樹影の下で 第四章 サンタクルス・デ・ラ・シエーラ 1973年8月 Ⅶ
朝の町は白い霧に包まれ夜が明けるのを拒むかのように静かな眠りの中にある。アンドレアは私の腕を両手でつかんで少し楽しそうに霧に濡れた敷石を歩いている。ふたりが向かっているのはアレハンドロたちの宿だった。
宿の泊り客たちはまだ目覚めていないらしく、受付けの男はカウンター中で毛布を被って椅子に座ったままで眠っていた。アンドレアはカウンターをこぶしで叩いた「ねえ、起きてよ。アレハンドロというガウチョの部屋は何号室?」と訊いた。
受付の男は眠そうな顔を上げた。アンドレアはもう一度「アレハンドロの部屋は何号室?」と有無を言わせないような口調だった。
男は毛布をまとったまま起き上がると、明かりを点け宿帳を見た「ああ、207号だ」と、気後れしたように答えた。
アンドレアは礼も言わずに二階に上がっていく階段に向かった。男は寒そうに毛布を肩まで上げながらアンドレアの後ろ姿を見て、私に「あれ、誰?」と訊いた。
「レイナだよ」と、答えると、男は納得したように肩をすくめて「ドアを閉めるのを忘れんでくれ」と言って、まだ目覚める気はないらしく元のイスに戻って毛布を被った。
二階に上がるとアンドレアはすでに207号室のドアをノックしていた。少しドアが開いてマルセーロが外を覗くと、アンドレアは「オラ・ケリード・エルマーノ」と言って微笑んだ。
「やっぱりついて来たのか。用心していたが、アレハンドロはお前とトーマを一緒に置いてきたことに後悔するだろう」
「すみません」と、わたしが後ろから謝ると「いや、わかっている、妹には誰も逆らえないさ」と言ってマルセーロはドアを開けた。
「アレハンドロは?」とアンドレアが訊くと「歩いてくるといって朝早く出掛けたよ」と、マルセーロは答え「そろそろ帰って来るさ、きっと怒るぞ。トーマ、言い訳を考えとくんだな」とつけ足した。
わたしは助けを求めてアンドレアを見た。彼女は唇の端に笑みを浮かべていた。それは彼女が助けにならないことを意味していた。
帰ってきたアレハンドロは何も言わなかった。霧で濡れたのだろうかジャンパーを脱ぐとイスの背に掛け、叱咤するような目つきで私を見たが、思った通りアンドレアは私を助ける気はないらしく、そっぽを向いていた。
「すみません」と、私はもう一度謝った。
「トーマ、君はブエノスでも危険な目に合ったはずだ。私がここに来たのはある意味ではもっと危険なことだ」
「それは、チェたちの埋葬場所を探すことですか」
「・・・・・」
「彼の遺体をどうしようというのですか。アルゼンチンに運ぶのですか。それともクーバですか。私はターニアに頼まれたのです」
「なにを?」
「彼女は『忘れないで欲しい』と私に頼んだのです。あなたがチェを探すなら私はターニアを探したい」
アンドレアが反応を示した。私を見るとなにかを言いかけたが、言葉が見つからないようで黙った。
「・・・・」
「エルネストの遺体はこのバリェグランデに運ばれ、ターニアたち別働隊の遺体はその四十日前にここに運ばれて来た。そして、どちらもこの町から移された気配がない。この町のどこかに隠されて埋葬されているはずです」
「・・・・・」
「その通りだ。・・・わかったよ、君にも手伝ってもらおう。ここまで来てしまったのだ。しかし危険なことは承知してくれ、六七年にここでは数十人のゲリラが殺された。そのゲリラの復活を願っている者はこの国には・・いや、どこにも居ない」
アレハンドロがそう言うのを聞くと、それまで黙っていたアンドレアが怒ったように口を挟んだ。
「やっぱり、トーマの思い通りじゃない。アル、そんなことでどうするの。ゲリリェーロの名が泣くわ。それに誰よ、ターニアって!」最後の女性の名をアンドレアは語気を強めて言った。
私はそれに答えなかった。アンドレアはアレハンドロを見つめていた。
「君の思い通りでもあるだろうアンドレア。だいいち君がトーマを巻き込んだことぐらいは聞かなくてもわかっているつもりだが」
「そうよ、だけど何か面白くないわ」
「アル、妹は自分がイニシアチブを取れないのが悔しいんだよ」
「ちがうわ。それもあるけど、アルは危険だと言いながらサンタクルスからここまでトーマの予測通りに動いている。そんな甘さでは危険を回避することなどできないわ。あんたたちチェと同じように待ち伏せられて殺されるわ。それに知らない女の名前も出て来るし・・」
「・・・・・」
「・・・・・」
アレハンドロは、じっとアンドレアを見つめていたが、静かに訊いた「その通りだな。しかしアンドレア、君は何を恐れている。なにか知っているのか?」
「・・・オペラシオン・コンドルよ」
「オペラシオン・コンドル?フェデリコも同じことを言っていた。どういう意味だ。だれから聞いた?」
「どういう意味かは知らないわ。でもホセが誰かと話しているのを聞いたわ『オペラシオン・コンドルが結ばれる。このオペラシオンが実行されると我々は逃げ場を失って殲滅されるだろう。こうなった以上ペロンを信頼することはできない。このアルゼンチンの戦いに勝つにはチェを蘇らせるしかない』って、深刻そうに誰かと話していたわ」
「オペラシオン・コンドル。何かの作戦名だろうか、マルセーロ、君はホセから何か聞いたか」
「いや、ホセは俺を組織の中枢から外していた『プリモ、君は深く関わらない方がいい』とね。彼は俺とアンドレアを巻き込みたくなかったのだろう」
アレハンドロは両手で額を包み込むように俯き、何かを思い出すように目を閉じた。そして、しばらくすると額を上げて話し出した。
「この言葉には軍が好みそうな響きがある。フェデリコも陸軍の将校から聞いたと言っていた。そして、チェはあの最後の十月、チューロ渓谷で小休止したとき『すまんな、隠すつもりはなかったが、フィデルからの情報では、CIAがボリビアだけでなく、ラテンアメリカの各国に秘密軍事協定を結ぶよう圧力をかけている』と話していた」
誰も声を出さなかった。アレハンドロは立ち上がって「コーヒーが飲みたいな。濃いやつだ」といった。
「オペラシオン・コンドル。推測だが、ラテンアメリカの政府か軍が左派狩りの作戦のために軍事同盟を結ぼうということだろう。問題はどこの国がその同盟に加盟しようとしているのか、そしてそのオペラシオンはいつから開始するのかだ。作戦名にコンドルというアンデスに棲む鳥の名が付けられているからにはこのボリビアも加盟すると思って行動したほうがよさそうだ」
「アンドレア、どこに泊まっている。お前もこのホテル移った方がいい」
「いやよ、マルセーロ。あなたたちの行動は単純すぎるわ。ガウショが三名かたまっているより、日本人のトーマと一緒の方が安全よ」
「しかし・・・」
「いや、確かにそうだ。今後、我々は一緒にいることを避けよう。今日はチェの遺体が公表されたマルタ病院を訪ねる予定だったが、そこにはトーマとアンドレアに行ってもらった方がよさそうだ」
「いいわ。連絡はどうする?」
「お互いの車が目印だ。マルタ病院を出たら坂の上にあるメルカードの方向に向かってくれ。メルカードの角にチェというカフェがある。すぐに覚えられる名前だろう。そこで待っている。君たちが来たら俺たちは店を出るから距離を置いて付いて来てくれ。緊急事態の場合はソレダ街にニコラスという男が住んでいる。その男を訪ねてくれ」
「その男は信用できるの」
「さあ、それはこれから俺たちが会って確かめてくる」
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