第三章 ブエノス・アイレス 1973年6月 Ⅺ
六月になるとブエノス・アイレスの路上は地方から集まってきた人々で溢れていた。人々は田舎から自給用の食料を抱えて安宿に泊まり、昼間はフロリダ通りやコリエンテス、カミニート、そしてシエテ・デ・フーリオ大通りの高級品店のショーウィンドーを覗き、夜になると、街角の娼婦の誘惑の瞳に揺れながら、何もない懐を思い出して情念を捨てる安酒を求めた。
どこの公園でも「ペロン」そして「アルヘンティーナ」という叫びに彼らは惹きつけられて集まった。安酒に酔いしれたのか、あるいは、街頭演説者の熱烈なペロン賛歌によって、ペロン帰国後の素晴らしきアルゼンチンの未来に希望を抱いたのか、恍惚とした表情で拍手した。
どこの公園でも「ペロン」そして「アルヘンティーナ」という叫びに彼らは惹きつけられて集まった。安酒に酔いしれたのか、あるいは、街頭演説者の熱烈なペロン賛歌によって、ペロン帰国後の素晴らしきアルゼンチンの未来に希望を抱いたのか、恍惚とした表情で拍手した。
アルゼンチンは神の降臨を信じていた。あるいは信じようとしていた。陶酔と我を忘れた快感に満たされ、膨れ上がった異常な熱気に包まれていた。わたしは辻井の忠告に不安を感じながらも、その異常な、膨らんだ風船が破裂しかねない危険な熱気の中に紛れて街中を出歩いた。街に何かを求めたのではなく、誰かが現れるのを待っていた。
その男が近づいてきたのはサンマルティン広場から英国広場に立つ時計塔を見下ろしている時だった。夕暮れの時計塔は影になり、文字盤の明かりが恐竜の目のように光って時を刻んでいた。そこも「ペロン、アルヘンティーナ。アルヘンティーナ、ペロン」という叫び声に満ち溢れ、爆竹の音も聞こえてきた。
「あれは、アルヘンティーナの百周年を祝って英国人移住者達が建てた時計塔だよ」わたしの横に立った男は煙草を銜えたまま静かにそう言った。その痩身の男は、顎骨が細く、恐怖を撒き散らしている者特有の奇妙なねらりとした表情が張り付いていた。それは、己も、他人も死者に見立てて葬っている表情だった。
「トーマ君、だったかな、わたしはペロン大統領の側近、ロペス・レガだ」
「元・・ではないですか」
「いや、すぐに大統領だよ。それを疑うものはだれもいない」
「なぜわたしを知っているのですか」
「なんでも知っているよ。わたしは人間を二つにしか分類しない。生かしておくべき者か、殺さなければならない者かだ。そのためには何でも知らなければならない。殺してからでは何も訊けない。君はコリエンテス通りのフェデリコと呼ばれているイタリア・マフィアのレストランで働いている。そして、モントネーロのパードレと呼ばれているホセ・アギーレスのタンゲーラでアレハンドロ・デ・ラ・セルナという男と会った。その男はボリビアで死んだエルネスト・ゲバラと関係があるらしい。さて、きみはどっちの部類に入る人間かね?」
「・・・・・・・・・」
「まあいい、別の場所で答えてもらおう」
「わたしは、日本大使館の石田参事官と親しいのです。わたしがブエノスにいることは参事官が知っています。もし、わたしがフェデリコの店に戻らなければ参事官が心配します。なにしろ毎日電話連絡していますから」落ち着こうと思いながらも、私の声は震えていたに違いない。レガの顔に満足そうな笑みが広がった。
「パブロ!このムチャーチョに間違いないか。どうやらビンゴらしい。ムチャーチョ、フェデリコの店を盗聴しているが、君が日本大使館に電話をしたことは一度もない。なにかを隠そうとする者はそういう嘘をつく」
物陰から3名の男が出てきた。その中の一人が近づきわたしの顔を見た。わたしもその男に見覚えがあった。
「セニョール・レガ、間違いありません。このムチャーチョです」その男はクエバ・デ・タンゴにいた男だった。
「そうか、間違いないか」
その時、レガと呼ばれた男の口元の笑みはさらに広がり歓喜の表情が現れた。それは野蛮な肉食獣が餌をみつけた喜びだった。わたしは自分の小賢しさに後悔したが、それよりも、喰われてしまうような大きな恐怖に襲われて、声だけではなく身体を震わせた。
「来てもらおうか、そして何もかも・・・」その時、爆竹の音に混じって銃声が響いた。
恐怖に怯えていたわたしは自分が撃たれたと思ったが、倒れたのはパブロだった。どこを打たれたのか体を曲げてもがいていたが、すぐに動かなくなり、彼の体から黒い血がゆっくりと地表に広がった。そして、銃声のした暗闇から声が聞こえてきた。
「セニョール・ロペス・レガ、このムチャーチョはわたしが先に唾をつけた。引き取らせてもらうよ。我々はペロン大佐と争う気はないので部下たちに銃を収めるように指示してくれ。しかし、裏切り者だけは始末させていただいた」レガの表情は、苛立ちと餌を盗られた失望に変った。わたしを見たが、すぐに残った部下に「銃を収めろ」と指示した。
ロペスの部下が銃を収めると、街灯の影からパードレが、ホセ・アギーレスが姿を見せた。彼は今日も神父のような黒い詰襟の服を着ていた。わたしに近づくと腕を掴んだ。他の男たちがレガとその部下を囲んでいたが誰も一言も話さなかった。ただ、レガの眼には憎悪の炎が燃えていた。
アギーレスがわたしを引きずるようにして彼らから離れると、背中の暗闇から「後悔するぞ、切り刻んでやる、楽しんで皆殺しにしてやる」という悪魔の咆哮が追ってきた。
サンマルティン広場が遠ざかるとアギーレスは銃を納め、バックミラー越しに車を運転している男に声をかけた「マルセーロ、落ち着け。怪しまれるからスピードを落とすのだ」
私は運転手がマルセーロであることを知ってなぜかほっとした。マルセーロは強く握っていたハンドルを緩めると、前を向いたまま後部座席のアギーレスに不安そうな声で訊いた。
「パードレ、あいつは追ってはきませんでしょうか」
「安心しろ。あの、レガという男はサディストだ。ああいう男は人殺しを楽しむ。権力を握れば誰でも殺せる。彼がいうようにゆっくりと切り刻むようにな、獲物がテーブルの皿に盛られるのを彼は待つ。追ってはこない」
車はシエテ・デ・フーリオ大通りから高架橋に登りハイウェイを走った。パードレと呼ばれるホセ・アギレーラの硬い横顔にはレガとは別の怜悧な残酷さがあった。彼は傍に座った私に冷笑を浮かべながら訊ねた。
「お前は、ロペス・レガのような男が権力の傍に居れば、このアルヘンティーナがどうなるか想像ができるか。この国は良心を失い、血だらけになる。今のままではアルヘンティーナは彼らのものになる。ペロンが戻れば数日も経たずきっとそうなる」
「パードレ、あなたは良心を失っていませんか」
「・・・・・・・」
「権力を握ろうとしているだけではないですか。自分の正義以外は認めようとせず、排除しようとしているだけではないですか」
私は、恐怖がまだ傍に張り付いていることを知っていた。その恐怖は巨大な車輪の下でアルゼンチンの人々を踏み潰そうとしていた。
「トーマ、何の違いがある。君も自分の夢に正義を感じているはずだ。それは君の正義でわたしの正義ではない。まあいい、わたしの言葉を訂正しなければならないようだ、良心を以って民衆を導けると思うかお前は?」
「・・・・・・」
「いいかトーマ。民衆が望んでいるのは良心でない、彼らのパンだ。誰のものでもない。喰って余らない限り固くなったパンですら誰にも与えない。家族や友人のパンでもなければ、まして国家でもない。彼らだけのパンを手に入れることだよ。私はそれを彼らに与えることができる。しかし、ペロンは変った。あの男にはもう知性が残っていない。彼にあるのは老衰がもたらした権力の椅子に座る甘い夢だけだ。彼の頭の中に満たされているのはレガのような側近が始終呟く甘い権力の夢だよ」
車はブエノス・アイレスの郊外の闇を走っていた。アスファルト道路脇には林が広がり、その林の奥には大勢の人々がうごめく気配があった。そして、しばらくすると空港の管制塔のような明かりが見えてきた。
「エセイサ国際空港だよ。明後日、ここにペロンが到着する。林の中に居るのはモントネーロをはじめとするアルゼンチン左派のメンバーだよ。我々は数の上では圧倒的だ。しかし、その圧倒的な数をまとめる旗、バンデーラが無い。それがアレハンドロの役割だよ」
私は、その時はっきりと自分の置かれている危険な状態を知った。彼らは私の証言だけでは満足しないだろう。アレハンドロにチェ・ゲバラを演じさせようとしているのだ。そのためであれば、傍らの男は微塵の躊躇もなく巨大な車輪の下に私を置いて踏み潰させるだろう。
車はエセイサ国際空港の手前のゲート前に停まった。紺色の警備員らしき服を着た男が近づき車の中を覗くために腰を屈めると、マルセーロは窓ガラスを下ろして「俺だ、開けろ、任務は完了した」と告げた。警備員は後ろを振り向いて「レバンテ」と言ってゲートを上げさせた。
空港構内に入った車はフェンス沿いに走り、円天井の大きな倉庫の前に停車した。そこは小型機の格納ガレージらしく、巨大な鉄製の扉が開けられると中には分解された複葉のセスナが一機だけ駐機していた。パードレは車から降りるとマルセーロに「残っていろ」と指示して、他の二人の男に顎をしゃくって歩きだした。先に歩き出したパードレを追って彼らは私の両サイドを固めるようにして後に続いた。もがくように後を振り返るとマルセーロが心配そうに車の傍に立っていた。
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