樹影の下で 第四章 サンタクルス・デ・ラ・シエーラ 1973年8月  Ⅲ



アンドレアの運転は直線になるとスピードを出し、カーブになると急ブレーキを踏むような乱暴な運転だった。アンゴストゥーラ村を過ぎて山岳地帯に入ると車はカーブごとに左右に揺れ、ブレーキが踏まれる度に前後に揺さぶられた。さすがに気分が悪くなり、シートを倒して眼を閉じると、アンドレアの笑い声が聞こえた「トーマ、大丈夫、ハッハッハ」わたしは目を閉じたまま吐き気に堪え、吹きあがらないエンジンを積んで谷間をよたよたと走っていたオンボロのバスを懐かしく思い出していた。

やがて、ベルメーホ村のシンボルである赤い岩山が眼前に高くそびえ、緩いカーブを曲がると左手の道路脇に、シートで荷台を覆った大型トラックが幾台ペンションの店先に停車していた。そして、そのトラックの間に隠れるように挟まってアレハンドロたちのローバーが駐車していた。
アンドレアはローバーを確認するため一時停止したが、すぐに走り出そうとした「サマイパータ村に先に行くわ。どうせトーマは朝食を食べる気になれないでしょうから」
「いや、待ってくれ」私はシートから身を起した。
「アレハンドロは用心深い。君が追いかけて来る可能性を考えて、食事をしながら通りを監視していると思う」
アンドレアは唇を噛み、毛先をいじって迷っていたが、ギアをバックに入れると後ろを振り返ってアクセルを踏んだ。
「やっぱりあなたは用心ならないムチャーチョだわ。隠れるのは嫌いよ。でも、もっと先まで我慢するわ。あいつはクエバで正体を隠して、いつも私をからかっていたわ」
「それも愛と情熱?」
「え!」
「いや何でもないさ」

アンドレアは村の手前のカーブまでバックで戻り、木陰から覗くようにアレハンドロたちの車を見ていた。そしてシートを少し倒すと楽しむように鼻歌を歌いだした。
 「アンドレア、君たち兄妹とパードレ・・・ホセ・アギーレスの関係は何だったの」
すると鼻歌がやんで、アンドレアの横顔に初めて見る真剣な表情が現れた。
そして一粒の涙が黒い瞳の縁に膨らんで流れた。
「ホセはプリモよ、マルセーロより九つ上のプリモ」
「プリモ・・従兄・・」
「そうよ、私は五つだったわ。そしてマルセーロが八つの時、クリスマス・イブの夜が明けた朝、ママがベッドで冷たくなっていたの。そして翌日のクリスマスにママを村はずれの墓地に埋葬すると、私たち二人は母の姉の家に引き取られたわ。クリスマスってイエスが生まれた日でしょう。そんな日に冷たくなるなんて母は最後までついてない人生」
「・・・・・」
「伯母の嫁ぎ先のアギーレス家はコルドバの旧家でブエノスの郊外にも大きな屋敷を持っていたわ・・・、ほら、あの晩トーマとアレハンドロをかくまったあの屋敷よ。その屋敷にマルセーロがわたしと手をつないで戸口に立った夜。おずおずと中に入ると、広い応接間には公園でしか見たことのないような大きなクリスマス・ツリーが飾られていて、伯母の家族は正装していて、私たち二人のみすぼらしさに眉をひそめて『マリーア、この子達を部屋に連れていって!』という金切り声が最初に聞いた伯母という人の声」
「・・・・・・」
「だけど・・『ママ、この子たちプリモスでしょう』と言って、握手を求め、澄んだ瞳で笑いかけてくれた若者がホセだった。私たち兄妹は彼の家で育ったの。敬虔なクリスチャンだという伯母は、他の使用人と私たちを区別しなかったわ。幼いということは彼女とっては労働力の低下としか映らなかったでしょうね『差別してはいけない』と何度も繰り返し聞かされたわ『労働者同士は差別してはならない。階級はふたつあれば充分』それも彼女の口癖。そして私たち兄妹は身内ではなく、保護者も身元保証人もいない役立たずの労働者として引き取られたの。マルセーロはクリスマスのその日から働かされ、わたしは邪魔になるからという理由で引き離されて地下の女中部屋に押し込められた。隣の部屋には料理人の夫婦が住んでいた。淋しくて、ひとりで泣いてマルセーロを呼びながら眠ってしまい、ベッドで冷たくなっている母親の夢を見て悲鳴をあげて眼が覚めたわ」
アンドレアは言葉に詰まり、ぼくは訊いたことを後悔した。
「あの頃・・・、ホセだけが私たちをプリモスとして接してくれた。彼は私たちの兄のように振舞ったわ。力強くて、そして優しくて・・・だけど、彼は、父親の教育方針でコルドバの全寮制の大学に進学することになって・・・、その別れの日『可愛いアンドレア、プリマお利口さんにしているんだよ』と言って、私の髪に触れてキスをしてくれた。そして私たちの傍からいなくなった。」
「ねえ、アンドレア。もういいよ。辛いだろう、話さなくてもいいよ」
「ノー!訊いて。トーマには知って欲しいの、わたしがどんなふうに育ったのか、ホセはなぜ政治なんてバカなことをするようになったのか。聞いて欲しいの・・」
アンドレアはベルメーホの山に視線を向けた。そして気持ちを落ちつけてから、また語り出した。
「マルセーロは、学校には通わせてもらったけど遊んだこともなく、アギーレス家の家庭内労働者だったわ。毎日疲れて、無理して私に笑顔を見せたけど、食事をする気力もなく、服を着たまま眠る夜が多かった。わたしは、数年もするとギーレス家の女中にされたわ。ダブダブの黒いワンピースの上から白いエプロンまでしっかりと着せられ、食器を割ると『マリーア、お仕置きしなさい』って、自分では手を汚さない伯母が叫ぶの。そうだわ、ティーアなんて呼んだことは一度もないわ。いつも『シー・セニョーラとオドオドと返答していたわ。マルセーロは『アンドレア、お前が中学を出るまで我慢しよう』と、いつも言っていた。信じられる、わたしが中学を卒業するまでマルセーロは九年も我慢したのよ」
「・・・・・」
「十五才になった頃には、この世の中の仕組みがもう理解できていたわ。人生は無慈悲で、いつか母のようにベッドで冷たくなって終わるものだと知っていた。だから、料理人夫婦の部屋のラジオから聞こえてくる、切ない人生を歌ったタンゴやバンドネオンが心に沁みて、私にとってタンゴは肉体を駆け巡る血液のようなもの、自然に同化して、そしてタンゴを歌いだした」
アンドレアは目を閉じて、小さな声で歌いだした。トヨタの狭い空間にブエノス・アイレスを偲ぶ切なさが満ちた。
ミ・ブエノス・アイレス
わたしの愛するブエノス・アイレス
もう一度あなたに逢えたら
悲しみも消え
忘れることもないでしょう
・・・・・・・
「これが最初に覚えた歌。伯母の家から飛び出して、母の友人だったという怪しげなテレサがキャバレーで歌えるように頼んでくれたわ。マルセーロが心配して、一時帰省したホセと一緒に訪ねて来て、屋敷に戻るように説得したわ。私は『黒いワンピースと白いエプロンを着せに来たの』って二人に怒鳴ったの。ねえ、トーマ聞いている」
「ああ、聞いているよ」
「ホセはその頃、大学で神学と哲学を学んでいた。彼には天職といってもよかった。あれほど外的にも内的にも神様に全てを捧げていた者を他に知らないわ。その頃のホセの説教を聞いていると、母のベッドで一緒に死んで葬られたはずの神様の存在まで信じたくなったわ。彼はブエノスに帰って来るたびに、わたしの楽屋を訪ねて、鏡の前で口紅を塗り、赤いハイヒールを履いているわたしの後ろに立って説教していたわ。わたしはワザと下着姿になって彼を誘惑したわ。だけど、彼は純粋な心を曇らせなかった。信じるものがあって、それを伝えたいという聖職者の伝道の使命を持っていた。可哀想なホセ・・」
アンドレアはとうとう泣き出した。しばらくハンドルに顔を埋めるようにして肩を震わせていた。怒っているアンドレアは手に負えない。しかし泣いているアンドレアはそれ以上にどうすることもできなかった。

アンドレアは泣き止むと「可哀そうなホセ」と言って頬の涙をハンカチで拭いた。
「どうしてホセは聖職者であることを捨てたのですか?」
「違うわトーマ。彼は聖職者だったし、聖職者であることを捨てたことは一度もないわ。伝道方法を変えただけで、いつも純粋な聖職者だったわ」
わたしはニコラス神父が話していた、ルハン聖堂の祭壇の前に立ち尽くしていたというアギーレスの姿を想像した。
「ホセの父親は陸軍将校で、もう引退していたけど四十六年にペロン政権が樹立したときは側近のひとりだった。ファン・ペロンの大統領就任式の時。三才の少年だったホセがペロン新大統領に抱きかかえられている写真が応接間の一番目立つ壁に飾ってあって、ホセは両親の自慢の息子だったわ。それはわたしたちがアギーレス家に来る前の話しで・」
「ちょっと待って!すると君は今、いくつ・・・、もしかして二十歳!」わたしは聞いた話をもとに計算して驚いてアンドレアを見た。
「トーマ、わたしを幾つだと思っていたの!」
「だって君は・・・・」
「アレハンドロ、あいつのせいね。わたしをメデューサなんて呼ぶから。齢喰った物みたいに思われたのだわ」
「僕と同じ歳?」
「当たり前よ!」
「しかし・・・」
「待って!アレハンドロたちが出てきたわ」アンドレアは僕の話を制して、前を指さした。
アレハンドロとマルセーロが車に乗り込んだ。左側に乗り込んだのはマルセーロだったので彼が運転しているらしい。
トラックの間からローバーが出て行くと、アンドレアはエンジン・キーを回した。

コメント

このブログの人気の投稿

第三章 ブエノス・アイレス 1973年6月 Ⅻ

樹影の下で 第四章 サンタクルス・デ・ラ・シエーラ 1973年8月 Ⅸ

第五章、サンティアゴ・デ・チーレ 1973年9月 Ⅴ