樹影の下で 第四章 サンタクルス・デ・ラ・シエーラ 1973年8月 Ⅹ



ホテルのフロントに訊ねると「この村にガソリン・スタンドは無い。フリオ爺さんが売っているが、吹っかけるぞ。何しろガソリンはそこしかないからな」と言って場所を教えてくれた。
その場所は、上塗りのないアドベ煉瓦の塀に囲まれ、同じくアドベ煉瓦で建てられた事務所が奥にあったが、汚れたドラム缶が無造作にいくつも積まれていた。車の修理工も兼ねているのか、荷台の傾いたトラックや、ボンネットのないジープなどが数台埃をかぶっていたが、車は長年放置されているようで、もう修理工の腕は必要なさそうだった。

ドラム缶が積まれている隙間にドアがあり、呼ぶと油染みで元の色が分からなくなった作業着を着た男が出てきた。フリオ爺さんだろうと思ったが、痩せてはいるが爺さんと呼ぶには相応しくないほど元気な男だった。
「ガソリンかい、何リッター必要だ。断っておくがここはサンタクルスから燃料を運んで来るから手間も輸送賃も余計にかかっている。値段が高いのは当たり前だ。値切っても無駄だぞ」慣れた口上のように、フリオ爺さんは早口でまくし立てた。
「それで、幾らなの!」
アンドレアが横から口出すと、フリオ爺さんは油で汚れた服の埃を払うようにはたき、嬉しそうにアンドレアと向き合った「これは、これは、別嬪だ。あんたどこの国のセニョリータかね」
「すみません。トイレ貸して下さい」と、今度は私が横から頼まなければならなかった。フリオ爺さんはアンドレアを見たまま、面倒くさそうにトイレがあるらしき方向を指差した。
「それで別嬪さん。いつまでバリェ・グランデに滞在かね。ガイドはいらんかね。不案内な土地を歩くのは物騒だよ。なんなら仕事を休んで私がガイドしてもいい」
爺さんはアンドレアに夢中なようだった。アンドレアが叩きつけるような言葉で何かを話している。ガソリン代はきっと下がるだろうと思いながら、トイレのドアを開けて入った。
トイレはむっとするような臭気で、トイレに清掃など必要ないというフリオ爺さんの考え方を理解させられた。汚れた三方の壁は、時間を無駄にしたくない連中が書いた卑猥な落書きで埋まっていた。トイレには便器と屑入れとトイレットペーパー代わりの破れた雑誌が一冊あるだけだった。屋根はトタンがむき出しで、換気口として壁板と屋根の間に隙間を空けてあったが、何かを隠せるような場所はどこにもなかった。
あきらめて出ようとしたが、ふと破かれた雑誌を手に取って残されたページを見ると、壁と同じように卑猥な落書きがあり、女性の性器が描かれた下には『お前知っているか。糞もセックスも排泄だ』と諭すような注訳が太字で書かれていたが、アレハンドロの伝言はどこにも無かった。
トイレを逃げるように出ると、フリオ爺さんは上機嫌で給油し終わっていた。
「どんな約束をしたのですか」車に乘り込みアンドレアに訊いた。
「妬ける?明日の夕食を約束したの。勿論、ガソリン代もまけてくれたわ」アンドレアは元気と自信を取り戻していた。
「そうですか。すると明日の午後までにここから出ればいいのですね。何か良いことがありましたか」
「アレハンドロとマルセーロが今日のお昼頃給油に来たそうよ。彼らは無事よ。フリオ爺さんが行き先を訊ねたら『サンタクルスに行く』と言っていたそうよ。信じられる?」
「さあ、どうだろう。告げた場所に向かうとは思えないけど。それが僕たちへの伝言という可能性もある」しかし、私には判断がつかなかった。この場所に彼らの伝言があることを期待していたのだが、当てが外れ、この先どう展開するのかまったく予測も自信もなかった。
アンドレアは首を横に傾げ、屈みこむようにして私を覗き込んだ。何だか嬉しそうに「ねえ、自信無くしたでしょう。自惚れ屋さん」といって笑った。

フロント・ガラスの上に水滴が落ちた。そしてそれは車を走らせるとすぐに雨に変わり、町を暗く包んだ。
「この雨は幸いかもしれない。アレハンドロたちがどこにいるにしろ、隠れて行動しているのは間違いないのだから」
「私たちはどうする?」
「アンドレア、ふたつの選択肢を君に提案するよ。ひとつは僕と一緒にイゲーラ村まで行って蚊に食われること。おまけに君の好きなシャワーもない。もうひとつは快適なホテルで僕の帰りを待つことだ」
「トーマ、ありがとう。そう言うだろうと思っていたわ。でもフリオ爺さんが言っていたわ、この時期には蚊はいないんですって。それはいいわ。もうひとつの選択肢をあたし知っているわ」
「・・・・・」
「トーマも私と一緒に快適なホテルに残ることよ。伝言も残さなかったあのロクでなしの二人はどうせここに戻って来るでしょうから」
「・・・・・」
「ねえ、ふたりは逃げたのかしら」
「自信はないけど、逃げたのではなく、どこかに向かっていると思う」
「どこに?」
「ラ・イゲーラ村かプカラ村かもしれない。サンタクルスに向かうのであればカフェにいた僕たちに知らせたはずだ。捕らわれてなければ、次の目的地はラ・イゲーラだ。そこでチェが殺されたのだから」
「トーマはアルの目的を知っているの。彼はなぜボリビアに戻って来たの?」
「目的のひとつはチェの埋葬場所を探すことだろうけど、それを見つけてどうするのかは僕には分からない」
「トーマもターニアを探しているの?」
「僕はターニアに『忘れないで』と頼まれた。だから忘れることはない。でも、彼女の遺体を探そうとは思わない」
「どうして?」
「ターニアは自分の故郷を探していた。それは自分と繋がる者を求めていたことであって、遺体を探して欲しいのではなく、記憶に残すだけを願っていたと思うからだ」
雨は、村の家々を黒い影にしていた。もうすぐ訪れる夕暮れを待ちきれないように暗いベールが村を包み、山並みの上の遠い空にはわずかに青さが残っていたが、それはバリェグランデ村の暗さを際立たせているだけだった。

アンドレアは黙って運転していた。私たちは昼食をとっていなかったが不安は空腹を遠ざけていた。アレハンドロたちが無事だと知ったときの安堵感は、行方の知れない二人が暗闇に飲み込まれてしまったような恐怖に変わっていた。
ホテルに戻っても雨は降り続き、アンドレアは疲れたようにベッドに腰かけていた。わたしは道路側に面した窓を開け、傾斜した石畳の道が雨に濡れるのを見ていた。通り向いの家の窓は閉まっていたが、その奥に灯されているガス灯の明かりは夜の訪れが近いことを告げていた。そして教会の鐘が雨粒の間をぬうように響き、そして鳴り止むと雨はいっそう激しさを増し、人々の生活を遮断する意図をもっているかのように雨音以外の一切の音を村から奪ってかき消した。孤立したわたしの心の中には不安が渦巻いていた。
アンドレアが歌い出した。その歌声は外に降る雨が土に沁みていくように、わたしの心の奥底まで沁みていった。

わたしの愛するブエノス・アイレス
もう一度あなたに逢えたら
悲しみもなくなり、
 忘れることもないでしょう・・・・

やがて雨は遠ざかった。しかし、闇がバリェグランデ村を覆いつくそうとしていた。静けさを取り戻した村の石畳の道には雨水の湿り気が残りふたりの靴音はまったく聞こえなかった。風は吹くことを止めていたが、雨が置いて行った冷めたさが村を包んでいた。
雨上りの公園に村人が集まっていた。彼らは薄暗いガス街灯の下で会話を交わすこともなくただひっそりと影のように佇み、風景の一部分と化していた。そして、夕暮れの空にわずかに残った光の中にキリストのシンボルである十字架のシルエットがくっきりと浮かんでいた。その教会のシルエットには尖塔がなく、十字架はイスラム教徒が建てたような重く丸いドーム屋根の上にふたつ並んでいた。そのドームのせいだろうか、あるいは建築物全体が教会にしては低いのだろうか、シルエットはずんぐりとした印象を与えていた。
ふたりは公園の角にある小さな食堂に腰掛けた。わたしたち以外には客もなく、ずんぐりとした体型に三つ編みに髪を結った先住民系の娘が面倒くさげに近寄ってきて一枚きりのメニューを置いていった。
メニューには選べるほどの数の料理はなかった。アンドレアは食欲がないのかメニューを見ようともせず暮れてしまった外の景色を眺めていた。わたしは彼女の横顔を見ていたが、アンドレアの心を引き戻せそうになかったので、メニューからメルカードで見たチチャロンとチーチャを二人分注文した。
料理が運ばれてくるまで二人は黙って外を見ていた。またスール風が吹き始めていた。時々、入口から足元に冷気が忍び込むように伝わり、村は凍てついたように生気がなかったアンドレアは無言のままバリェ・グランデの闇を見つめていた。

その静けさに不似合いな料理が運ばれてきた。大きな皿には茹でたモーテと呼ばれる白トウモロコシの上に香辛料のウルクーの実で赤茶色に揚げた豚肉が盛られていた。そして、ガラスの水差しは白濁した飲み物で満たされていた。
「これ何?」不思議そうな瞳で訊ねた。
「アン、さっき僕が注文しただろう。これは豚肉を揚げたチチャロン・デ・セルド、それとチーチャというトウモロコシを少し発酵させた飲み物だよ」
アンドレアの瞳がさらに輝いた「アンと呼んだわ。わたしトーマにそう呼んで欲しかったの。それで、これはどうやって食べるの?」
「手掴みだよ。その方が美味しいんだ」そういって、わたしは豚肉を一つ取って頬張った。ジワッと香ばしい肉汁が口の中に広がった。
アンドレアは恐る恐る指先で摘まんで口元に運んだが、一口頬張ると手が汚れることも気にせず食べ始めた。そしてチーチャを一口飲んで顔をしかめた「これって少し酸っぱいわ。スの抜けたワインみたい」
「それはそうさ、ワインと同じ発酵酒なんだから。でも、この揚げ豚肉にはこの酒が合うんだ」
「ええ、美味しいわ」といって食べ続けた。

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