樹影の下で 第三章 ブエノス・アイレス 1973年6月 ⑤
アントニーナの手紙
愛するトーマへ。
あなたがこの手紙を読んでくださるときには、わたしたちはすでに遠く離れていることでしょう。そう思うとこの手紙を書くことがとても辛い。でもこの手紙を渡さないで別れることとくらべればこの辛さはなんでもないわ。
母は『トーマがあなたに愛を告げずに行ってしまうはずがない』と言ってくれたけど、わたしはこれほど自分に自信を持てなかったことがないわ。でも母の言葉を信じる。フランチェスカはいつでも正しかったから。そして、きっとあなたが読んで下さることを信じてこの手紙を書いています。
そうそう、母は可笑しそうに笑いながらこうも言ったわ『きっと汽車を停めることになるわ。トーマは自分のことになると判断ができなくなる性格だから、最後の最後にならなければあなたへの愛がわからない』と、でも、それでは、わたしはあなたにこの想いを伝える時間がないわ。それが手紙を書いた理由。いえ、ちがうわ。わたしは『愛している』ってあなたに伝えたいだけなの。それはあなたに何かを求めているのではなくて、わたしの愛を抑えることなど不可能だからだわ。
トーマ、あなたがわたしを愛して下さるなら、わたしを愛しているって誓ってほしいの。誓いなんて意味のないことかもしれない。でも誓いは心の支えになるわ。その支えがあれば、わたしはこの別れに耐え、再会の希望を持つことができる。
わたしはトーマを愛し続けるわ。散歩の途中でピラール教会の丘から海を眺めながら海風を感じる時、部屋の窓を開けてアントニーナの青い空を眺める時も、これから、わたしの生活の隅々にあなたの存在を感じるでしょう。きっとこれから毎晩ベッドの中で枕を抱きしめて少しだけ泣くでしょう。でも、あなたの誓いがあれば未来を信じて涙は乾くわ。
トーマ、お願い。ふたつだけ誓って「愛している」それから「帰ってくる」と、わたしは心からあなたに『愛している』って誓うわ、もう一度言うわ、誓いなんて意味のないことかもしれない、でも、それは私にとって大きな支えになるし、あなたにとってもそうであればこんなに幸せなことはない。
わたしがいつトーマに恋したか知っている?
トーマはあの時、あなたはバスのガラス窓のその向こうにある夜の闇を見つめていた。そして、そこに映った自分の不安そうな顔を見つめていた。その時のあなたの瞳にはあなたの全てが映っていた。その瞳に吸い込まれるようにわたしは心を奪われ、トーマの心と自分の魂が同化したしたように感じて、あなたに近づいたの。トーマは自分の心の底から甦ったように我にかえってびっくりしたようにわたしを見た。わたしはその時あなたが好きになったの。だからアントニーナに来て欲しかったの。わたしが生まれた故郷をあなたに好きになって欲しかったの。
だけどいつも不安がつきまとっていた。それは別れ。いつか別れがくる。それは避けられない運命として未来に待っている。そう思うと、アレハンドロが居なくなった日の母の悲しみがわたしの運命として二重に重なったの。あの工場、廃墟になった工場が、最悪の運命のように愛を壊して、あなたを連れ去ってしまう。
アレハンドロはゴンサーロと、あなたはその息子のルイスと出会った日に立ち去ることを決断した。それも偶然かしら。いえ、そうではないわ。
あなたはアントニーナの五百年の物語を語ってくれた。あの時わたしがどれほど幸せになれたか、物語を語ってくれたあなたにだって信じられないほどよ。だけど、その後のルイス達との出会いは、わたしを悲しみのどん底に落として、人生はこんなにも酷いものかと死にたくなったわ。
そして、最後の夜。あなたはアレハンドロ、そしてエルネスト・ゲバラ、それからタマラ・ブンケのことを話してくれた。わたしは全て受け入れようと思ったの、そして、壁のマリア様にあなたを生涯愛し続けると誓ったの。どんなに離れても愛している。その愛を信じることができると思う。
この手紙に、わたしの愛と魂を同封します。ですから、あなたがこの手紙を持って帰ってくるまでわたしは魂の抜け殻よ。
もう一度、誓うわ。あなたを愛している。
トーマへ、
あなたを愛しているアントニーナより
追伸、それから、ブエノス・アイレスには遠い親戚が住んでいますから訪ねて下さい。彼の名はオスカル・フェデリコ・コランジというの、母が必ず訪ねるようにとのことです。
わたしは闇という黒いスクリーンにアントニーナを描いて見つめた。彼女は美しく、わたしがどのような逆境にあってもその笑顔で救ってくれるだろう。彼女への愛しさで身体が震えた。「誓って、誓いは心の支えになるわ」という彼女のささやきは、わたしの支えになっていた。
「わたしに用があるようだ」
フェデリコは「預かってくれ」と言って、エプロンを外しわたしに渡した。
フェデリコが男の正面の椅子をひいて腰掛けると、バーテンダーは帽子を取って居住まいを正した。酒場で会ったときの冷笑は消えていた。わたしはフェデリコの後ろに立った。
フェデリコが男の正面の椅子をひいて腰掛けると、バーテンダーは帽子を取って居住まいを正した。酒場で会ったときの冷笑は消えていた。わたしはフェデリコの後ろに立った。
「マルセーロといいます。フェデリコさんにお伝えするようにパードレの使いで来ました・・・」
「話してみろ。誰だ、パードレとは」
「本名はいえませんが、我々組織のリーダーです」
「リーダー・・か、それで、そのパードレはアレハンドロという男にトーマを会わせてくれるのか」
「アレハンドロはいま危険な立場でして・・我々が保護していますが、どうにもならない状態です」
「どういう意味だ。なにがどうにもならない状態なのだ。おまえ達の組織はペロニスタだろう」
「ええ、我々はフアン・ペロン大佐の帰国を願って活動しています」
「では、トーマが会いたがっている男もペロニスタか」
「いえ、かれは違います」
「それなら、なぜ君たちが保護しているのだ」
「彼はもっと重要な人物なのです」
「誰にとって重要なのだ」
「それは、もちろん祖国アルゼンチンの革命と自由のためです。アレハンドロはある意味ではペロン大佐より重要な人物です。それを彼は・・、トーマというのですか、彼が裏付けることができるかもしれないとパードレは思っています」
マルセーロと名乗った男は、フェデリコからわたしに視線を移して言った。フェデリコもわたしを振り返ったがすぐにマルセーロに訊ねた。
「なぜだね」
「フェデリコさん。トーマはサンパウロから来たと言っていましたが、彼はポルトガル語ではなくスペイン語を話している。それもボリビア東部地方の発音です。彼はボリビア・・、多分、サンタクルスに住んでいたはずです」
「サンタクルス?それがなぜ重要なのかね」
「1967年ですよ」
その年代を聞いてわたしの記憶がわずかに反応した。軍用ジープと砂煙、そして死者の顔が載った新聞の見出しが甦った。
「マルセーロ、わたしは謎かけに興味はない。つまり、同じ年に、同じ町にアレハンドロという男もトーマもサンタクルスに居たと言いたいのかね」
「そうです。ですから、パードレはトーマさんに会って、その頃、アレハンドロとどこで会ったのかを伺いたいとのことです」
「それなら、君たちが保護している、そのアレハンドロとやらに直接訊けばよいことで、トーマから訊く必要はなかろう」
「残念ですが、アレハンドロは酒びたりで、アル中で、どうにもなりません。彼を正気に戻すためにもトーマの協力が必要です」
フェデリコはもう一度わたしを振り返って、それから答えた「そうか、君たちがアレハンドロをどう利用しようとしているのかわたしには興味はない。しかし、パードレがトーマと会うのは、トーマがアレハンドロに会った後だ」
「しかし・・・」
「マルセーロ、わたしは老人だ、頼むから繰り返させないでくれ」
「・・・・・」
マルセーロはわたしとフェデリコを見比べ、仕方ないという風に言った。
「明日の午後十一時」
「いや、今日だ。今日の午後十時半にしてくれ」
「しかし・・・」
「マルセーロ、わたしは政治にも興味はない。しかし友人は多い。きっとわたしが必要なときもあるだろう。パードレにありがとうと伝えてくれ」
フェデリコは全ての用件は済んだというふうに、席を立った。
「すまんが食事を出すことができなかった。詫びるよ、マルセーロ」
「いえ、とんでもないです。どうも、お時間をいただきました」
「では、パードレとやらによろしく」
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