樹影の下で 第四章 サンタクルス・デ・ラ・シエーラ 1973年8月 Ⅵ



マタラル村からバレェ・グランデ村に向かう道路はひどく悪かった。雨の季節にトラックの車輪で抉られたのだろう、太い轍が乾燥して硬くなり、まるで大蛇がのたうったように長い轍が何本も往く手に横たわって続いていた。ジープの車輪がその轍に落ちると、大蛇は車の底を削って暴れた。その度に車は大きく揺れたが、静寂を避けたいわたしにとって気分が悪くなるようなこの悪路の揺れは救いであった。しかし、車輪はまるで粉の上を走っているかのように土埃をもうもうと舞い上げ、後部の窓ガラスから砂塵が雨のように流れ、完全に閉めきったはずの車内に何処からか入り込んだ見えない土埃の匂いが鼻腔に吸いついた。八月の南米はすでに冬のはずだったが、閉め切った窓から差す西日は強く、風を遮られた暑さにシャツは汗で濡れて快適とはいえなかった。
意外にもアンドレアはドライブを楽しんでいた。彼女は顔を汗で光らせ、Tシャツの胸元は、下着が浮いて見えるほど汗に濡れていたが、嬉しそうにハンドルを左右に切って、大蛇と遊んでいるかのようだった。そしてタイヤが砂利に滑って車が半回転して止った時などは、子供のような無邪気さでハンドルを叩いて笑い止まなかった。

バリェ・グランデ村の入口にさしかかる頃には夕暮れの気配が空に広がっていた。アンドレアは車をバックで路地に入れて停車すると、サイド・ブレーキを引き、少しシートを倒して背伸びした。
「やっぱり疲れたわ。でも、ここまで無事に来てしまうと、なんだかカミーノと格闘して勝った気がするわ。ねえ、ここでアルとマルセーロを待ちましょう。村に入ってしまったら探すのが難しいでしょう」そう言って、目を閉じた。
「ええ、そうしましょう。あなたはなんだか楽しそうですね」わたしは、鼻と喉に詰まった土埃の微粉末を吐き出すように言った。アンドレアは答えなかった。挑むような目は閉じられていたので、安心して彼女を見ることができた。アンドレアの顔は汗と土埃で汚れていた。それでも本当に美しい女性だと思った。

夕暮れが夜に変わるのは早く、夜の闇は音もたてず素早くカーテンを引いて夕暮れの太陽を次の日へと運び去った。
「ねえトーマ、あんたも色々な過去を背負っているようね。マタラル村でなにがあったのか知らないけど、バリェグランデ村への入口なら、チェやアレハンドロ、そしてターニアという女と関係しているんでしょう。だけど・・それだけではなくて・・あんたの思いつめ方は、まるで失恋した中年男のようだったわ」アンドレアは倦怠に襲われたようにシートに寄りかかった。
「あたしは、あんたもアルも好き。ホセも好きだったわ。可哀想なホセ、過去を混ぜこぜにして死んで行った。ホセもアルも思いつめて人生を台無しにしているわ。さっきのあんたを見ていたら、トーマも彼らと同じ魔物にとり憑かれそうになっていると思って怖くなったわ。男はみんなエストゥピドよ」
アンドレアがため息をつくと、遠くの空がわずかに明るくなった。
「車が来るわ」
「アレハンドロたちが追いついたのだろうか」
「こんなところに、この時間に他に誰が来るの」そう云うとアンドレアはエンジンを始動させた。
やがて、車のライトだと分かるほど光は近づき、そしてエンジン音が聞こえてきたかと思うと、すさまじい土埃を撒き散らしながら車が走り過ぎた。
アンドレアはすぐにギアを入れ、後を追ってトヨタを発進させた。フロント・ガラスは舞い上がる土埃の煙幕で視界が閉ざされていた。
「大丈夫かい?」
「どうせすぐに町に入るからスピードを落とすわ。でも酷い埃ね」たしかにそう走らせなくても町に着き、先行する車が右の路地に曲がるのが見えた。
バリェグランデの市街地は古い二階建ての建物が多く、殆ど平屋ばかりのサンタクルスとは趣が異なっていた。そして二階建ての家屋に両側から挟みつけられた石畳の路地は狭く感じた。また、家屋の二階にはベランダがあり、その窓から差す明かりが石畳を濡れたように光らせていた。しかし、夜風は寒く、家々の窓をしっかりと閉じさせていた。
その石畳の道の脇にローバーは停まっていた。停車している建物はドアが開いていたので、そこから光が道に溢れ、中から話し声が聞こえた。
「ねえ、どうする」ローバーから少し離れて停めた車の中でアンドレアが訊いた。
「どうするって、なにを?」
「あたし、疲れたわ。彼らの宿もわかったし、今晩はアレハンドロたちと別の宿に泊まって、明日にしましょう。今日はもう何にもしたくないの」
アンドレアは本当に疲れたようだった。しかし、私は彼女の目の奥にあるわずかな光が気になった。
「なにか企んでないかい?」
「なにを?そんな気力なんかないわ」
「なんだか怪しいね」

アレハンドロたちの宿からそう遠くないところに宿を見つけたのはアンドレアだった。彼女は「待っていて」といって宿に入って行き出てくると「さあ、荷物を降ろして」と言った。私には荷物などなかったがバックシートにはいつ積んだのか小さなトランクが置かれてあった。
「いつの間にトランクを積んだの?」
「どうでもいいの。それよりわたしの部屋に運んで」
二階に上がる階段を登り、部屋の鍵をアンドレアが開けたので、中に入ってトランクをベッドの上に置いた。
「それで、ぼくの部屋はどこ?」と訊くと、アンドレアは嬉しそうに笑い、ベッドに弾むようにして腰掛けた。
「やっぱり企んでいたんだ。別の部屋を頼んでくるよ」
「だめ!今日は一緒に寝るの。あたし疲れているし、ホセのことが思い出されて、一人では眠れないわ。あなたが傍にいてくれないと心細くて眠れないわ」
ベッドの縁に腰かけたアンドレアの瞳に涙が流れていた。彼女が語った母親の死んだ日の話を思い起こされた。彼女はアギレーラ家を訪ねた時のたった五才の子供に戻っていた。幼く心細げでそして助けを求めていた。
明かりを消してベッドに入ると、アンドレアはおずおずと私の傍らに身を寄せた。
「アンドレア」と呟くと、彼女は小さく首を振った。
彼女の肌が香る。壊れてしまいそうな細いからだが抱き着いてきた。小さな息を首筋に感じた。闇の中に二人の体温だけが、それだけが大切であるかのように抱きあった。彼女の蕾のようなやわらかな唇が触れると愛おしさが溢れた。
「トーマ、愛している」
「でも、アンドレア」
「わかっているアントニーナを愛しているんでしょう」
「でも、トーマ、わたしを忘れないで」と呟いた。そして吐息は小さくなり、静かな寝息に変った。
闇の中にアンドレアの安らかな寝息が規則正しく聞こえた。外では風が強くなってガラス窓が震えている。私は彼女を抱いたまま眠れなかった。アンドレアはターニアと同じことを言った「忘れないで」と、人はなぜ、他人の心の中に自分を残したいと願うのだろうか。まるで自分が消え去っても、誰かの心の中のどこかに自分が残っていることに安堵するかのようだ。そして、それはやはり別れを意味するのだろうか。アンドレアは刹那に生きているといった。これが刹那だろうか、アンドレアは「あの街でしか生きていたくないわ」とも言っていた。
まどろみながらアントニーナを想った。わたしはアントニーナを裏切ったのだろうか。腕の中にいる女性以外を想うことはアンドレアに対しても侮辱だろうか。同じように別の女性を抱いたままアントニーナを想うことは彼女を汚すことになるのだろうか。しかし、わたしは疑いもなくアントニーナを愛している。
世の中の価値観や道徳はふたつの愛を許さない。しかし、それはなぜだろうか。メイは「愛には肉体的な愛情であるセックスとプラトニックと呼ばれる精神的な愛がある。しかし、二つのものは同じではない」と言っていた。また「大半の道徳と呼ばれているのは統治する側の者が治めやすいように決めたものよ。それを法律と呼ばないのは教会と同じで、目に見えない神聖なものとする必要があるから」と、言って笑った。
人の愛とはなんだろうか。人間は肉体の衝動を愛と取り違えることもあるが、そのような生殖的な欲望とは別の、愛情を確かめ表現しうる行動かもしれないないが、少なくとも男と女は互いの肉体を求める、それは、愛とはまったく別の、神が種を残すために与えた餌のような快楽に過ぎないのだろうか。そして私は長い一日の旅に疲れ、深い睡眠の井戸の中に沈んでいった。

夜が明けようとしていた。昨夜風で震えていた窓からわずかだが朝日が差しいている。アンドレアは安らかな寝息をたて、あどけない素顔はよく見ると白い頬に微かな茶色のそばかすが散っていた。そのせいか彼女の顔は幼く、いつもの挑むような瞳が閉じられて純真な乙女のような寝顔だった。
「もう目を開けてもいい。トーマ見ているんでしょう、あたしを」目を閉じたまま笑みを浮かべてアンドレアが訊いた。
「ああ、充分に見たよ。君は美しい」アンドレアは目を開けて、上半身を起すと私にキスをくれた。

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