樹影の下で 第三章 ブエノス・アイレス 1973年6月 ⅩⅢ



閉ざされていた鉄戸が重々しく開き、夜の闇が裂かれて朝日が差し込んできた。闇に慣れていたわたしの目にはその光は眩しかった。目を細めて見ると複数の人影がゆっくりと近づいて来た。そして一度立ち止まり、その中の一人が離れて、わたしの傍に来て微笑んだ。その男はバルブード髭の顔を近づけた。「・・エルネト・・チェ・・・ゲバラ・・」と、わたしは口の中で呟いた。しかし、彼はアレハンドロだった。
「オーラ、なんだ、あまり驚いていないようだな」
「ええ、必ず来るだろうと信じていましたから」私は澄まして云ったが、縛られた手足が痛み、感覚がなくなっていたので少々腹も立っていた。
「そうか、楽しませる術を知らない奴だな。少しは驚くか嬉しそうにするもんだ」そういうとアレハンドロはニヤッと笑い、ポケットから葉巻を出して火をつけ、煙を深く吸い込みゆっくりと吐いた。
「すみません。もっと早く来るだろうと思っていましたから」
「おい、お互い窮地に立たされているのだぞ、我々は」
「そうですね。でも大丈夫ですよね」
「ああ、絶対大丈夫だ。しかし、お前はどうしてそう思った」アレハンドロは、さらに耳元に近づいて呟くように訊いた。
「彼らには大きな弱点があります。あなたを殺すことも傷つけることもできないし、そして、同じ理由でわたしも殺せません」
「その通りだ。俺を見ろ。彼らは俺を必要としている。チェとそっくりだろう。彼らにチェが殺せるか」
その声が聞こえたのだろうか、後ろに立っていた人影は急くように云った。
「もういいだろう、我々は約束を果たした。アレハンドロ、今度は君の番だ」その声はパードレだった。
「どうだね、トーマは解放してくれないか、君たちに協力することを約束しよう」アレハンドロがパードレを振り返って条件を提示した。
「アレハンドロ、それが無理であることは君が一番よく知っているはずだ。トーマ君は、エセイサ国際空港のペロン歓迎式典に君や我々とともに同行しなければならない」
パードレが苛立つように大声で云うと、アレハンドロはわたしを振り返って残念そうに肩をすくめた。わたしは同意するように頷いた。するとパードレの部下がわたしの後ろにまわってロープを切断した。わたしは自由になった手足を擦ったが、一晩中縛られていた箇所にいきなり血が循環し、最初によみがえった感覚は酷い痺れだった。その時「俺につかまれ」といって肩を寄せたのはマルセーロだった。そして「安心して下さい」とも呟いた。

アレハンドロとパードレの乗ったジープは前方を走っていた。マルセーロの運転するシトロエンはわたしを乗せて後に続き、その後ろにもう一台の車が我々を追っていた。車はブエノス・アイレスの市内に入ることなく、途中で右手の林の中に続く目立たない道に入ってしばらく走り、一軒の屋敷の前に止まった。屋敷前には火が焚かれ、銃を持った数人の男たちが囲んでいた車を降りたパードレの姿をみると駆け寄ってきて「パードレ成功ですか」と訊いた。は満足そうに頷いた。
「ああ、勿論だとも」男たちを見回していった「紹介しよう。彼はアレハンドロ・デ・ラ・セルナ同志だ。偉大なエルネスト・チェ・ゲバラの従兄弟で、チェとともにボリビアで戦い、その遺志を継いだ戦士だ」それを聞くと、男たちは一様に恍惚した尊敬の眼差しでアレハンドロを見た。
「アルと呼んでくれ。君たちとともにアルヘンティーナの自由のために戦うことになった。チェに栄光を!」アレハンドロが、まだ銜えていた葉巻を捨てて、そう叫ぶと、アギレーラの部下達は、手に持った銃を高々とあげて叫んだ。
「チェ、チェ、チェ、ビーバ、チェ。ビーバ、アルヘンティーナ。ビーバ、アレハンドロ」歓声は静かな林の中に響いた。

パードレは興奮していた。座ることもなく室内を歩き回った。そこには、アレハンドロとマルセーロの他に三人の男が居た。そして、離れた隅のソファになぜかアンドレアが座っていた。彼女はわたしを見て秘かな笑いを浮かべ、小指を唇に咥えて噛む仕草をした。心臓の鼓動が高鳴るのを感じてわたしは目を逸らした。

「いいか諸君。ペロンは午後3時に到着する。その歓迎式で我々はペロンに近づき、群集の前で壇上にいるペロンにアレハンドロを会わせる。そして叫ぶのだ『ビーバ、チェ、ビーバ、ペロン。ビーバ、アルヘンティーナ』とな、ペロンはチェを認めるしかないだろう。そしてカンポラ大統領の辞任後、ペロンが大統領になるか、あるいはアレハンドロを大統領にするかは状況次第だが、我々はアレハンドロをチェの後継者として支援する。ペロンは高齢だ。もう長くはない。ペロニスタはチェの後継者、アレハンドロ・デ・ラ・セルナの下で団結する。いいか、絶対にロペスなどに次の政権を牛耳られてはならない。あの男は悪魔だ。アルヘンティーナの闇だ。我々はそれを許してはならない。いいか、我々は阻止しなければならない。ビーバ・アルヘンティーナ!」
「ビーバ・アルヘンティーナ!」と、男たちが唱和し、パードレが疲れたように腰掛けると「パチ、パチ、パチ」と力のない拍手がした。振り返るとアンドレアだった「すばらしいわパードレ、君は真のリーダーだわ。あなたがチェの後継者でないことがとても残念だわ」と、言った。
アンドレアの拍手と言葉にアゲレーラは「後継者とはいつの時代も資質ではなく、血縁を求めるものだ」と答えた。わたしはパードレの無念そうな言葉に真実の思いが込められていると理解した。

月二十日、アルゼンチンの空は高く晴れわたっていた。風はこれから起こることに関心を寄せず、より静かで清らかでさえあった。人々の膨れ上がった狂気は地上に満ちていたが、頭上に青空が広がっていることさえ気づかなかった。
わたしはアレハンドロとともに林の中の屋敷からジープに乗せられ、その狂気の中に向かった。運転していたのはマルセーロで、エセイサ空港に向かう道路はペロンを支援する車で渋滞し、道路の両側には群れるように大勢の人々が同じ歩調で同じ目的を持って歩いていた。まるで童話の「ハーメルンの笛吹き男」のようだと思った。あの物語のように笛の音に誘われる鼠の群れのようだった。個々の意志を欠き、群れとしての狂気だけしか存在していなかった。
アレハンドロはカーキー色のコートを着ていた。彼がコートの下に着ているのは迷彩色の軍服だった。その服装は彼がこれから行うことを意味していた。わたしにはなすべきことがなかった。ただ、待つしかなかった。アレハンドロはどうするのだろうか。この鼠の群れのような狂気から逃れる術はあるのだろうか。不安はあったが昨夜のように身を震わすような恐れではなかった。その手段はわからなかったが、きっと何かが起こる。その時を待てばよいのだと気持ちを落ち着けた。

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