樹影の下で 第三章 ブエノス・アイレス 1973年6月 ⑦
ドアを開けると女性の歌声が聞こえ、大勢の客が暗がりの中で息をひそめている気配を感じた。テーブルもカウンターも人で埋まっていた。座れない者は影のように壁際に寄りかかってグラスを片手に聴いていた。
スポットライトがステージを光で浮かび上がらせていた。ステージには女性歌手がタンゴを唄っていた。ショートにカットした髪先が頬に添って内側にカールし、真紅の細いヘアーバンドで留めていた。ドレスは漆黒の皮膚のように彼女の身体の曲線に添ってぴったりと鈍く光り、スリットから赤いヒールを履いた陶磁器のような白い脚が横に投げ出されていた。
彼女は目を閉じて、両手を胸を覆うようにクロスさせ、真っ赤な唇に笑みを浮かべていた。そして笑みを消し、切なそうに歌を止めた。静けさが全ての動きを制した。すると、ゆっくりとピアノの旋律がさざ波のように奏でられた。それに合わすように彼女は目を開け、胸からほっそりとした細いウエストまで白い手を撫でるように下ろし、ゆっくりと腕を真横に伸ばし、形のいい胸を突き出した。
彼女は目を閉じて、両手を胸を覆うようにクロスさせ、真っ赤な唇に笑みを浮かべていた。そして笑みを消し、切なそうに歌を止めた。静けさが全ての動きを制した。すると、ゆっくりとピアノの旋律がさざ波のように奏でられた。それに合わすように彼女は目を開け、胸からほっそりとした細いウエストまで白い手を撫でるように下ろし、ゆっくりと腕を真横に伸ばし、形のいい胸を突き出した。
観衆は固唾をのんだ。それに応えるように彼女は細い顎を上げて白い喉から耐えられない悲しみを込めて最後の絶唱を歌い上げた。その声は哀傷に震え、聴衆を虜にした。
爆発するような拍手。テーブルの客は席を立ち、壁の客は一歩前に出て彼女の唄を称えた。しかし、その男はテーブルに頬杖をついたまま、興味なさそうにワインをグラスに注いで飲んでいた。
マルセーロが近づいてきた。顎をしゃくって「あの男だ」と告げて離れた。
わたしは彼を見た。伸びた前髪は縮れていた。男の眼はには光がなく泥酔者のように濁っていた。そして世間をあざ笑う皮肉な目で人々を見ていた。
「誰だ!」近づくと男はそういった。
「トーマです」
「俺が知っている男か、それともお前が俺を知っているのか。どっちにしても俺は死んだ男だ。亡霊にかかわるな」
「生きていた頃の、医者としてのあなたを知っています」
「医者が必要なら、ここではないぞ。病院に行け!」
わたしはマルセーロのジョークを思い出し、あれはこの人の受け売りだと納得した。
「なにを笑っている。可笑しいことを言ったか」
「いえ、マルセーロがあなたと似たことを言ったのを思い出したものですから」
「そうか、笑いたければテアトロに行け。いや、今なら街の至るとことで滑稽なショーをやっている。それで俺に何の用だ」
アレハンドロは酔っていた。話し始めると呂律がおかしくなり、目の前の何かを追い払うようにしきりに腕を横に振った。
「手紙を預かったので、届けに来ました」
「なんだ、お前は郵便配達員だったのか、それで誰の手紙を誰に届けに来たのだ」
「フランチェスカです。」
「・・・・・・・」
「フランチェスカからあなたに手紙を預かってきました」
「それならそれを持って帰ってくれ。フランチェスカとやらによろしく伝えることも忘れんでくれ。それで終わりだ」
わたしは男を眺めた。濁った目には己に対する凶暴さが宿り、毒を飲み込んだように笑みを失った唇。乱れた髪が額を覆い、肉の削がれた鼻梁は殺気だった印象を与えていた。記憶の彼方で、わたしが出会った男ではなかった。あるいは、この男が彼なら、男は仲間を失い、それも尋常な失い方ではなく、殺されるのを見たのかもしれない。その死には彼の責任も含まれているからこそ、これほど己を責めて、いや、苛むというより死んでいった者に対する切ないほどの愛情が男をどん底に突き落とし、これほど変えてしまったのだろうか。
それでも、わたしは続けた。
「あなたはわたしに借りがあるはずです」
それでも、わたしは続けた。
「あなたはわたしに借りがあるはずです」
テーブルの上に組んだ腕の間に顔を埋めていたアレハンドロは、頭をゆっくりともたげ、不審な表情でわたしを確かめるように見た。
「借り・・・、俺がお前にどんな借りがある、言ってみろ。俺が借りがあるのは一人の男しかいないが、そいつは確実に死んだはずだ」
アレハンドロの冷たい視線にわたしは怯んだが、力をこめて言った。
「わたしはあなたから手紙を預かり届けました」
「手紙?誰の手紙だ?」
「エルネストからマリア・エレーナ・ロドリゲスに宛てた手紙です」
「エルネスト・・、マリア・エレーナ・・誰だ、そいつらは?」
「エルネスト・ゲバラとターニャです。あなたがタマラ・ブンケにつけた偽名です」
「・・・・・・・」
ターニャの名を聞くと、アレハンドロの瞳は何かに怯えるように弱々しくなり「お前は誰だ!」と叫んだ。
その声があまりにも大きかったので酒場の客がこちらをみた。
その声があまりにも大きかったので酒場の客がこちらをみた。
「アレハンドロ、落ち着いて下さい。アンゴストゥーラであなたはわたしに手紙を預けました。1967年の夏です。あなたはビクトル・サンドーバルと名乗っていた。そして、マタラーニ村でチェと去った」
「・・・・・・・」
アレハンドロは、テーブルにあったグラスを手に取り一気に飲んだ。ワインが口端からこぼれ、液が滴って彼のシャツに紫の染みをつくった。
「そうか、あのときの小僧・・・か、確かに借りがある・・な」
アレハンドロは目を細めてわたしをみた。遠くを見るような瞳に、あの時の優しい視線がわずかに戻った。
「あの時の少年か」
「そうです」
「なぜ、サンタクルスに住んでいたお前がフランチェスカの手紙を預かってきた」
アレハンドロは、不信がよみがえったように冷たく訊いた。
「あれからわたしの家族はサンパウロに移ったのです。そしてサンパウロからクリチーバに行く途中のバスで偶然にフランチェスカの娘、アントニーナと出会ったのです」
「・・・・・」
「アントニーナは、わたしをアントニーナ村に誘ってくれました。そしてフランチェスカに会いました。それからまた旅に出たのですが、ブエノスに行くと告げると、彼女は運命だといってあなたへの手紙を預けたのです」
「・・・座れよ」
「え、」
「だから、座れよ」
アレハンドロの瞳には柔らかさがあった。わたしはそれを見て安心して腰掛けた。するとマルセーロが近づいて来た。
「アレハンドロさん、なにかご注文をなさいますか」
「酒はまだある。訳のわからないことを言い出す若者が突然現れる。そしてめったに注文を取りに来ないお前が注文を訊く。これはいったい何の偶然だ。なあ、マルセーロ、俺はこの店に勘定が溜まっているはずだが、お前らは誰から金を取るのだろうな」
「・・・・・」
「まあ、答えなくてもいい」
「いえ、アレハンドロさんはチェの同志ですから」
「お前らがそう思い込むのは勝手だ」アレハンドロはそういうと乱暴にワインを注いだ。そして、注いだワインを一息に飲んだ。
「この若者に聞くがいいさ、なにやらボリビアの話をしているようだから、お前らが探しているチェの戦友を知っているかもしれないぞ。なんていう名だったか・・・トーマといったな、俺に会ったことがあるか、俺が・・・俺は・・・」
アレハンドロの最後の言葉は聞こえなかった。そのまま酔いつぶれてテーブルに頬を押し付けて寝入ってしまった。
「トーマ、我々は約束どおり君をアレハンドロに会わせた。こんどは君が約束を果たす番だ。パードレに会ってくれ」
「パードレは、わたしに何を訊きたいのですか?」
「俺には分らない、多分ボリビア、サンタクルスのことを知りたいのだろう」
わたしはもう一度アレハンドロを見た。テーブルに押し付けられた彼の横顔はわたしに向いていた。そして、マルセーロは気付かなかったが、アレハンドロ目がわずかに開いて閉じられた。それは、アンゴストゥーラと同じような彼からの依頼だった。わたしはため息をついて「いいですよ」とマルセーロに答えた。
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