第三章 ブエノス・アイレス 1973年6月 Ⅹ



翌朝、二人の気配がなかった。わたしは誰も居なくなったを振り返ったが、すぐに歩き出した。柔らかな朝日の光が降っていた。梢に隠れた小鳥は澄んだ歌声を響かせていた。白い幹の並木が生い茂った静かな林道を歩いていると、クエバ・デ・タンゴのドアを開けたのも、舞台で歌われていた妖しげなタンゴの歌声やアギレーラの脅迫、そして悲鳴、警官の走る靴音や呼び笛、自動車のぶつかる音、アンドレアの白い裸体、暗闇で話していたアレハンドロの言葉も、すべて、そうすべてが、この朝日の降りそそぐ神聖な朝から遠ざけられて、よどんだ意識の中の悪夢であったような気がした。

手を上げてバスに乗せてもらうと、車内は出勤する労働者で混み合っていた。そして誰かが新聞を広げて歓声をあげた。
「おい!ペロンが帰ってくるぞ!見ろ、ペロンが帰ってくる!」新聞を持った男の周りに人が集まった。
「いつだ、我々のペロン大統領はいつ帰ってくる!」
「6月、6月20日だ。エセイサ国際空港に着くと書いてあるぞ」
男の周りに乗客が集まり、餌を食う鶏の群れのように頭を突っ込んで貪るように新聞記事を読んでいた。そして誰ともなく、最初は小さく、呟くような声がした。しかし、その声はすぐに増幅されて叫び声に変った。
「迎えに行こう!」
「そうだ、迎えに行こう!」
「そうだ迎えに行こうぜ。皆で迎えに行こう。ペロン大統領を迎えに行こう!」
「そうだ。皆でエセイサに迎えに行こう」車内はたちまち歓喜に包まれた。
シエテ・デ・フリオ大通りでバスを降りた。人々の摂りつかれてたような唱和する声がまだ耳朶に残っていた。それがわたしを不安にさせた。アルゼンチン、アレハンドロはこの国は姿を見せぬ大きな災いに覆われていると言っていた。大通りの中央に建つオベリスクの白い先端が冬空の薄い青空に中に剣のように聳えていた。

5月が去ったブエノス・アイレスは、異常な増幅された熱気に包まれていた。それはブエノス・アイレスからアルゼンチン全土に熱病のように広がり、そして更に増幅されてまたブエノス・アイレスに戻ってきた。閉じ込められていた獣が檻をガタガタと激しく揺さぶり、誰もが興奮し、街中は一人の救世主の名で溢れかえっていた。
「ペロン!」その名前だけが幾度も街角で繰りかされ、労働者も学生も天主降臨の日を待つように叫んだ。ペロンだけがアルゼンチンの全てであった。
「ファシストめ」フェデリコはその熱気に顔を背けていた「アルヘンティーナは壊されていく。古き良き時代はその価値を知らない者によって壊されていく。破壊者にあるのは己の力を誇示することだけだ。そのためには古いものを壊して燃やす。ペロンは大戦の頃、ドイツやイタリア、そして君の国日本に傾倒していた。あいつはアメリカを非難し枢軸国を支持して民衆の支持を得た。あいつが民衆の味方であるはずがない。ペロンが望んでいるのは民衆を操ってアルヘンティーナを己の意のままにすることだけだ」
フェデリコは、煙草をもみ消し、ため息をついた。体の力を抜くように肩を落としたが、憂いに満ちた顔色には普段よりも年老いてみえた。
「あいつらの瞳の奥には欲望しかない。アルヘンティーナの未来のことなど念頭にはない。可哀想な貧困者、労働者はパンの匂いを嗅がされ、これまでの権力者が落ちていく快感に酔っている。かれらには愛国などといっているゆとりなどなく刹那的な人生を生きているだけだ。だから、彼らに国造りなどできるはずがない。この国はこれから暗黒の長いトンネルの中に入っていく」
わたしは黙ってフェデリコの話を聞いていた。彼の声が途絶えると部屋は静寂に包まれた。そして暖炉の薪が爆ぜるとフェデリコはまた言葉を続けた。
「トーマ、わたしは君にブエノスに残って欲しいと思っていた。君が日本人だろうが構わない。アントニーナはわたしの姪だ。その二人がわたしの元で暮らしてくれる素晴らしい夢を見ていた。しかし、この国は危険だ。わたしは老人だからもう誰も危害を加えようという者は居ないだろうが、君たち若者に災いは降りかかる」わたしが答えようとするとフェデリコは手を上げて制した。
「まあ待て、まだ云わせてくれ。トーマ、君はアルヘンティーナから去るべきだ。あのアレハンドロも連れて行くがいい。彼に会ったことはないが、メイが夫にした男だ。死なせるわけには行かない」
「アレハンドロは消えました。行方が分らないのです」
「いや、彼は常に君を見ているよ。君は準備をして待てばいいだけだ。わたしの役目はそれを手伝うことだ」フェデリコは疲れたように目を閉じて椅子に寄りかかった。また静寂が訪れて薪が爆ぜたがもう言葉はなかった。

「よう青年、元気か」といって訪ねて来たのは辻井だった。
「お前、思ったより忘恩青年だな。あれからどうなった」
いつものように横着な物言いで、辻井はすぐに椅子に座ってしまった。
「坊主、クエバに行ったんだろう。」
わたしは、話していいものか躊躇して、辻井を眺めた。あらためて四角い顔の男だと思った。
「辻井さんは信用できる人ですか?」
「お前、それを本人に訊くのか」
「ええ、その方が確実ですから」
「なんて奴だ、失礼だとは思わないのか」
「まさか、辻井さんはそんな些細なことを気にするような人ではないでしょう」
「腹も立たんわ。で、信用できるとしたら、何を知りたいんだ」
「チェ・ゲバラが生きていたら、このアルゼンチンの政治は変りますか?」
辻井は疑わしそうな目つきになり、右手の人差し指をわたしの目の高さまで持ち上げて、何度か振った。
「それは仮定か。もしチェがここに現れたらどうなるかって、それはアルゼンチン政治が、いや社会そのものが爆発することを意味する。ペロンなんて吹き飛んでしまう。坊主、お前はボリビアに住んでいたな。どういうことだ、チェが生きているというのか」
「いえ、ただ・・・・、教えて頂いたあの酒場であったアレハンドロはチェの母方の従兄弟で、チェにそっくりなのです」
「・・・・・・」
「辻井さんはご存知でしょうけど、クエバの店を経営していたのはモントネーロのメンバーで、アレハンドロを保護していました。その理由はアレハンドロがチェに似ているからではないかと思うのです」
「おい、コーヒーをくれ」
「え、」
「だからコーヒーだ。濃くするなよ、体に悪い」
「ビフテキは?」
「馬鹿ヤロー」
コーヒーを渡すと、辻井は砂糖を入れてかき混ぜ、一口飲んだ。そして、椅子の背に持たれて両手を頭上で組んで天井を仰ぐように上を向いたままドングリのような目を瞬きもしなかった。
「これは・・お前が想像しているより大変なことだぞ。それでお前はどういう立場にいるんだ」
「証言が欲しいようです。アレハンドロとチェがボリビアで会ったという。あるいは彼がチェなのかアレハンドロなのを知りたいようです」
「それで、彼はエルネスト・チェ・ゲバラなのか、それともアレハンドロ・デ・ラ・セルナなのか」
「アレハンドロです」
「どうして確信が持てる。チェでないと言い切れるか」
「感覚です」
「感覚だと、そんなもの誰が信じる。自分はエルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナと彼が言えば、それを信じたい奴は幾らでもいるし、そうさせたいと思っている危険な奴はもっと多い」
「もし、彼がそうしたいと思ったらどうなりますか」
「ペロン派は左右に分裂するな。カンポラ大統領の支持基盤は脆弱だ。民衆はカンポラに投票したのではなくペロンの身代わりとして投票したのだ。ペロンは労働組合の味方面をしているし、軍との対立上、左翼ぶってもいるがけっして左翼政治家ではない。かれはガチガチの保守、いやそれ以上だ。彼は君主になりたがっている男だ。ペロンはチェを賛美する演説をしたこともあるが、それはチェが死んだ男だからだ。それが生きているとなるとこれほど迷惑で強力な対抗者はない。両雄並び立たずだ。チェを賛美した男にとってチェが生きているとなると自分より上位と見なしたことにから本来な政権を譲らなければならない」
「そうですか・・・」
「その男がチェだと、アルゼンチンは内戦になる恐れもあるが、その前にペロンはその男を殺すだろう。それで、その男はそうしたいと言っているのか」
「いえ、それが、毎日、酔いどれています。それが一番安全だと言って」
「そうか、どうやらそいつはまともで利口な男らしいな」
「どうしたらいいでしょうか。辻井さん」
「逃げろ、このアルゼンチンから逃げるしかないだろう。その男だけでなくお前も危ないぞ。日本大使館に保護を求めることもできるが、そんな話を誰が信じる。信じるのは俺ぐらいしかいない」
「しかし・・・・・・」
「いいか、お前が言ったように、アレハンドロはチェとそっくりで、血筋でもある。そして彼がチェと共にボリビアで戦ったゲリラのメンバーであればどうなる」
「人々は熱狂するでしょうか・・・」
「そうだ、アレハンドロにゲリラ時代のバルブード髭を生やさせ、ゲリラの戦闘服を着せて『私はチェと共に戦った、彼の意志を継いだ後継者だ』と演説させれば、人々は熱狂し、ペロンのことは忘れてしまうさ。坊主、そんな危険なことに巻きこまれるな。アルゼンチンの狂気に飲み込まれてしまうぞ。アレハンドロを見つけ出して逃げろ」
「しかし、クエバに行ってから何日も経っています。なにかが起こるならとっくに起こっているでしょう」
「待っているのさ、アレハンドロとやらがお前に近づくのを」辻井はフェデリコと同じセリフを吐いた。

コメント

このブログの人気の投稿

第三章 ブエノス・アイレス 1973年6月 Ⅻ

第五章、サンティアゴ・デ・チーレ 1973年9月 Ⅴ

樹影の下で 第一章 サンパウロ 1973年4月 ②