樹影の下で 第三章 ブエノス・アイレス 1973年6月 ⅩⅤ



「出血は止めた。しかし鎮痛剤はこれだけしかない。後で痛むだろうが、強いワインでも飲んで我慢するんだな」治療を済ませたアレハンドロがマルセーロに忠告した。
「ゴンサレスはまだ戻らないか?」痛みに顔を歪めながら、部屋に入って来たわたしにマルセーロが訊いた。
「いや、まだです。ひょっとするとフェデリコさんに会いに行ったのかもしれません」
すると、ニコラス神父が「いや、トーマ君。君に伝え忘れていたが、フェデリコはペロンが帰ってくるのを見たくないといって、昨日、アルヘンティーナを離れて故郷のイタリア、パレルモに帰ったよ。彼はこれからのアルヘンティーナは無慈悲な暴力が疫病のように蔓延るだろうと言い残していた。それから・・・」
「他にもなにか?」
「ああ、妙なことを気にしていた。君たちに伝えるように言付かったが・・・」
「なんでしょうか?」
「さあ、まるで暗号のような言葉だ。確か、オペラシオン・コンドルに気を付けろと言っていた」
「オペラシオン・コンドル?」
「それは軍事関係ですか?」と、アレハンドロが訊くと「いや、分からない。フェデリコは軍事関係の上層部にイタリア系移民がいて、彼から得た情報だと言っていたが、はっきりとしたことは訊き出せなかったようだ。しかし、このオペラシオンが始まれば赤の連中は南米のどこの国にも逃げ出せなくなると言っていたそうだから、左派に対する多国間政治軍事同盟らしい。そして、その言葉を出した軍人が口に出したことを恐れて、フェデリコに沈黙を強制したが、最後には、漏らさないでくれと懇願したそうだ。それほどの機密だろう」
「・・・・・」
「それと、もうひとつ。これはスペインの聖職者からの情報だが、イザベラ夫人が亡命先のスペインで今日の銃撃を臭わすようなことを言っていたそうだ。側近のロペス・レガが一石二鳥の巧い手を思いついたと」
「・・・・・・」
「モントネーロなどの問題を片付け、ペロンの政権復帰が早まると言って彼女は嬉しそうに笑っていたそうだ」ニコラス神父の言葉が切れると、静寂がしばらく部屋を支配した。
あの銃撃、殺人はホセ・アギレーラやアレハンドロを狙っただけではなく、ペロン政権の早期成立という理由があった・・・。いや、その理由のほうが本来の目的だったのかもしれない。しかし、今日の事件がペロンの復帰を早めるのはなぜだろうか。
その答えをアレハンドロが話し始めた。
「ロペスは、今日のペロン帰国歓迎式で死者が出た責任をカンポラ大統領に負わすつもりだ。つまり、ロペスはカンポラ大統領をこの事件で辞任に追い込み、そして、この熱狂のなかで選挙が行われて、ペロンが大統領に選ばれるという構図を描いているのだ」
「そんな!カンポラ大統領はペロニスタだろう」マルセーロが叫ぶように言った。
「その通りだ。しかし傀儡政権はペロン本人が帰国した以上、もう用済みだ。ペロンの年齢を数えれば、カンポラ大統領の任期満了まで待てないということだ」
「それでは、アギレーラは殺されただけでなく、その死も利用されたのか!」
「だからこそ、イザベルは一石二鳥と笑って表現したではないか」憂鬱そうにアレハンドロが結論を吐き捨てた。
「だからこそ、フェデリコはここを去ったのだ。この国は国家が国民に暴力を振るうようになる。それを止めるのは不可能だ。多くの血が流され、その血に憑依したペロニズムという幻想が国民から剥がれない限り続くだろう・・・」
ニコラス神父の言葉は、罪びとの告解を聴いた後のように、沈鬱で、罪をあがなうことを勧めているかのようだった。

ドアが開いた。大きな影と小さな影がそこに立っていた「兄さん無事なの!」小さな影が叫んだ。そして、アンドレアは後ろに立っていたゴンサレスを詰るように振り返った。
「マルセーロが死にかけていると言わなければ、この女を連れてくるのは無理だから、方便ってやつだ」大きな影のゴンサレスが言った。
「ミエルダ!」そう叫ぶと、アンドレアの手がゴンサレスの頬を張った。しかし、ゴンサレスはその頬を撫でただけで、出て行こうとするアンドレアの往くてを大きな身体で塞いだ。
「通してよ!よくも騙したわね」
「アンドレア、俺が頼んだのだ」マルセーロが言うと、彼女は兄を睨み、それから、部屋にいる全員を怒りに満ちた瞳で睨んだ。それはアンドレアの美しさを損なうものでなく、かえって美しさを際だたせた。
「アンドレア、危ないんだ。今日のニュースを見たはずだ。パードレが殺された。彼に関連した者は全て抹殺される。君は我々と逃げるしかない」
アンドレアは、そう言ったアレハンドロを強い瞳で見返した「あんたは、チェの時も逃げ、今度も逃げるのね。臆病者!」
アレハンドロは凍りついたように口を閉ざした。
「ちがうよ、アンドレア。君はチェの時もアギレーラの時も、そこにいなかったはずだ。その君が・・・」
「いいんだ、トーマいいよ。アンドレア、卑怯者とでも何とでも呼んでくれ。しかし、わたしはみんなを逃がさなければならない。彼らと戦う力はわたし達にはない。君が行かなければマルセーロは付いてこないし、トーマも一人では逃げないだろう。全員で行くしかないのだ。頼むからついて来てくれ」
突然、アンドレアは笑みを浮かべた「行くわよ、頼むなら。ゴンサレスは嘘つきで強引だし、アルは酒飲みでいつもあたしをからかっていた。そこの坊やは素敵なあたしを振ったじゃない。これくらいの仕返しはいいでしょう」そういってくすっと笑った。

「ロサリオから船でアスンシォンに向かう。そこからボリビアを経由してチリに向かう」アレハンドロが行く先の説明をすると「どうしてパラグアイなの。チリに行くならメンドーサからサンティアゴに越えた方が近いじゃない」アンドレアが反抗するように言った。
「・・・・・チェが埋葬された場所を探したい」
「それだけですか、本当にそれだけですか。誰かを探したいのではないですか」
「相変わらずだな、トーマ。どうしてそう思うのだ」
「急いでいるような気がするからです。急がなければ困難になるというなら人探しでしょう?」
「そうだ、しかし名前は聞かないでくれ。個人的なことだ。答える気もない。どうしてもというのなら、君たちはメンドーサ経由でサンチャゴに向かってくれ」
「・・・・・・」

ロサリオに着くと、ゴンサレスは埠頭の向かいにある船会社の事務所らしき建物に入り、船員らしき髭面の男を伴って出てきた。
「メンデス船長です。彼がアスンションまで案内します。まあ、大丈夫でしょうが、彼なら軍と交戦することも嫌とは言わないでしょう」
「ゴンサレス、迷惑をかけた。恩は忘れんよ」といってアレハンドロは南米風にゴンサレスと肩を抱きあった。ゴンサレスはわたしにも同じく抱擁と肩を叩き、「トーマさん、えらい時にアルゼンチンを訪ねたね、この国が落ち着いたらまた来て下さい。フェデリコさんもきっと帰って来ますよ。婚約者のアントニーナと一緒にまた来て下さい」

我々はタグ・ボートに乗ってロサリオの埠頭を離れた。タグ・ボートの前には貨物を満載したバルカーサ船が数隻繋がっていた。デッキから川を眺めると、頭上の満天の星の輝きが川面を白銀の鏡に変えていた。その銀色の川を眺めてアンドレアが小さな声で訊いた。
「ねえ、この川もラ・プラタなの、ブエノス・アイレスに流れて行くの?」
「そうだ、ブエノスに流れる。でもこの川の名はパラナだ。そして我々の往く先にはパラグアイ川が流れている」アレハンドロが答えた。
「そう、もうラ・プラタではないのね・・」アンドレアは淋しそうに笑い、そして、真剣な眼差しになり、デッキの手すりを強く握りしめ、川に身を乗り出すように歌いだした。

わたしの愛するブエノス・アイレス
もう一度あなたに逢えたら
悲しみもなくなり、
忘れることもないでしょう
・・・・・・・
それは、カルロス・ガルデルが愛するブエノス・アイレスを歌った、・ブエノスアイレス・ケリードというタンゴだった。
アンドレアの切ない歌声は、パラナ川の川面を漂い、ブエノス・アイレスに帰っていくように流れていった。

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