樹影の下で 第四章 サンタクルス・デ・ラ・シエーラ 1973年8月 Ⅷ
宿を出て石畳の坂道を登りきった角にアレハンドロが指定したカフェがあった。入り口の横の壁には『チェ』という看板らしき消えかかった文字が残っていた。なぜチェなのか?わずかな疑問を感じただけで視線はその斜向かいのメルカードに移った。そこは商人たちが売り物を外まで持ち出して粗末な木台の上に乗せて売っていたが、あまり売る気はないのか、それとも小さな村ではその必要がないのか、通り過ぎる人々に売り込むこともなくじっと座って見ているだけだった。それでもそこは雑然としていた。人々は買い物を済ませると、道端に立ち止まって豚肉に香辛料をつけて油に揚げたチチャロンを、白トウモロコシに砂糖を加え発酵させたチーチャと一緒に食していた。
アンドレアは私の手を握ってその風景をもの珍しそうに眺めながら歩いていた。
「ねえ、あれ食べるの?」彼女は顔をしかめて訊いた。白い大きなチーズの塊から酸っぱい臭いが強烈に漂っていた。チーズ売りの太った男が大きなナイフでそのチーズの角を切り「ためしてごらん、セニョリータ」と、アンドレアの顔の前に差し出した。彼女は恐る恐る指でつまみ口に運んで小さなかけらの角をそっと噛んだ。
「おいしい」チーズ売りは満足そうに頷き、さらにチーズを切り取ると「持っていきなベーリャ」といって紙に包んで渡した。
メルカードを過ぎて村の西側に向うなだらかな坂道の先には、手がとどきそうなほど近くに山並みが見えた。その坂の途中で人家が途絶えた。そこがヌエストロ・セニョール・デ・マルタ病院だった。低い塀に囲まれた病院は、何の変哲もない平屋作りの建物で、患者らしき人々が入り口の階段に腰かけていた。
私は立ち止まってもう一度マルタ病院を見た。しかし、チェの遺体が運び込まれたマルタ病院はのどかな風景の中に溶け込み、過去を捨て去ったかのようにその歴史を感じさせなかった。
アンドレアは車を降りると、赤い革ジャンのファスナーをおろした。どこで手に入れたのか、黒地に赤いゲバラのシルエットの入ったTシャツを着ていた。
「さあ、行くわ。私たちは日本とアルゼンチンのゲバラ・ファンよ。質問はあなたに任せるわ」
「いい作戦ですね」
「いざとなれば女の方が強いのは何度も証明されているわ」わたしはメイやアントニーナの顔を思い浮かべ、そして、もう一人の強い女性に頷いた。
アンドレアは受付に近付くと、いきなり訊ねた「ねえ、チェってこの病院で死んだの」受付に座っていたのは二十歳そこそこの若い丸顔の看護だった。その丸顔に戸惑いを浮かべて「わたし、詳しく知らないわ。でもここで死んだんではなくて、どこかで死んで、ここに死体が運ばれて来たんだと思うわ」と、たどたどしく答えた。
私は、何か言い返そうとするアンドレアを抑えて「日本から来ました。チェのファンですが、せっかくバリェグランデまで来たのでゲバラの話を伺いたいのですが、誰が当時を知っている人はいませんか」
「そうね、院長先生なら、ドクトル・モイセス・アブラムなら当時からこの病院の医者ですからご存じだと思うけど、だけど今は診察中です」と言って横のドアを見た。
「ゲバラの遺体はこの病院の何処に運ばれたのですか?写真を撮られたのはどの場所ですか?」
「裏よ。この病院の裏に洗濯場があるの。そこに死体が運ばれて写真が撮られたわ」と言って、左手の通路を指差した。
「そうですか、ありがとう。では先にその洗濯場を見たいのですが、許可が必要ですか?それから、後ほどドクトルに面会できませんか?」
「許可なんかいらないわ。今でも洗濯場に使っているの。約束はできないけどドクトルには伝えておくわ」
受付を離れて病院の廊下を右に回り、建物の間にはさまれた狭い廊下を壁に肩を擦るようにして進むと、白いベッドシーツとタオルがいく枚も干されて風に揺れている洗濯干し場に出た。
行く手を洗濯物に塞がれて腰を屈めると女性の太い足が見えた。洗濯物は洗ったばかりらしく湿り気があった。洗濯物を汚さないように近づき、布端を引っ張るようにしてシーツを干していた太った女性にもう一度チェの遺体があった場所を訊くと「もっと向こうよ」と教えてくれた。
朝日は霧を蒸発させ、今日という日が暑くなることを告げていた。エルネスト・チェ・ゲバラという世界に知られた人物の最期に関係した場所にしては、物足りないほど変哲のない日常的な風景がそこにあった。雑草が生い茂っただけの坂道を「こんなところでチェは・・・」と二人は疑いながら歩いていくと、さらに雑草の背丈が高くなった空地で坂道を下って来る男の子に出会った。その少年に訊ねると、黙って右手にある小さな廃屋のような家を指さした。
その洗濯場の周辺も雑草が茂っていた。正面に立つと、三方が壁で前部は壁もなく大きく開いていた。小屋は十二畳程度の広さの長方形で、その真ん中には腰の高さのほどの灰色の四角いセメント作りの台があった。六年前、今は伝説になったゲバラという革命家の死体はこのセメントの台の上にのせられ、上半身裸まま、目を薄く開いた写真はここで撮られ、全世界に衝撃を与えたのだ。
何もないこの場所が革命戦士の聖地なのだ。そう思って、佇んでいると、たった今エルネストの死体が持ち去れたといわれても信じられるほど時代を超越した空間にいるような気がした。目を逸らすと、ここを訪れた人々が革命を賛美し、ゲバラを称える言葉で壁を埋めつくしていた。
―死んだのは誰だろうか―、という声がした。
病院の受付に戻ると、丸顔の看護婦が「医院長が、ドクトル・モイセス・アブラムがオフィスでお待ちです」と告げた。
ドクトル・アブラムはメスティーソで肌の浅黒い男だった。唇が厚く、眉毛がそれに負けないように太く濃く、医者というより、陽にさらされて出来上がった農民のがっしりとした顔であった。しかし、不似合の眼鏡の奥には探るような疑い深い光を持った眼があった。
「珍しいですな、わざわざ日本からお越しとは。こちらのお嬢さんは東洋人には見えないが、どちらからですか」
「あたしはポルテーニョ。ガウショよ」
「ではチェ・ゲバラと同国人ですね」
「ええ、でもあたしはゲバラなんかに興味ないわ。私のノービオに付いて来ただけよ」
私はノービオという言葉に狼狽えて、アンドレアという美しい女性を見た。その言葉は作戦の一部だろうか。それとも彼女の本心だろうか。
「それは、それは。お国ではチェは英雄かと思ったのですが」
「あたしには関係ないわ」
「ドクトル、チェのことを訊きたいのは私でして、アンドレアはまったく興味ないのですが、わたしが無理に連れて来たのです」
「そうですか。それでどんなことを知りたいのですか」
「わかりません。ただチェ・ゲバラとはどういう人物だったのか興味があるのです」
「それは私には協力できそうにありませんな。私が会ったエルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナは正確にいうと死体であって、人物といえるものではありませんでしたから」ドクトル・アブラムは慇懃ではあるが少々の皮肉を含んで答えた。
「しかし、ドクトルは当時、ボリビアの民衆がチェに抱いたイメージ、あるいは死体になったチェに対してボリビアの民衆や軍がどのような反応をしたのか。人々に与えたインパクトをご存知だと思います。それも人格の一部だと思いますが」
「そうですな、チェという男は生前よりも死体の方が人々に強い印象を与えたのは間違いない。それも、残念ながらそのインパクトは我々ボリビア国民よりも、利害の関係ない無責任な外国の国民にだが。君は知っているかね、偶然だろうが、ゲバラを捕らえたその年にボリビア政府は死刑制度を廃止した。だから逮捕したゲバラを裁判にかけても最高刑は三十年という禁固刑だった。死刑制度が廃止されたことが逆にレネー・バリエントス大統領やアルフッレド・オバンド司令官に裁判よりも処刑を選ばせ、決断させたともいえる。死刑を廃止し、人命を救済しようという法律が皮肉なことに人命を奪った。そして、チェを英雄にしたのは、彼の名を地上から抹殺しようとしたボリビア政府だから、それもまた皮肉だ」それが癖なのだろうか。ドクトル・アブラムはペンを指先で廻すようにいじっていた。
「どこで検死したのですか。また、チェの遺体は公開後にどこに運ばれたのですか?」
「検視はここマルタ病院で行った。また公式発表では、チェの死体は焼却され灰はジャングルにばら撒かれたことになっている。それ以上を知りたいなら、それはボリビア陸軍の最高機密だろう。このバリェ・グランデに今も眠っているかもしれない。ゲバラを運んできたヘリは軍の将校だけを乗せて飛び立ったし、検死後、ゲバラの死体を運び出すのを見たものは誰もいない。しかし、あの頃、昼夜となく軍の車両は何十台とバリェ・グランデにやって来たし、出て行った。その中の一台が彼を乗せて出て行った可能性は充分にある」
「ドクトルのご意見はどうですか?この地に眠っていますか彼は?」
「わたしの想像を聞いたって無意味だろう。しかしボリビア陸軍、あるいはバリエントス大統領の性格は嫉妬深いので他国に移送することはないはずだ。公式発表の通りでなければバリェ・グランデかボリビアの何処の地に密葬されたはずだよ」
「彼の死体を焼却したと思いますか?」
「それはバリェグランデでということかね?それは無い。人間の死体は焼くとけっこう煙が出るし、匂いもある。誰かが気づくはずだ」
「ゲバラは隊を二つに分けたそうです。分隊の方はリオ・グランデ川を渡っている最中に待ち伏せされせん滅されたそうですが、その死体は何処に運ばれたのでしょうか」
「ホアキン隊のことかね?ここだよ。チェたちの死体より一か月以上も前にカミリ村から運ばれてきた。確か今の季節、八月の終わりか九月の初めだ。そうだ九月二日だ。私の従姉の娘の洗礼式があった日だよ。あれがゲリリェーロ達の最初の敗北だ。彼らをせん滅したマリオ・バルガス・サリーナス大尉は興奮したように勝利を発表し、報道陣に写真を撮るように催促していた」
「たしか、女性が一人いましたね。ターニアと呼ばれている女性が」
「ああ、彼女の死体は二日ほど遅れて運ばれてきた。女性なので尼さんたちが取り扱いにうるさかったのを覚えている」
「・・・彼女をごらんになりましたか」心は抑えきれないほど動揺し、私の声は震えていた。
医師はいぶかしげに私を見た。廻していたペン先が止まり、催促するように無言で私の言葉を待った。
「いえ、不思議だったのです。あのようなゲリラ活動に女性が参加できることが」私の言葉はまだ震えていた。そして医師は私の言葉に納得してはいなかった。
「私の専門ではないが、精神病理学的には女性が生死に関わるようなことに身を投ずるのは珍しいことではないそうだ。伝説のジャンヌ・ダルクのようにね。しかし、大抵の場合、身内が絡んでいる。つまり愛憎という情念が生死を超えて彼女たちを駆り立てる。理屈を超えた理念だよ」
「理屈を超えた理念・・愛憎ですか・・」
「そうだ、君にも覚えがあるのではないかね」
アブラム医師の疑念を含んだ眼差しに気付き、私は自分取り戻した。
「そうですね、女性というと男は余計な想像をするようです」と、ごまかすように言って笑った。
「ところで、もうひとつだけ伺わせて下さい。チェはなぜこの地を選んだのでしょうか?」
「質問の意味がよく解らないが?」
「つまり、チェはボリビアで革命を起そうとした。しかし彼のメンバーはわずか 数十名に過ぎなかった。彼らと同調して民衆が蜂起しなければ革命は成功しなかったはずです。しかし、この地には蜂起する人々が存在しない。それが理屈に合わないような気がするのですが」
「つまり、チェは誰も見る者もない所でなぜ革命の烽火を上げたのかという疑問をお持ちなのですね?」
「ドクトルの表現は文学的ですね。そうです。なぜこの地を選んだのでしょうか?なぜ人口の多いラパスやコチャバンバ、そしてパス・エステンソーロ大統領が五二年に行った政治革命のように鉱山労働者を参加させなかったのですか?」
「その答えはないが、実はチェと接触したジャーナリストで、イギリス生まれのチリ人、ジョージ・アンドリュー・ロスと私は会ったことがある。彼が奇妙なことを言っていたことを思い出す」
「・・・・・」
「ロスはこう言っていた『ゲバラは二人居るのではないか』とね。ロスはゲバラにインタビューを行う幸運に恵まれたそうだ。そして興奮のあまり話が長引いたそうだが、ゲバラは途中持病の喘息で激しく咳き込んだそうだ。ロスが心配すると『しばらく待ってくれ』といってチェは中座したそうだが、戻ってきたゲバラはまったく咳き込まなかったし、顔色も晴れやかで人が変わったように感じたそうだ。君はどう思う」
「ドクトル、あなたと同じですよ。奇想天外な仮説ですね」
「しかし、陸軍はそう思わなかったようだ。ゲバラの死体から両手を切断し、アルゼンチンに運んで本人確認をしたそうだ」
部屋が静かになった。ドクトル・アブラムは私の反応を待つかのように椅子の背に深くもたれた。
「それは本当ですか。しかし、なぜ私にそんな重大なことをドクトルは話すのですか?」私もドクトルの反応を待った。
「そうだな、君の真意を知りたいからだよ。君の質問には興味以上のものが含まれているような気がしてね。それにボリビア側には死体がゲバラであることを確認する指紋が保管されていなかった。彼らは不法入国者でね。そして切り落とした両手から採取した指紋をゲバラ本人だと確認したのはアルゼンチンから派遣されてきた連中だ。彼らが死体はゲバラだと言っただけなんだ。勿論、捕虜になっていたホアキン隊のゲリリェーロのホセ・カスティージョ、パコと呼ばれていたが、彼も面通しさせられ、チェだと確認したそうだ。しかし、あの血と土で汚れ、髪と髭で覆われた死体の顔をゲバラだと認定するのはよっぽど親しい者でなければ不可能だ」
「仮説ですが、ゲバラは故郷に帰りたがっていたのではないでしょうか。チェのことをお訊ねするのはドクトルにご迷惑でしょうか」
「アルゼンチンに?そうか、ここからならアルゼンチンのサルタは近いからな。私は当時も今も医者だ。チェのことを訊かれても問題はない。しかしトーマ君、隠されていることにはそれなりの理由があるからだよ。それを暴こうとすれば、そうとうの犠牲が必要となる。さあ、他に質問がなければ診療を続けたいのだが」と、催促するように、ちらっとドアを見た。
私は立ち上がりかけたが「ドクトル、他に誰に会えばよいでしょうか。チェのことを知るには」と、訊ねた。
「そうだな。一番いいのは直接大統領に聞くことだろうが、当時のバリエントス大統領は二年後の六九年のヘリコプター事故でチェと同じようにあの世に行ってしまった。オバンド司令官はその後大統領になったがバリエントスと一緒にチェを葬った仲間だから口を割らないだろう。現在の第五十一代大統領のウーゴ・バンセル将軍は、第四代のホセ・ミゲル・デ・ベラスコ大統領や第三十六代のへルマン・ブシュ大統領に次ぐ数少ないサンタクルス出身の大統領だ。ボリビア政府がチェの埋葬場所を明確にするとしたら政治垢のないサンタクルス出身の大統領の時代だろう。しかしバンセルは軍人だしタカ派だと言われているので尊敬する陸軍の先輩たちのために沈黙するだろう。」ドクトル・アブラムは冗談のように笑いながら大統領たちの名を挙げた。そして一呼吸間を置いて真顔になると言葉を続けた。
「そうだな。君がもっと深く知りたいなら、ロジェ・シラー神父、それからガリ・プラド大尉。そして・・ニコラス・カマチョかな。この件は関係者が多すぎてね。それだけに誰が真実を語っているか分からない。ドミニコ会派のシラー神父はゲバラがラ・イゲーラ村で処刑され、ヘリコプターでバリェグランデに移送されようとした時、ラ・イゲーラの近くのプラカ村から驢馬で駆けつけ、ゲバラの死体に臨終の塗油を施し、祈りを捧げたそうだ。彼は高血圧でね、私の患者だが、その後もゲバラに関心を持っている。プラド大尉はゲバラを捕えた男だ。この村の出身らしいが、あの男はカバリェーロだ。しかし、軍人は真実を知っていても、話さないだろう」
「最後のニコラスという男は?」
ドクトル・アブラムは苦々しそうに言葉を吐き出した。
「あの男は裏切り者だ。噂だが、ゲリリェーロと陸軍の両方に情報を売って財をなしたという。それが真実なら、ホアキン隊を売って皆殺しにさせたオノラト・ロハスのようにあの男が殺されないのが不思議なくらいだ」
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