樹影の下で 第四章 サンタクルス・デ・ラ・シエーラ 1973年8月 Ⅱ
「そうだ、しかし君には残ってもらいたい」
アンドレアが鼻で笑って言った。
「そうだアンドレア、君も残って欲しい」
「頼まれたってそんな山の中になんか行かないわ。でも車を借りるならもう一台借りて、トーマと出掛けるわ」
「僕は運転しないよ」
「あたしが運転するのよ。それよりあんたみたいな飲んだっくれがよくそんな車を借りる金があるわね」
アレハンドロはニヤリと笑って「実は俺の金ではないんだ」と言った。
「誰の金よ」
アンドレアが問いただすようにきつい声で訊いた。
「ドン・フェデリコだ。いや正確にはトーマかな。つまり、ドン・フェデリコがトーマを預かってくれといって金も一緒に預けた。しかし、トーマには金の使い道がないだろうから俺が使っているというわけだ。構わないだろうトーマ」
「ええ、まあ僕の金ではありませんから」
「いいえ、あんたの金よ。いくら預かっているの?」
「トーマが訊いているのではないようだから答える必要もなさそうだ」
「いいですよ。答えなくとも」
アンドレアはアレハンドロよりも私に腹を立てたように睨んだが、わたしは彼女の怒った顔が気に入っていたので楽しかった。
「そうだろうと思ったよ。車は二台借りるから遠慮なく使ってくれ」
アレハンドロは嬉しそうに答えた。
翌日、アレハンドロはランジローバーとバンデランテと呼ばれているブラジル製のトヨタのジープを借りてきた。
「君たちはトヨタを使ってくれ。トーマと同じ日本製だ。アンドレア、運転には充分気をつけてくれ。サンタクルスは幹線道路を少しでも逸れるととてつもなく悪路になる」
「こんな平坦な土地で事故なんか起すなんてエストゥピドよ」アンドレアはまだ機嫌が悪かった。
「まあ、用心のために言っておくだけだ。俺たちは明日早朝出発するが、気にせんで休んでいてくれ」
「何しに行くの。誰を訪ねるの。いつ帰ってくるの。あなたたちが帰らないときはどうするの」アンドレアは立て続けに、いくつも重ねるように訊ねた。
「エルネストといた頃、世話になった人がいる。その方に会ってくるだけだ。往復三日から四日だ。もしもの場合はトーマとブラジルに向え」
「僕は・・・」
「トーマ、頼む。もしもの場合はアンドレアをメイに匿ってもらいたい」
「分かりました」
「ありがとう」アレハンドロはほっとしたように礼を言ったが、不思議なことにアンドレアはそれ以上抗議することもなく黙って黒い瞳を光らせていた。
アレハンドロとマルセーロが出掛ける物音がしたのは、まだ外が暗い午前四時頃だった。隣の部屋から誰かが物音を立てないように出て、しばらくするとローバーのエンジンのアイドリングの音がガラス窓を伝って聞こえた。そのアイドリングがエンジンをふかす高い音に変り、そして、その音がゆっくりとホテルを離れ遠ざかっていく気配がすると「トン、トン、トン」という軽いノックが聞こえた。
「誰?」
「わたしよ。開けて、急いで」ドアを開けるとアンドレアが着替えて立っていた。
「どうしたの、早く着替えて。見失ってしまうわ」
「しかし・・・・」
「いいこと、わたしは山や森なんて嫌いだわ。でも、のけ者にされるのはもっと嫌い。急いで!」
ジーンズとTシャツの上からセーターとジャンパーをはおって急いで外に出ると、アンドレアはすでにエンジンを温めて待っていた。そして、彼女の真っ赤な革ジャンにジーンズという姿にギョッとして「アンドレア、彼らを尾行するならもう少し目立たない服装を勧めるよ」
「同じよ。それに別に見つかったって構わないわ。わたしをのけ者にしようとするなら、考えがあることを思い知らせるだけでいいのだから。あんただって本当は興味津々なんでしょう」
「まあ、そうだけど、アンドレアだけだと方角すら分からないだろうし・・・」
「早く乗って。どこに向かえばいいの」
わたしは1967年の旅を思い出しながら「まずは西に、山の方向に向えばいい。グリゴタ通りだ」と告げた。
「追いつけるかしら」苛立ったようにアンドレアはアクセルを踏んだ。
「多分ね。あまりスピードを出さなくても、アンゴストゥーラ村には検問所があるから、そこで追いつけるよ」
「トーマ、まさか騙していないわよね」アンドレアはきつい瞳と不信そうな声音で訊いた。
「まさか、僕はアレハンドロより、君の方が怖いぐらいだ」
「・・・・トーマは、私のことを誤解しているわ」小さな声でアンドレアが弁解した。
「・・・・」
アンドレアは多少スピードを落とした。
「わたし、あまり考えないの。深く考えるのが嫌いなの。好きなら、愛したなら、全部手に入れたいし、全て与えるわ。だからあなたの部屋に行ったじゃない。拒否するなんてバカだわ。先々なんかどうでもいいの。タンゴと同じ。愛と情熱。愛と情熱がわたしの人生よ」
「わたし、あまり考えないの。深く考えるのが嫌いなの。好きなら、愛したなら、全部手に入れたいし、全て与えるわ。だからあなたの部屋に行ったじゃない。拒否するなんてバカだわ。先々なんかどうでもいいの。タンゴと同じ。愛と情熱。愛と情熱がわたしの人生よ」
「愛と情熱が消えたらどうするの?」
「全て消えるわ、愛だけでなく。永遠なんて信じないわ。消えてもいいじゃない、愛や情熱も作物と同じよ。植えて育てる喜び、そして収穫して終わるわ。同じ愛が続かないなら、新しい愛と情熱を求めればいいわ。アルゼンチンのパンパが広いように男なんて沢山いるわ。刹那よ、わたしは刹那の愛と情熱が好きだわ。ねえ単純な生き方でしょう」
「僕は君が羨ましいよ」
「ちがうわ。わたしがトーマをなぜ好きになったか分かる。あなたも刹那的に生きているわ。ただ、わたしと違う刹那かな・・」
アンゴストゥーラ村に着くまでアレハンドロたちに追いつくことはなかった。アンドレアは検問所の手前に停まっていたボルボのトラックの陰にトヨタを停めた。そして赤いジャンパーを脱ぎ、ノースリーブの白いコットンTシャツ姿なると、ショートの黒髪を横に振り、顎を引いて挑戦的な目で微笑んだ。確かに同じことだ。この女性は着ているものに関わりなく人目を引きつける美しさと華やかさがあると思った。
「で、ここで何を調べるの」
「確か、パスポートと免許書と行き先、それから目的かな。君は免許書を持っているの」
「大丈夫よ。何とかなるわ、あなたは残っていて」そう言うと、アンドレアは検問所に向かって歩いて行った。
私は一人なると、間近に迫った山並みを見上げた。アレハンドロは六年前、この検問所で私に声を掛け、ターニアへの手紙を託した。初めての一人旅、あの十四歳の少年が手にした手紙が全ての始まりだったのだ。この風景はあの頃と何の変化もなかった。ただ、あの時の物々しい警備とおびただしい数の兵隊は消え、アンドレアが向かっている粗末な木造小屋の中に、無帽のだらしなく制服を着た警官が二三人いるのが見えた。そして、その先にあるゲートが上げられアレハンドロたちのダークブルーのローバーが通過して西に向かって走り去って行くのも見えた。
「行くわよ」アンドレアが戻ってきて言った。
「今、アレハンドロたちが・・・」
「ええ、見たわ。すぐに追いつけるわ」
アンドレはわたしを見つめた。そしてにっと笑うと「アレハンドロが言っていたわ。トーマは油断ならないムチャーチョだって。そうね、戻れないところまで行ってコモエスタって言ってやるわ」
「僕も興味があるし、少し地理に明るいだけさ。もう少し先にベルメーホという村がある。彼らはホテルで朝食をとらなかったから、多分、そこで朝食にする。昼食はサマイパータ。今日の泊りは・・、行ったことはないけどバリェグランデ村だよ」
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