樹影の下で  第三章 ブエノス・アイレス 1973年6月 ④



「バンドネオン奏者」の画像検索結果辻井は二日後に一人で店に来た。
入ってくるなりわたしに合図をして座った。
「坊や、おまえ誰を探しているんだ?おまえ、危ない組織に入っているんじゃないだろうな。それとも探している男はゲリラか?」
わたしはゲリラという言葉に緊張したが、気付かれないように真実を半分混ぜて話した。
「いえ、そんな人ではありません。ブラジルで手紙を預かって来たのですが、部屋を田訪ねても留守なので、その人が入りびたっているというタンゲーラを探そうと思ったのです」
辻井はしばらく考えるようにしていたが、なにか思いついたように顔を上げ、にやっと笑って訊いた。
「ところで、あの娘はものにしたか」
「え!」
「しらばっくれるなよ。ドン・ジョアンの店で近くのテーブルにいた娘だよ。始終、おまえを見ていただろう」
「はあ、・・・・」わたしはアントニーナを思い出して顔が赤くなるのを止められなかった。
「それみろ。おまえは正直すぎる。まあ、そこが気に入っているんだが・・・、ということは、まるっきり嘘ではないようだな。しかし、おまえが探している男はそうとう危険か、危険に巻き込まれている。それでも会う気があるか」辻井は私の半分だけの真実に気付きながらも気を悪くした様子ではなかった。
「はい、ぼくは会う必要があります」
「俺も行こうか?」
「いえ、最初だけでも一人で行かせてください。きっとご報告しますから」
「・・・・・・」ご
「教えていただけませんか」
「まあ、いいだろう」

その夜、閉店の前に、わたしはフェデリコと話した。
説明の後、「今夜は遅くなります」と、告げると、普段はわたしに干渉しない彼が、心配そうな表情になった。
「トーマ、今日ハポネスが君を訪ねて来たが、彼と関係があるのか?」と訊いた。
「いえ、彼には今夜行く場所を教えて頂いただけです」と答えると、フェデリコは「待っていてくれ」と言って、奥に入って行き一人の男を連れてきた。その男はレストランの厨房で働いているゴンサレスと呼ばれている大男だが、無口で誰とも付き合いがなく、無表情な男だった。彼が時々、フェデリコに呼ばれて奥の部屋で話しているのを見かけたことがあった。
「トーマ、頼むからこの男を同行させてくれ。いまのブエノスは君が想像している以上に危険な街だ。君にもしものことがあったら、わたしはフランチェカに顔向けができない」
それは、頼むという言葉以上に有無を言わせない強い口調だった。わたしは人当たりの良い普段の彼が見せたことのない面をみて驚いた。
フェデリコは、わたしの返事も待たずに、連れて来た男を振り返った。
「いいか、ゴンサレス。トーマから絶対に離れるな」
「シー・セニョール」男は小柄なフェデリコに神妙に頷いた。それもわたしの知らないフェデリコだった。

夜のコリエンテス通りは賑わっていたが、路地に入ると人影は少なくなり、サンテルモ街に入ると二人の影だけが石畳の路地に長く伸び、二人の靴音が街角に響いた。通りの両側には網シャッターが下りた骨董品屋が並んでいた。その閉ざされたガラス窓の中から過去の影を引きずった骨董品が疲れた売春婦のように気怠そうな眼差しで新たな買手を待っていた。ゴンサレスは一言も口をきかなかった。彼の拒絶するような雰囲気にわたしも黙って歩いた。

辻井から教わったその場所は、サンテルモ街の細い路地のさらに奥にあった。店であることを示すものは何もなく、ゴツゴツとした石積みの壁の横に気をつけなければ分らないほど細い階段が下に続き、幾つもの黒い鉄鋲が打たれた厚手の木造の扉は屈みこむようにしなければ通れないほど小さく、石壁の狭い階段がさらに下へと続いていた。その階段を窮屈そうに降りながらゴンサレスが呟いた。
「なるほど用心深い。他にも入り口はあるはずだ」振り返って彼に訊ねようとすると、彼はもとの無表情な男に戻っていた。

階段の途中からバンドネオンの音色が聞こえてきた。そして石の階段を降りきると、スーツ姿の男がひとり、煙草を咥えて開け離れたドアの入口にもたれかかる様に立っていた。男は我々を通すとカウンターバーの中に入ってグラスを磨き出した
タンゲーラの中は暗かった。目が慣れてくると、丸テーブルが数脚、そしてテーブルなしのソファが両隅に置かれているのがわかった。そして、そこだけが明るい舞台には歌い手がなく、スタンドマイクだけがスポットライトを浴びていた傍らの黒いピアノので、初老の男が一人、彼だけの世界にのめり込むようにバンドネオンをいていた。
バンドネオン音色客の少ない空間を埋め尽くしていた酔いつぶれたのか、眠っているのか、それでもグラスを放さない男が一人カウンターで夢をみていた。そして、テーブルにはそれぞれ異なった愛の姿を確かめ合うように二組の男女が腰掛けていた。若い男女抱きあって唇を合わせていた。男の方はわたしたちが店に入るとチラっと視線を向けたが、女の胸に手を潜りこませた。その隣の年老いた男女はテーブルの上で手を重ね合わせてはいたが、互いに見つめあう事もなく、バンドネオンが奏でる哀しいタンゴの音色を聴いていた。入り口に立ったままで目が慣れてくるとソファ席にも客居たが、影になってよく見えなかった。
「お探しの人は居ますかい」驚いたことにゴンサレスが声をかけた。それは喘息持ちが息をするようなゼーゼーと擦れた声だった。
「トーマさん、ここは、やばいですよ。入るときに通りに立っていた男が二階に合図をしていた。賭けてもいいが、出口は間違いなく鍵がかけられていますよ。カウンター立っている男は懐にやばい物を隠している。早ところ用をすまされた方がいい」
その男が近づいてきた。バーテンダーの服を着ていたが、唇の端に煙草を銜え、ズボンのポケットに手を突っ込んだままで、注文を取りに来たとは思えなかった。
ゴンサレスはわたしを押しのけるようにして前に出た。彼の手もコートのポケットの中に突っ込まれたままだった。
「人を探しているのですが」わたしはゴンサレスを制して、もう一度前に出てバーテンダーに訊いた。
「お客さんここは酒場ですぜ行方不明者の捜索願なら警察か墓場に行きな。そこでたいがい見つかる。どちらで見つかっても息はしてないが」男はせせら笑うように言った。
「アレハンドロ、アレハンドロ・デ・ラ・セルナという男です。この店に来ていませんか」
「ムチャーチョ聞こえなかったか、ここは酒場だ。人探しは他所でやってくれ」
「では、酒を下さい。ここは酒を飲む処でしょう」
「・・・・・」
バーテンダーはわたしとゴンサレスを交互に見た。
「いいでしょう。しかし、そちらの方には帰ってもらうか、コートを預からしてもらいましょう」
「ゴンサレス、帰ってもらえないか。頼みます」
「おれはフェデリコさんからあんたの傍を離れるなといわれている」
ゴンサレスはコートを脱ぎながら「素手にも自信はあるんでね」といってバーテンダーにコートを渡した。
「面倒は起こさんで下さい。他の客に迷惑をかけるならすぐに帰っていただきます」といってテーブルに案内した。
バーテンダーが注文をきいて去ると、ゴンサレスはテーブルから身を乗り出して妙に感心したように言った。
「あんた度胸があるねムチャーチョただのムチャチョではない。やっぱりフェデリコさんの客だ」
わたしは答えられなかった。ただ、ここで六年前のあの出来事に終止符を打つことができるのだろうか、それとも・・、ここから始まるのだろうかと思った。
「ウィスキーとビーノです。他には?」
「ショーは何時からですか?」
「知らないね。時間どころか、契約した歌い手もいない。ここは気がむいた時に誰かが歌って誰かが演奏しているだけだ。あそこでバンドネオンをやっているあの爺さんもいいところで演奏すれば銭が稼げる腕だが、なにが面白いのかここで弾いている」
「ソファ席の方の名訊いていただけませんか」
「あんたが直接訊いてもいいが、探しているアレハンドロとかいう男は骨董屋かい。あれは近くの骨董屋の店主だ」
「いえ、違います。別人でしょう。ところでこの店の名を教えて下さい」
「なぜそんなことを訊くのだ」
「看板がなかったからです。次来るときに不便ですよね、店の名がわからないと」
「あんた、誰からこの場所を訊いてきた。言ってみろ、そしたら店の名を教えてや
わたしはとっさに答えられず、黙り込んでしまった。バーテンは不信そうな目つきで見ていた。そのときゴンサレスがウィスキーを飲み乾してグラスを置いて言った。
「俺だよ。俺はコリエンテス通りのフェデリコさんの身内だ」
「フェデリコ・・、オスカル・フェデリコ・コランジか」
「そうだ、あんた達が用心している連中とは違うよ。このトーマさんに協力してくれないかね。フェデリコさんも感謝するだろう」
「ミロンガ・・だ」
「それから、ついでにアレハンドロという男にも会わせてくれないかそうすればおれたちは二度と来ない」
「・・・・それは、あんた達の身元を確かめてからだ。二日後に来い」
「そうしよう。それで決まりだ。トーマさん今日は帰りましょうぜ」

外に出ると、冷たい空気が緊張をほぐした。ゴンサレスは煙草を取り出して火をつけた。
「ありがとうございます。」と、ゴンザレスに礼を言った。
「フェデリコさんは、あんたを気に入っている。イタリア人でないことを残念がっているほどだ。礼なら俺ではなくフェデリコさんに言いな。すべて彼の力だよ。しかし、今夜のあんたを見てフェデリコさんが気に入っている理由がよくわかったよ。おれもあんたに力を貸そう」ゴンサレスは煙草を投げ捨てて「帰りましょうか」と擦れた声で言って歩き出した。

フェデリコは起きて帰りを待っていた。わたしが戻ると、なにも言わずただ黙って頷いただけだったが、ゴンサレスに目で合図をすると一緒に奥の部屋に入って扉を閉めた。
わたしは部屋に戻ると上着を脱いだ。夜の部屋は冷え切っていた。そして、わたしはその寒さをしのぐために、もう何度も読みかえしたアントニーナの手紙を机の引き出しから取り出してまた読み出した。

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