樹影の下で  第三章 ブエノス・アイレス 1973年6月 ⑨



アンドレアは、ブエノス・アイレスを北に向かっていた。一時間以上も車を走らせただろうか、彼女は直線に走ることはせず、何度も裏道らしき路地に曲がり、そして、ブエノスの繁華な明かりが遠くなるとスピードを落として、振り返った。
「ひとり暮らしだから気を使う必要はないわ」そういって高い門柱のある家に車を入れた。
大きな家の影がかぶさって来た。車を降りるとアレハンドロは館を見上げてヒューと口笛を吹いた。
「こんな家にひとりで住んでいるって?お前、だれの娘だ」
「父は将軍よ」
「どうりで。それがなんだって左翼の巣窟で歌っているんだ」
「母はエヴァ・ドゥアルテよ」
「おい、嘘だろう。エビータに娘がいたなんてきいたことないぜ。君はホセの妹だろう」
突然、アンドレアは笑い出した。笑い止むと上目遣いアレハンドロを見た。赤い唇が片方に寄ってまだ薄く笑っていた。
「もちろん嘘よ。気に入った?でも、ホセとも関係ないわ」
「ああ気に入ったよ。それよりも酔いが醒める悪いが中に入れてくれ」

部屋に案内するとアンドレアはタオルを渡した「熱いシャワーで温まりなさい。それから着替えるのね」そういって出て行った。
わたしは濡れた衣服を脱ぎ捨てて浴室に飛び込んだ。シャワーは勢いがあって心地よかった。湯が熱く感じたのは体が冷えていたからだろう。そして浴室が湯けむりで満ちて白く不透明になると浴室のドアの開く音が聞こえた。
「着替えを持ってきたわ」白い湯けむりの中からさらに白い裸体が現れた。
「わたしの目を見ていたわね」
濡れた額に張り付いた黒髪の間にあるのは、あの挑むような視線だった。立ちすくむわたしに近づくと、アンドレアはその体を隠すこともせず正面に立った。
「わたしの体・・素敵でしょう?」
「・・・・・」
アンドレアは、わたしの後ろに立つと体を寄せて腕を胸に回した。そしてその胸を押し付けてきた。わたしの背に彼女の硬い乳首が触れた。そして後ろからまわされた掌は胸から腹部におりて止まり、また、ゆっくりと降ろされ、わたしの男性に触れ、そして握られた。
「ふふ、こうなっているのね」
「やめてください・・・・」
「嘘、わたしの瞳をみていたわ。そして硬くなっている」
「・・・・・・」
メデューサはわたしの肩を噛んだ。痛みが快感となって伝わったが、ともなって意識も戻った。それで手を伸ばし冷水の蛇口を開いくと冷たい水が降りかかってきた。
「エストゥピド!」アンドレアは叫んだ。その水の冷たさにわたしから離れてガラス戸にぶつかった。
「すみません」
わたしは急いで浴室を出た。体を拭いていると、タオルを体に巻きつけたアンドレアが憎悪の視線を向けて「イディオータ」と叫んで部屋のドアを乱暴に閉めて出て行った。
借りたざっくり編みの青いセーターに着替えて居間に行くと、アレハンドロは相変わらず飲み続けていたが、どこから見つけたのか、赤ワインのボトルとグラスがテーブルに置かれていた。
「メデューサには喰われなかったようだな」アレハンドロはニヤニヤと笑いながら、なぜか嬉しそうだったが、そのとき細い腰を赤い帯で締めた着物のような服を着て、髪をタオルで巻いたアンドレアが入ってきた。
「どうだ、上手くいったかアンドレア。この坊主、なかなか手ごわいだろう」
「カリャテ!」といってアンドレアは頭に巻いていたタオルを取ってアレハンドロに投げつけた。タオルはアレハンドロの顔にかぶさった。そしてその下からアレハンドロの大きな笑い声が聞こえてきた。

ドアが開いたのは深夜だった。そして入ってきた者が寝室に二つある椅子の一つに座る気配がした。
「やはり、ドアを開けていてくれたか。まったくお前はエルネストが言っていたように感がいいよ」闇の中でアレハンドロが煙草に火を点けた。
「ええ、アンドレアが来ることも心配していましたが」
「その方の期待が大きかったかな」
「とんでもありません。その時は逃げ出しますよ」わたしはベッドから出るともう一つの椅子に座った。
「アレハンドロさん。彼らの目的は何ですか。あなたはパードレ達の組織にどのような力を与えることができるのですか」
アレハンドロは煙草を深く吸い込んだのだろう、息を止めている気配があって、それから暗闇の中に白い煙が吐き出された。
「トーマ、君を巻き込む訳にはいかない。このアルゼンチンの暗闇は君には関わりのないことだ。メイの手紙を預かってきたなら、それを置いて行けば君の役目は完了だ。そうしなさい」
「アルゼンチンは関わりありません。しかし、メイもアントニーナもわたしにとってはもう家族です。その家族の中にはアレハンドロ、あなたも含まれているはずです。」
「いや、俺は全てを捨ててきた。メイもアントニーナもだ」
「そして、あなたの子、エルネストもですか。あの子もですか」
「・・・・・・・」アレハンドロは答えなかった。
「アレハンドロ、今のあなたに手紙を渡すことなどできません。どうせまた読まずに放り出すのでしょう。これまでのように」
「誰からそんなことを聞いたのだ」
「ロクサーナですよ。彼女はあなたが手紙を読まなかったと言っていた」
「女はいつでもおしゃべりだ・・・、それが渡さない理由か」
「ちがいます。わたしの役目は手紙を渡すことだけではないからです」
「そうか、では他になにがあるのだ」
「知りません。しかし、メイが・・手紙を渡すだけのためにブエノス・アイレスに行かせるはずがありません。多分・・あの人は、あなたの危機を悟ったのでしょう。だからわたしをあなたに会わせようとしたのです」
「すると、お前が俺の危機を救えるというのか」
「それもわかりません。どんな危機があるのかすら、わたしには分っていませんから。ただ、あなたのいうアルゼンチンの暗闇と、サンタクルスでのチェの死が関係しているのだろうと想像しています」
「トーマ、なにも想像するな。それはお前を危険なエリヤに踏み込ませることになる。そして、お前とはなんら関係のないことだ。俺はここではただの酔っぱらいで通している」
「そうやって、あなたは何を待っているのですか。ブエノスにいる理由はなんですか。この街で何が起ころうとしているのですか」
「もう一度言う、トーマ、お前には関係ないことだ。立ち去れ、手紙もいらない」
「わたしは、コリエンテス通りのオスカル・フェデリコ・コランジさんのレストランで働いています。連絡頂けませんか、クエバにはもう行けなくなりましたから」
「フェデリコか・・、メイから聞いたことがある。しかし、何も話すことはない。君はアントニーナに戻れ。そしてメイに忘れろと伝えてくれ」
「エルネストにもそう伝えるのですか。あの子はあなたに似ています。父親のことを訊きたいのを我慢している賢い子です。その子にもあなたは忘れろというのですか」
「・・・・そうだ。そう伝えてくれ」暗闇の中でもアレハンドロの苦悶がはっきりと伝わってきた。

コメント

このブログの人気の投稿

第三章 ブエノス・アイレス 1973年6月 Ⅻ

第五章、サンティアゴ・デ・チーレ 1973年9月 Ⅴ

樹影の下で 第一章 サンパウロ 1973年4月 ②