樹影の下で 第三章 ブエノス・アイレス 1973年6月 ⅩⅣ
軍も警察も出動していた。しかし、この群集の波に、彼らは砂に立てた杭のようにグラグラと揺れて押され、トゥレボル橋上に設営されたステージの警備をやっと確保しているに過ぎなかった。
ホセ・アゲレーラ。パードレの脇にモンテネーロスの若者たちが集まってきた。彼らもまた興奮していた。そしてパードレも。
「もうすぐだ。数時間もすればペロンがあのパルコに立つ。そうしたらすぐに行動を起す。我々の同志がパルコの付近を固めている。ペロンが現れたらパルコに強引に押し寄せる。そして、私とアレハンドロが壇上に上がる。いいか、我の力を見せるのだ!いいか、君らは私の合図を待て!」
パードレの叫びに周りが拳を上げて「ビーバ、アルヘンティーナ」と答えた。パードレは、それに頷き「トーマ君、君はアレハンドロがパルコに上がったらすぐに開放する」と告げた。
「もうすぐだ。数時間もすればペロンがあのパルコに立つ。そうしたらすぐに行動を起す。我々の同志がパルコの付近を固めている。ペロンが現れたらパルコに強引に押し寄せる。そして、私とアレハンドロが壇上に上がる。いいか、我の力を見せるのだ!いいか、君らは私の合図を待て!」
パードレの叫びに周りが拳を上げて「ビーバ、アルヘンティーナ」と答えた。パードレは、それに頷き「トーマ君、君はアレハンドロがパルコに上がったらすぐに開放する」と告げた。
アレハンドロはパードレの言葉に注意を払っていなかった。彼はステージに掲げられた巨大なペロンとイサベラの写真を見上げていたが、パルコの脇に置かれた拡声器やペロン党のスローガンが立てられた辺りを見て不審そうに頸を傾げた。
「どうかしましたか」
「トーマ、あの辺りに銃を持った者が隠れている。また、あの物陰に入ったまま出てこない者もいる。確実に何かが起こる。彼らの目的がなんであろうと、我々が逃れるチャンスはその時しかない。ペロンの取り巻きはペロン党右派の連中だ。彼らにはこの歓迎式が覇権の別れどころだ。この歓迎式典を制したものが今後ペロン党の主導権を握る。周りを見ろ、集まった群集の数では左派が圧倒的だ。右派の連中は・・いや、ペロンの側近連中は間違いなく何かやらかすぞ。油断するな」
「それは、パードレも予測しているのでは・・」
「いや、アギレーラは予測していても対策を取らないだろう。彼は純粋なところがある。今、彼の念頭にあるのは私をパルコの上に上げることだけだ。純粋さゆえの盲目だ」
その時、誰かが叫んだ「ペロンの飛行機が方向を変えたぞ!エセイサ空港には降りないぞ!」その叫びの後に「ペロンはモロン空軍基地に向かった!」という叫びが続いた。
群衆は動揺し、傍らのモントネーロの若者が叫んだ「ペロンは背を向けたぞ!」
パードレを見ると放心したように「民衆から遠く・・なぜ、軍の傍らに・・」と呟いた時、ブエノス・アイレスの晴れた空の下に一発の銃声が響いた。
群衆は動揺し、傍らのモントネーロの若者が叫んだ「ペロンは背を向けたぞ!」
パードレを見ると放心したように「民衆から遠く・・なぜ、軍の傍らに・・」と呟いた時、ブエノス・アイレスの晴れた空の下に一発の銃声が響いた。
それは、騒めいていた人々の頭上に奇妙で、そして澄み切った音に聞こえた。群衆はそれが銃声であることに気付かず、音は空に吸われて消えた。人々が不思議な音を聞いたような気がして騒めきが一瞬静まり、唖然として動きを止めたとき、次の銃声は「ダーン、ダーン」と立て続けに響いた。
最初の音が銃声だとは私も気付かなかった。即座に気づいたのはアレハンドロだけではなかっただろうか。彼は私を押し倒して地に伏せた。二度目の銃声が聞こえると、群集は悲鳴とも怒声ともつかない声を上げて走り出した。
最初の音が銃声だとは私も気付かなかった。即座に気づいたのはアレハンドロだけではなかっただろうか。彼は私を押し倒して地に伏せた。二度目の銃声が聞こえると、群集は悲鳴とも怒声ともつかない声を上げて走り出した。
逃げまとう群衆を確認してアレハンドロは立ち上がり「逃げるぞ」と短く言って走り出した。私はその姿を見失わないよう後に続こうとした。しかし、そこに倒れていたパードレ、アギレーラに躓いた。彼は仰向けに倒れていた。興奮したように眼を見開き、口が何かを叫んでいた。そして額の真ん中に穴が開き、そこから溢れるように血が流れていた。
群集は四方に走り逃げ惑っていた。アレハンドロはパルコを背にして空港を離れるように走っていたが「いかん」といって右手の林の方に方向を変えた。ハイウエーの前方には武装した警官が立ち並んでいたからだ。アレハンドロは林に飛び込むと木の陰に入り、コートを脱ぎ、軍服の上着も脱ぎ捨ててシャツ姿になった。そして顔をむしるようにして顎髭を取って捨てた。
「トーマ、この先ブエノス市街に向かって右手の林でゴンサレスが待っている。彼は目印に赤い風船を持っている。車はベンツのセダン、色は黒だ。もし俺を見失ったらそこで会おう」と言って、また走り出した。
陽気な日差しに誘われるように、家族連れで出かけてきた市民も大勢いた。ピクニック気分だった市民らの混乱は酷かった。暗転した舞台に殺伐とした強風が吹き、人々を追い立てた。パルコの近くで銃声を聞いた市民はブエノス市街の方向に逃げ出し、何が起こったのか判らない人々は式典会場に向かった。方向の異なるふたつの波がぶつかって混乱を増幅させ、出口を塞がれた車がハイウエイを逸れて縦横に走りまわり、上空には獲物を狩り出すようヘリコプターが低空で舞っていた。しかし、アレハンドロの判断が早かった分、私たち二人はすばやく混乱から離れることができた。しばらく走ると人影が少なくなり、まだ事情が呑み込めず立ち止まった人々が「ケー・パーサ?」と、訊いてきたが、アレハンドロはただ「逃げろ!」と短く答えただけで走り続けた。私はアレハンドロを見失わないようその後を走り続けた。息が切れ、もう走れないと思ったころ「あそこだ!」というアレハンドロの声を聞いた。
林の開けた場所にラパッチョと呼ばれる黄色い花の咲いた木があった。その木の下で身体の大きなゴンサレスが風体に似合わない赤い風船を持って立っていた。この混乱の中でそこだけが牧歌的な風景のままだった。私は可笑しさがこみあげ、張り詰めていたものが安堵に変った。
「無事でしたか」ゴンサレスは私を抱いて喜んだ。
「ああ、しかし、ペロンの側近たちはアギレーラを殺した。俺も狙撃されたが、逸れて助かった。ここも危ない、すぐに移動しよう」
車に乗り込みゴンサレスがエンジンを始動させると道路の方から男が叫びながら近寄ってきた。
「マルセーロだ。どうしますか」ゴンサレスがアレハンドロに尋ねた。
「・・・・・・・・・」
「連れて行きましょう。アレハンドロ、お願いします」わたしは急いで頼んだ。
「ああ、連れて行こう」
マルセーロは怪我をしていた。左腕を押さえていたがそこから血が流れていた。
「あんたを狙った弾が外れて俺の腕を打ち抜いたよ」
「弾は残っているか」
「いや、多分、抜けたと思う」
「そうか、それなら大丈夫だ。血の出具合から血管は傷めていないだろう」
マルセーロは痛みに顔を歪めたが「それを聞いて安心したよ。そういえばあんた医者だったな」と、言って顔をゆがめて笑った。
車はスピードを増していた。
車はスピードを増していた。
「何処に向かっているのですか」と訊くと、ゴンサレスは「アレハンドロから何も聞いていないようだな。ロサリオに向かう」と言った。
「ロサリオ・・」
「そうだ、ロサリオで船が待っている。バルカーサ船でパラナー川を遡ってパラグアイ川に入って逃げろ。空路、陸路は警察と軍が総出で封鎖して検問するだろうから川しかない」
私は、アレハンドロがフェデリコを訪ねたことを知った。そして、彼ら二人が立てた計画なら間違いないだろうと安堵して緊張を解いてシートにもたれた。
「頼みがある」マレセーロが済まなさそうに小さな声で前のシートに座ったアレハンドロとゴンサレスに言った。
「なんだ、傷が痛むか」
「いや、傷は大丈夫だ。妹だ、アンドレアを助けてくれ。頼む、あいつらに見つかったら殺される」
「どこにいるんだ彼女は」
「彼女のピソだ。レティーロ街だ」
「それは無理だ。街中検問中だからな」
「頼む、何とか頼む。俺たちは二人だけの兄妹なんだ。親もいない」
「・・・・・・」
私はマルセーロの必死さとアンドレアの歌を思い出して「ゴンサレス、どうか助けて下さい」と、もう一度頼んだ。
私はマルセーロの必死さとアンドレアの歌を思い出して「ゴンサレス、どうか助けて下さい」と、もう一度頼んだ。
「トーマさん、彼女を助けるためには俺たちは街に戻らなければならない。それは俺達が捕まることを意味する。あんたたち三人は面が割れている」
「・・・・・・」
「なんだ、なんで俺を見る」
「ゴンサレス、あんただけだな。その面が割れていないのは」
「・・・・・・どうしろというのだ」
「ルハン大聖堂にニコラス神父がいるはずだ。寄り道だが俺達をそこで降ろせ、あんたがアンドレアを連れて戻るのそこで待とう」
「俺は、女が絡む仕事は嫌いなんだ・・・あいつらは意味もなくわめく・・・・わかったよ、仕方ない。まあ、いいでしょう。トーマさんも頼んでいるし行きますよ。それにルハン大聖堂なら確かに安全だ」
私もまた立ち止まってこの建造物を眺めた。不思議な刻だった。聖堂はその存在に天然の力を加えていた。沈みゆく太陽の影になって聖堂の細部は見えなかったが、光を背に聳え建つ聖堂の影と、その後ろから幾筋も放たれている太陽の残光は眩しく、この建造物が聖なるものであることを感じさせられた。
大聖堂に近づくと、正面の扉は閉ざされていた。
「左手の鉄門が開いている」と、マルセーロが目ざとく見つけて言った。その扉を通って大聖堂の横から裏手に出るとスペイン風のパティオのある白壁と赤煉瓦の建物が、回廊で囲まれていた。そして大聖堂の高い鐘楼がそのスペイン瓦の上に聳えていた
「なにか御用ですか」パティオを掃いていた老人が訪ねた。
「ええ、ニコラス神父を探しています」
「この時刻なら、パードレはそこの小礼拝所で祈りを捧げているでしょう」と、言って、老人は箒の柄で紫の花の咲いた植込みの上から見える扉を示した。
「う、」と、マルセーロが身体を捩った。
「どうした、痛むか」
「大丈夫。血は止まっている」
「そうか、少し我慢しろ。ニコラス神父に頼んで、場所があれば俺が治療する」
私は、マルセーロの様子が心配になり、急いでその扉を叩こうとすると、アレハンドロが私の腕を押さえた「礼拝中なら、ノックはよそう」そう言って彼は静に扉を押した。
「ええ、ニコラス神父を探しています」
「この時刻なら、パードレはそこの小礼拝所で祈りを捧げているでしょう」と、言って、老人は箒の柄で紫の花の咲いた植込みの上から見える扉を示した。
「う、」と、マルセーロが身体を捩った。
「どうした、痛むか」
「大丈夫。血は止まっている」
「そうか、少し我慢しろ。ニコラス神父に頼んで、場所があれば俺が治療する」
私は、マルセーロの様子が心配になり、急いでその扉を叩こうとすると、アレハンドロが私の腕を押さえた「礼拝中なら、ノックはよそう」そう言って彼は静に扉を押した。
そこは聖職者用の小さな礼拝所で、長椅子が数脚あるだけで、正面にはイエスの十字架像と蝋燭の火がともっているだけで薄暗かった。その灯りの下に茶色のロープをまとった聖職者が跪いて祈りを捧げていた。開いた扉から風も入ったらしく焔が揺れた。
「一般の信者の方は、大聖堂のミサにご出席なされて下さい」聖職者は振り返らずに静かにいった。
「パードレ、パードレ・ニコラス・・・トーマです」聖職者の祈りが途絶えた。彼は振り返ってこちらを見て喜色が浮かべ、立ち上がって両手を広げた。
「トーマ無事だったか。ペロンの歓迎式典で死者が出たとニュースで聞いた。死者の魂に祈りを捧げ、君が無事であるように祈っていたところだ。ああ、神よ、わたしの小さな信仰を受けとって頂き感謝いたします」ニコラス神父は、天上を仰ぐように言った。
そしてマルセーロを見た。
「おや、君は怪我をしているね」
そしてマルセーロを見た。
「おや、君は怪我をしているね」
「ええ、パードレ、どこか部屋を貸していただけませんか。治療したいとおもいます」
「アレハンドロ、君がかね。医療の心得はあるのかね」
「ええ、ブエノス・アイレス大学の医学部卒です。傷口の消毒だけでもお願いします」わたしは、あの日、エスペヒーリョ村でアレハンドロが言ったことがでたらめではなかったことに驚いた。
「そうか、ではこちらに」パードレ・ニコラスは奥に通じる小さな扉を開けて我々を案内した。
アレハンドロがマルセーロの腕を治療して間、私はまた表に出た。外はすでに夜の闇に覆ていたが、ルハン大聖堂の閉じられていた扉は大きく開き、そこから光が差していた。誘われるままに拝廊に入り、しきたりどおりに聖水に指をつけてクルスを切った。大聖堂の中は正面の祭壇に蝋燭が灯され、少年の助手を伴った司祭だけが静かに聖書を読みあげていた。入口に近いベンチに腰掛けると、黒いベールを被った女性がチラッとこちらを見たが、すぐに手元の聖書に目を落とした。聖書の朗読が終り、オルガンの音と少年の歌声が聞こえてきた。私はその時、大聖堂の中の静かなミサと対照的なエセイサ空港の銃声を比較して思い出していた。パードレと呼ばれたホセ・アギーレスが死んだ日に、ここはなんという静けさに包まれているのだろう。
そして、わたしはクリチーバのノッサ・セニョーラ・ダ・ルース大聖堂を思い出しながらハン大聖堂を眺めた。ルハンは壮大な建築だった。身廊と袖廊を隔てている列柱の高さや太さはバシリカ大聖堂とは規模も装飾も比較にならないほど荘厳で素晴らしかった。夜のミサではリアストーリからの光は差さなかったが、その窓から陽の光が差しこんだときの美しさは容易に想像できた。
ただ、そこにはアントニーナがいなかった。あの復活際のミサでルース大聖堂に降臨した天使はここに存在しなかった。わたしは胸が痛んだ、アントニーナと離れていることを実感して動悸が激しくなった。私にできることは椅子に腰掛けてじっと祈ることだけだった。それは神に祈ったのではなく、私の胸の中にあるアントニーナへの愛の姿に祈りを捧げたのだった。
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