樹影の下で 第四章 サンタクルス・デ・ラ・シエーラ 1973年8月 Ⅴ



 トヨタのランドクルーザーはマタラーニ村に向かって降りていった。故人を弔うように風が啼いて吹きつけている。マタラーニ村を過ぎてもアンドレアは語ろうとせず、私も疲れきって、催促する気すらなかった。
  目を閉じると夢の中に引きずり込まれ、風が秘密を囁いていた。
 チェが葉巻を咥えて髭面を崩して笑っている。アレハンドロが傍らに座っている。二人の顔は髭に覆われ見分けがつかぬほど似ていた。二人は粗末なアルミニウム食器で食事をしている。ターニアはコーヒーを沸かしている。ゲバラが咳き込むと「また喘息発作?今日の出撃はアルに代わってもらって休んだ方がいいわ」と、ターニアが心配そうに言う。チェは「いや、そろそろボリビア政府軍もアルの存在に感づく頃だ。俺が行って、ソルダディットたちをからかって来よう、それで疑いが晴れる」そう言ってコーヒーを受け取った。
 「プリモ、君は一度クーバに戻った方がいい。ボリビア国民は蜂起する気配すらない。
言いたくはないが、このオペレーションは失敗する可能性がある。フィデルだって解ってくれるさ。クーバに戻って療養しながら時を待つべきだ。この戦線には俺が残る」
エルネストは葉巻を挟んだ右手を上げて制止した。
「アル、これは私の戦いだ。誰かが代われるものではない。ここで死んでもクーバに戻ってもたいした違いはない。私はいつか革命の中で死んでいくのだから」
「しかし、プリモ・・」
「いや、いい。ここでいいのだ。あの南の峰々の向こうは祖国アルヘンティーナがあると思うと気も休まる。この世紀は帝国主義のアメリカから南米の国々が二度目の独立を勝ち取る世紀だ。二十世紀の植民地主義は形が変わっただけでまだ続いている。武力というあからさまな侵略でなく、自由経済主義という名のもとで投資と利益というもっともらしい形に姿を変えただけだ。それは金貸しの利息取り立てと何も変わらない。金貸しの方が姿を偽らない分マシだともいえる。南米の国々は利己的な欲深い傀儡が国の富と民衆を供物として姿を変えた奴らに差し出している。この侵略は見えない分だけ複雑でやっかいだ。しかし傀儡には真実がない。我々はそれを民衆に気付かせる必要がある」
そこまで話すとチェは疲れきったように大きく息を吸った。
「コマンダンテ、ラパスでマリオ・モンヘが私に言ったわ。ゲバラは民衆を理解していないと。私、その言葉が不安なの」
ターニアはひとりの女性に戻ったように心細げに肩を抱いた。
 「ターニア、モンヘがいう民衆と、私の愛する民衆は別だよ。まったく別の民衆だ」
「でも、この地にあなたの愛する民衆は存在するの?」
「さあ」といってチェは微笑んだ。
「希望は捨てるために持つものではない。持ち続けるためにあるのだよ」
「エルネスト・・・」
「さあ、出掛けようか・・」そう言って、チェは葉巻を捨てた。
その時、私は風景が揺れるのを感じた。エルネストもアレハンドロもターニアも霞んで遠ざかり、そして消えた。
「ねえ、ここを曲がるのでしょう?」誰かが私を揺すっている。
「トーマ、起きなさい。ここを左に行くんでしょう」声は苛立ってきた。「誰なの、ターニアって!」今度は怒りを含んだ声だ。夢が完全に消え、目が覚めると、わずかな距離にアンドレアの責めるような黒い瞳があった。
マタラル村に着いたわ。バリェグランデはここを左に曲がるのでしょう?」
「そうです。だけどアンドレア、もう少し先、あのカーブの辺りまで行ってくれないか」
アンドレアは不思議そうな表情を浮かべたが「わかったわ」といってそれ以上訊かなかった。
 その場所に着くと、わたしは車を降り、ターニアを迎えに来た男が立っていた樹影の下に立ってみた。あの時は気が付かなかったが、それはタヒーボの木だった。樹木は今、黄色の花を満開に咲かしていた。
あの日、ターニアは一度だけ振り返ってわたしに手を振って別れを告げた。彼女の去って行った姿を求めると、農民たちが踏みしだいたのか、細い人幅の道がタヒーボの横から潅木の中に続いていた。その小道をターニアが去って行く、そしてもう一度振り返って少年の私に微笑んだ。風景は歳月のフィルムを巻き戻し、私は過去の時間の中に立ち尽くしていた。あの時には分からなかったが、私は心のどこかでターニアが引き返してくることを期待していたのだ『あなたはどうして分かりきった絶望の道を選んだのですか』と、幻影に小さく訊ねた。勿論答えは返ってこなかった。それが哀しさとなって私を包んだ。
風が鳴り、止った時間の歯車が動き出すと、道路脇に止めた車にアンドレアが所在なさげに寄りかかって靴のつま先で土を蹴っていた。彼女が右手の方角を見た。その方面から低い車のエンジン音が聞こえてきた。そして、しばらく間をおいて長距離バスが古い車体を揺するようにしてゆっくりと現れ、私の前で停車し、アンドレアとの間を遮った。
バスはボリビア人好みの派手な原色で塗られていた。エンジンを停止させることもなくドアが開き、二歳ほどの幼子を連れた女性が降りてきた。運転手は彼女と知り合いらしく「マルガリータ、ケ・レ・バーヤ・ビエン」と別れを告げた。マルガリータと呼ばれた女性は二十歳を越した程度でまだ若く、男物のような身体より大きめな白いシャツを着て、黒い髪をしっかりと後ろに留めていた。
彼女はバスを降りると、むずかっている娘を諦めたように抱き上げ「アスタ・ルエーゴ・ラウル」と、返答してタヒーボの木の後ろにある小道に入って消えた。
バスの運転手はそれを見届け、ドアを閉める前に不信そうに私を見たが、何も言わずにドアを閉めた。アクセルを踏み込んだのだろう、エンジン音が大げさに高くなったが、それに似合わずバスはゆっくりと車体を震わせて動き始めた。
私がバスの埃に後にさがった時、少年の声を聞いた気がした。そしてバスの車窓のひとつから強い視線を感じた先に、バスの窓から少しだけ身を乗り出した少年が私を見つめていた。
風が少年の前髪を額に被せていた。少年は寒いアンデス山脈を降りてきた者のように白いシャツの上から古びた茶色のジャケットを着ていた。彼は、何かを伝えたいかのように褐色の瞳を大きく見開いていたが、口元で「アディオス」と言って、手のひらを振って別れを告げた。
舞い立った土埃がおさまって、少年が乗ったバスが見えなくなっても、私はしばらくバスの消えた方角を見つめていた。いつの間にか風の音も吹き止み、辺りは静寂に包まれていた。立ち尽くしている私にアンドレアが何か言いたげに近寄ったが、結局、何も言わずに私を抱きしめてくれた。
バスの車窓から手を振った少年は、ターニアに別れを告げてサンタクルスに帰って行ったあの時の私だった。私はターニアを見送った少年時代のかつての自分に別れを告げられた。

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