樹影の下で 第三章 ブエノス・アイレス 1973年6月 ⑥
「こんばんは、初めましてパードレ」
「君がトーマか、フェデリコがイタリア人でないことを残念がっているそうだな」
わたしは同じ言葉をゴンサレスからも聞いていたので、彼を見るとニヤッと笑った。フェデリコが遮るように咳をした。
「まあ、座りたまえ。ビーノは飲むかね」
「いえ、ありがとうございます。結構です」
「そうか、今晩はパードレに宗教と政治について訓戒を受けているところだ。なかなか面白いから一緒に聞きなさい」そう言ってニコラス神父のグラスにワインを注ぎ足した。
「で、パードレ・ニコラス、あなたはペロンが帰国してもこの国の政治はよくならないとお考えですか?」
「フェ デリコ。頼むからパードレと呼ぶのはやめてくれ。君とわしとは子供の頃、一緒に角のパン屋から食パンを盗んだこともあるんだ。わしは見張りで盗ったのはすばしっこい君だったが・・・主よお許しを、アーメン。フェデリコ、わしはローマ法王に忠実な司祭だよ。ファン・ドミンゴ・ペロン。あの男をカトリック教会が破門したのは間違いではないと信じている。あのペロンという男は軍人だ。それも根っからの、そして優秀な軍人だろう。貧困者は誰からも見向きもされなかったが、あの男は戦略を立てて実行した。なにも持たない貧困者や労働者がただひとつ懐に持っていた投票権という権利に目を付けたのが彼だ。この権利という力の使い方を親切そうに『団結して貧困者や労働者のために使え』と甘い言葉で囁いた。彼らは恐る恐るその力を行使してみた、するとどうだろう既存の政治家、金持ち、銀行も大学出のインテリも、それから教会でさえ全部ひっくり返ってしまった。その絶大な魔法の力に貧困者は狂喜した。それからはペロン!と叫ぶと労働者は 己も権力者になったような気分に酔いしれてしまった。これまでは慎ましく日曜日に教会のミサに来て、神に小さな頼みごとしていた連中が、ペロンを仰いで天下を取った気になった」
ニコラス神父は話を中断してグラスのワインを一気に飲んだ。フェデリコが空になったグラスにワインを注いだ。神父はミサでやるように、ワイン・グラスを目の高さに持ち上げて話を続けた。
「ペロンは神様でさえやらなかったこと・・・。現世での救いを人々に約束した。神でさえこの世でのお救いは諦めになられたのに・・、ペロンは神を超えたのか、ペテン師なのか、そんなことは考える間でもない。しかし、人々は権力に溺れて、あのいかがわしい男、未成年者を大統領官邸に住まわせて恥じることもなかった男が、我が祖国アルゼンチンを救うと民衆は信じている。ペロンが帰国すれば全てが解決する。救世主だと信じている。政治ってやつは麻薬だ。いや、正義感がある分だけもっともたちの悪い疫病だ。アルヘンティーノは誰もかしこもペロン、ペロンと叫んでいる。彼が帰れば、政治から経済、女房の面までよくなると思っている。全てファン・ドミンゴ・ペロン様が解決だ。一人の男に何ができる。帰ってくる男もバカな奴だ。人々の声に酔いしれて自分の偉大さを疑わない。トーマ、ペロンが民衆を動かしているのではない。民衆の欲望がペロンを動かしているのだ。憐れなのはどちらもそれに気づかないことだ」
「・・・・・・」
「民主主義というそうだが、民衆が主権を持って国が治まるはずがない。神話の時代から、紀元前の昔から、貧する大多数と少数の富める者という構図は変らない。これからも変るはずがない。金持ちがいるから貧乏人が居るのではなく、貧乏人がいるから金持ちが存在するのだよ。そして権力者の呼び名や選び方が変っても、人間社会の仕組みは変らない。頭のいい奴は、仕組みの名を変えて支配するだけだよ」
「パードレ、その仕組みは変えようがないというのですか」
「そうだ。トーマ、残念ながら、我々の社会は仕組みがないと動かないようにできている。だれかが号令をかけなければ動かないのだ、それどころか互いに殺し合いさえする。号令をかける者、つまり権力者を血筋で選んで王とすることと、選挙という制度で大統領を選ぶことと、どう違いがあるというのだ。結局、民衆 は誰かが号令をかけてくれなければ動けないのだ」
「パードレ・ニコラス。それは社会の仕組みであって、人間の価値そのものではないはずです」
パードレはニヤリと笑った。厚い唇が横に広がると大きな笑顔に変った。
「その通りだ、トーマ。システムであって、価値ではない。わしは法王に忠実な僕ではあるが、バチカンにいる法王もブエノス・アイレスの田舎の小さな教会で市民の小さな愚痴や悩みを聞いている司祭も、価値は変らないと解っている。このような社会システムの中にあっても正しい価値観を持つ者が社会の欠陥を是正するはずだ」
「ペロンは、正しい価値観を持つ者ではないといわれるのですか」
「彼には無理だよ。いや彼だけではなく、民衆の飢えた心を救えるのは宗教しかない。人々が永遠に信じるもの。信者は知っている。神はこの世では人々をお救いにならないことを。神はこの世ではなく天国をお約束なされたのだ」
「その仕組みは神が創作したとは考えられませんか。人間がその仕組みから逃れられないのは神が人類にそういう種・・なんらかの理由で欠陥を残したのではないのですか」
「フェデリコ、わしはこの坊主を連れて帰るぞ。勿論だ、その可能性はある。しかし欠陥ではないだろう。人々が生きていくには共に助け合って、その不足した部分を補い、誰かに頼らなければ生きて行けない。神が与えた欠陥は、共に生きていけというご意志だとしたらどうだろうか」
それまで、眠るように目を閉じて黙ってきいていたフェデリコが立ち上がって暖炉に薪を投げ込んだ。
「トーマ、これ以上話すとパードレ・ニコラスは職務から逸脱することになりかねない。もう充分だろう。ところで、ニコラス。パードレという呼び名を持った左派のリーダー、多分モントネーロスだと思うが、その男のことを聞いた事はないだろうか」
ニコラス神父は興奮から一瞬に冷めたように、冷ややかな目になった。そしてグラスに残っていたワインを揺らした。
「フェデリコ、やっと今日の本題かね。いや、この坊やにアルゼンチンがなぜ腐ったのか話すのは楽しかった。礼をいうよ。パードレか、それなら69年にコルドバでコルドバッソの暴動があったとき、第三世界派に属する神学課の若い学生が政府の派遣した警官と衝突した。彼らは血だらけになって「ペロンとチェ」と書かれたプラカードを持って学生たちの先頭に立って進んだ。その後モンテネロスのリーダーとして伸し上がった神学課の若い学生がいる。彼はアランブラ元大統領を誘拐し。革命裁判で処刑したメンバーではないかという疑惑もあったが、逮捕されて拷問にあっても口を割らなかったそうだよ。ラウソン刑務所に投獄されていたが、カンポラ大統領の恩赦で最近釈放されたと聞いている。その男は神学校出身なので同志からパードレと呼ばれている。名は
ホセ・マリア・アギーレスという」
「第三世界派とはなんですか」
「うむ、ラテンアメリカ司教協議会が1968年、コロンビアのメデジンで採択した『メデジン文書』の決議文によって開放の神学を正当化した。その教えに従い社会正義を唱えて布教活動している一派だ」
「どのような男かね」フェデリコが訊いた。
「一度だけあったことがあるよ。わたしの教会にふらっと入ってきて、祭壇の聖母像をしげしげ眺めていた。話しかけると、怒ったように出て行った。名前は言わなかったが、彼がホセ・マリア・アギーレスだと直感した。あの男は自分の信念に囚われている。だから周りの想いにはめくら同然だよ」
「つまり、大した器ではないということか」
「いや、囚われている分だけ、他人の感情に左右されない。冷酷なほど強固な意志を持っているともいえる」
「つまり、自分以外には冷酷な男ということか。トーマ、それでも会いに行くのか」フェデリコは念を押すように言った。
「ええ、それだけ分れば十分に気をつけることができるでしょう。それに、自分以外を理解しようとしないということは、その人物の性格にだけ用心すればよいということですから」
フェデリコはニコラス神父を振りかえった。神父はフェデリコに満足そうに頷き、空になったグラスにまたワインを注いだ。
「フェデリコ、この若者に乾杯だ。君が残念がっているのが分る」パードレがグラスを上げた。フェデリコもグラスにワインを注いだ。暖炉の火はまだ燃えていた。その焔にワインをかざしながら言った。
「ゴンサレス、そろそろトーマを送ってくれ。しかし、お前は今晩あの店に入る必要はない」
「わかっています。この坊やは大丈夫ですよ」
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