っている」
「それならどうして?どこに行ったの」
「警察以外の者に捕まったのか、捕まっていなくとも危険を感じて隠れたのかもしれない。ニコラスが殺されたことが原因だと思うが、彼を訪ねて来る者がいないか誰かが見張っていたのか・・・・いやそうではない。それならその時に捕まっているはずだ。真昼にそのようなことが起こったら村の誰かが見たはずだ。それともニコラスにとってアレハンドロの訪問は歓迎されるものではなく、アレハンドロたちが訪ねた後、誰かに通報したのか。それなら彼はなぜ殺されたのだろうか。いや、いまはそれよりアレハンドロたちの行動を予測することが大切だ」
「どうしてニコラスが殺されたと分るの」
「聞いただろう『ガラスが割れて落ちる』と、自殺なら窓を開けるさ」
「そうね、アルたちはまだバリェ・グランデに居るかしら」
「こんな小さな町だ。見つからないのはここに居ないからだ。多分、ここを出たのだろう。しかし僕たちに何も告げずに去ることはありえない。なにか手がかりを残したはずだ」
「どうしよう。食事する気ある。それともガソリンを給油しに行こうか。帰りの燃料を確保しないと」
「それだよ!」
「なにが」
「ここから出て行くには車に給油しなければならない。給油所だ。そこに寄っても誰も怪しまない」

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