樹影の下で 第三章 ブエノス・アイレス 1973年6月 ③
ロクサーナに礼を言って彼女のアパートを出ると、夜はすっかり明けていた。スール風はまだ吹いていたが朝の陽光に暖められて刺々しさが消えていた。それに気づいた人々が路上に現れ、ブエノス・アイレスは無機質の冷たさから抜け出して生命の暖かさを取り戻していた。
-いや、ロクサーナは読めなかったと言っていた-。
アレハンドロはイゲーラ山中でどのような体験をし、どうやって生き残ったのだろうか。あの時、ゲリラはボリビア陸軍の掃討作戦の完全なる成功で全員山中にて死んだと政府は発表した。では彼はどうやってサンタクルスからブラジルまで・・いや、まてよ、彼はアルゼンチン人だ。どうして国境の近いアルゼンチンに逃げなかったのだろうか・・・・・。様々な疑問が浮かんだが答えはなかった。
朝の陽光がわたしを暖めてくれた。今朝、レティーロ駅から出て歩き出したときの不安と寒さが消えてしまったことに気づいた。ブエノス・アイレスの朝の街角に雑音が混じったラジオからタンゴが流れていた。気が付くと、わたしはコリエンテスという通りを歩いていた。そして想いの中から目覚めると、前方に朝日を跳ね返すように真っ白なオベリスコが空高くそびえていた。そして「パレルモ」というレストランの看板が目の前に下がっていた。わたしはフランチェスカの手紙を思い出して取出した。
ヌエベ・デ・フリオ大通りは、ブエノス・アイレスの誕生を祝うオベリスコを中央に据えていくつもの大通りを束ねている。その途方もなく幅広の大通り沿いにはコロン劇場がアルゼンチンの過去の繁栄の威容を残している。メトロの乗り場や贅沢なホテルが幾つも建つこの通りには、人々の賑わいが絶えることがなかった。
わたしはブエノス・アイレスに着いた日、コリエンテス通りからオベリスコを見た。それはヌエベ・デ・フリオ大通りのすぐ近くで、偶然にもそこに、アントニーナの手紙にあった店の名を見つけた。そのイタリア料理の店「パレルモ」はメイの遠縁で、店の主人のオスカル・フェデリコ・コランジに会ってアントニーナから来たことを告げて、メイの手紙を渡した。
手紙を読み終えたフェデリコはメイの家族の安否を尋ね、無事と聴くと頷いて「神に感謝します」と呟き、そして両手で私の手を握り、早口で感動を伝えて肩を抱擁してくれた。そして店の裏の自宅に案内して、部屋が小さいことを詫びながら「滞在したいだけ滞在してくれ。メイの父親にはこの店の開店資金を出してもらった恩義がある。そして、あの家族から一度も何かを頼まれたことがなかった。やっと小さな恩返しができることを感謝する」言って、私に部屋を与えてくれた。わたしは部屋の代償にブエノス・アイレスに滞在する間はレストランで働かしてくれと頼んだ。フェデリコは、最初は怒り、そして渋り、最期にやっと承知してくれた。
ブエノス・アイレスはわたしの冒険心を躍らせた。新旧が混在する街、昼間の陽気も夜になると人生を嘆くように気だるいタンゴをかきならす街。そして平穏を装った裏には行き場をなくした不穏な空気が渦巻いている街。この街には隠された秘密、邪悪な力が潜んでいる。そして暴かれることを恐れなくなった邪悪は爪を研ぎ、その力をもって敵に襲いかかろうとしていた。
レストランの仕事の合間に何度かロクサーナの下宿を訪ねた。その度に彼女は首を横に振った。そして、何度目かの訪問の時、ロクサーナは用心するように半身を外に乗りだして通りを見渡し、急いでわたしを中に招き入れた。
「どうも様子がおかしいよ。アルは政府か軍に目をつけられている。この頃、通りの向こうに男が立ってこちらの様子を伺っている。姿を隠そうともしない。あれは政府関係者よ」
「でも、どうしてアルと関係があると、別の下宿人ではないのですか」
「トーマ、あたしはねここに住んでいる者の全てを知っているわ。仕事も家庭も、教会に行く日も、何曜日に何を料理して食べているか、三階のホルヘが水曜日の晩に隠れてどこに行くのかさえも知っているわ。得体がしれないのはアルだけよ。あのロクデナシの正体はわからないわ、だから、政府に監視されるとしたら彼しかいないわ」ロクサーナは怒ったように話した。そしてどうしたらよいのか分らないというふうにため息をついてイスに腰掛けた。
「アルは、まったく連絡がないのですか?」
「ええ、昨日も彼を探して男がきたわ。周りを気にするようにしていたから、政府関係でなく反対側の人間だわ」
「何という名でした」
「パードレ・・・、が来たと伝えてくれ、といって帰ったわ。ふざけたあだ名ね」
「パードレ?父親ですか?」
「ちがうわ、そんな年寄りではないわ、若い男よ。たぶん神父(パードレ)になり損ねた反動で悪事に走った男よ、きっと」
「他にはなんと?」
「トーマ、あんたはしばらくここに来ないほうがいい。アルから連絡があったら、あたしがあんたのいるレストランに行くわ。政府の監視や、あんなゲリレーロがここに来るようでは危ないわ。あたしだって危険だわ、だからもう来ないで」
ロクサーナは怯えたような目でわたしを見た。
「さあ、帰って」と、急かすようにと言った。
「他には・・・・、そのパードレと名乗った男は他には何か話しませんでしたか?」
「トーマ、あの通りにいた男はいつかわたしの家のドアを叩くわ、だからもう何も訊かないで・・・、そうだわ、アルがクエバ・・と呟くのを聞いたことがあるわ。さあ、行って、でもわたしが通りを確かめてから」
わたしはロクサーナの怯えを信じた。それは多分、ゲバラやタニアたちの死となにか関係があることだろう。そしてアレハンドロはどこに消えたのだろうか。わたしにはもう探す手立てがなかった。
しかし運命はとどまることを知らない。常に人生をおもわぬ方へと導く。その日、フェデリコのレストランのドアを開けたのはその運命が導いた思いがけない人物だった。
「このレストランは見栄えは悪いがパスタの味は本物ですよ、参事官」
日本語にふり返ると、シャツの裾をズボンの外に出した辻井が、濃紺の背広をきちんと着こなした小柄な痩身の男を案内して店に入ってきた。
「辻井さん・・」イスに腰掛けようとしていた辻井はわたしをみた。
「なにをしているんだ坊や、なんだ、そのエプロン姿は、無銭飲食でメセーロでもして借金を返しているのか」
「お世話になっているんです。この店のオーナーに」
「辻井君。この青年は?」辻井の連れの男が訊ねた。
「こいつですか。ブラジルから来た純情な青年ですよ、参事官」
「辻井さん。この間のようにステーキにしますか。レアーの」
「なんだ、おまえ冗談も言えるようになったのか。それにしてもその前掛け似合っているぞ」辻井は大きな声で笑った。
「参事官、こいつはいまどき珍しい純な青年で、ゆうずうも冗談も世の中もわからんところが気にいっていたんですが、しかし、冗談だけは覚えたらしい。おい、話してみろ。なんだってこんなところでメセーロをやっているんだ」
「他に知り合いもないので、ここを紹介していただいて、ブエノスに滞在する間お世話になっています」
「なんだったら俺がまだましな仕事を紹介してやろうか」
「いえ、この仕事は昼食時と夕食時以外は自由ですので、気に入っています」
「で、その間はブエノス見学か?」
「そうです。ところで辻井さん、タンゴ通の店というか、本物のタンゴを聴ける知られていないタンゲーラ知っていますか。安い酒が飲めるところです」
「ほう、冗談だけでなく。音楽、それに酒まで飲めるようになったか少年」
「・・・・・・」
「君は、アルゼンチンの他にも渡航許可はあるのかね」これまで黙っていた参事官と呼ばれた男が訊ねた。
「はい、ボリビア、チリ、ペルーの許可を頂いています」
「チリ?・・・・いつ渡航許可を取ったかわからんが、あの国にはしばらく近寄らないほうがよいと忠告しておこう。サンパウロの領事はよく許可を出したものだ」
「・・・・・」
「はい、まず、安く飲めて・・・、良いタンゴ演奏者がいて、常連が多くて、何日でも居座って飲めるところです」
「なんだ、おまえ人探しをやっているのか」辻井は疑わしいそうな目つきになって訊いた。
「いえ・・・、ええ、そうです。あまり金のない人が何日も居座って飲めるタンゲーラです。それからその場所はクエバという名がついているかもしれません」
「場所はどのあたりだ」
「・・・・・」
「どうせ金のない奴なんだろう。遠くまで行けるはずがない。どのあたりに住んでいるんだ」
「サンテルモですが」
「探しておいてやるよ。わかったらまた飯を食いにくるから、今日はパスタを出してくれ」
「はい、ありがとうございます。コーヒーもお付けしましょうか」
「それは偶然か、それとも俺をからかっているのなら今の頼みはなかったことにするぞ」辻井は面白くなさそうにわたしを睨んだ。
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