樹影の下で  第三章 ブエノス・アイレス 1973年6月 ②





レティーロ駅を出ると隠れていた獲物を見つけた嬉しさにスール風が咆哮をあげて襲いかかってきた。
 その獣のような風は道路の左手から吹いて街に向かっていた。風が来た方向には建物なく、暗やみの中何か大きな、どんよりとした広がりをじた。近づいてみると広大な海のような流れ滑るよう蠢いていた。それはレティーロ駅で見た列車と同じく、爬虫類がぬらりと身体を運んでいるような流れだった
それがラ・プラタ河だった。冬のラ・プラタは、その名のよう美しい銀色ではなく、水の底に生命を引きずり込むような不吉な灰色の流れだった
不安になって駅員からもらった地図でコロン公園の位置を確かめようとしたが、それも風に邪魔されて広げることができず、諦めてまた暗い街灯の下を又歩き出した。
そしてコロン公園らしき広い場所が左手に見える頃には体はまで凍えて唇が硬くなり言葉も凍っていた。街はまだ眠りの中に沈んでいた。コロン公園の歩道を白い街灯が照らしていた。公園の周りには歴史を重ねた古い宮殿のような建造物が並んでいるせいか公園が小さく感じた。また歩道沿いの樹木の枝に葉はなく、光のない空を突き刺すように刺々しく白い枝先を伸ばしていた。
「これがカーサ・ロサーダだろうか」と思いながら、なだらかな丘を登り切って、公園が途切れたところまでたどり着き、右に折れてゆるやかな坂道を登った。そこにもまた欧風な古い建物の影が立ち並び、睥睨するように見下ろしていた。人影のない街はまるで墓場のようだと思いながら歩いていると、チリーンというの音がして坂道から自転車が下りてきて脇を抜けて走り去った。自転車のハンドルの上には新聞が積まれていた。振り返ると、十四、五歳の少年が片手でハンドルを押さえたまま新聞を一部抜き取ると石造りの建物の玄関の前に投げ込んだ。わたしは立ち止まって自転車が坂道を下って見えなくなるまで見送った。
坂を上りきって、目的の建物の正面に出た頃に、夜はやっと退きはじめ、早朝の薄日の中にピンクに塗られた建築物が眼前にあった
「これがカーサ・ロサーダか・・・」
五月広場には幾人かの人影があった。正面のカーサ・ロサーダと呼ばれる大統領府は、そのがっしりとしたゴシック的な造りに反して女性的なピンク色に塗装されていた。ベンチに腰掛けるとその足元からスール風が朝に追われるようにすり抜けていった。わたしは膝の上にバックを乗せ、両腕を抱くようにして朝の訪れを待った。
それはカーサ・ロサーダの濃緑色の屋根の上にかぶさっていた雲の合間から現れた。朝の陽光は一瞬カーサ・ロサーダを影にしたが、やがて光が屋根の高さを越えるとカーサ・ロサーダは挑発するような紅色に包まれていた。

「カフェいらんかね」
驚いて振り返ると、白い上着に黒いスラックス、白いワイシャツに黒い蝶ネクタイの男が右手に魔法瓶、左手に金属性のマグカップを乗せた盆を持って立っていた。
「いくらですか」
「たった二ペソですよ。温まりますよ」
わたしは男が魔法瓶を高々とあげて器用に盆の上のカップにコーヒーをそそいでいるのを見ながらポケットから小銭を出して数え、男に渡してマグカップを受け取った。
「ドレーゴ広場にはここからどう行きますか」カフェの温かさが鉄を通して手のひらを温めた。わたしは熱いカフェをすすりながら訊いた
「歩いても十五分だよ。ほらあの道をまっすぐ行けばいい」
カフェ売りの男は右手の魔法瓶を持った手を上げて方向を示した。
カフェを飲み終えてカップを返すと、温かくなった両手が冷えてしまうのを惜しんでポケットの奥深く突っ込んた。街は早朝の赤紫色の淡い光につつまれはじめていた。

サンテルモ街はブエノスの下町の古い面影を残していた。多くの建物は歴史を刻んだものだけが持つ、年老いた人格のように染み出てくる独特な風格があったし、出入り口のドアときたら並大抵の者は寄せ付けないほどの威厳をもって閉め切っていた。多くの店は網戸シャッターが降りていたが、その中のショーウィンドーには骨董品らしき古きものが雑然と飾られているのが覗けた。敷石は白く乾き、その石の隙間にも歴史が挟まっていた。
アラメーダ通り十二番の建物もその中のひとつだった。風格で押し通すには古びて手入れが行き届いていないのが一目瞭然った。厚手の木材を使った扉の中央にはすり減ったライオンの頭部ノッカーがついてドアはニスが剥げて色落ちしていたし、壁の漆喰が落ちたのか白い塊と粉が歩道に落ちていた。
その扉のノッカーをためらって叩いた。用心して叩いたはずなのに思いの外音は人気のない通りに大きく響いた。わたしはノッカーの響きに中から人が出てくる前に逃げ出そうかと気弱になった。しかし誰も出てこないことに安堵しながら、もういちどノックすることにためらっていた
「誰だい?」閉じられた扉の内からしゃがれた甲高い女性の声がした。あきらかに寝起きのような不機嫌な声だった。
「アレハンドロさんを訪ねてきたのですが、在宅でしょうか」
「アレハンドロ・・、だれだいお前さん」
「ブラジルから手紙を預かって来た者です」
「・・・・・・・・」
錠がはずされる音がして、蝶番が軋んだ。扉が開くと三十代後半だろうか薄手の擦り切れたワンピースの上から毛羽だった毛布のような厚手の布を肩にかけた女が顔を出した。
―この服はパジャマ代わりだなーと思って見ていると、服の下にはブラジャーをしてないのだろう、大きな胸が揺れた。その胸を隠すためか、それとも寒さのためか女は布を持ち上げて胸元を覆いながら少し外に身を乗り出すと胡散臭げに目を細めた。
「アルはいないよ。あいつは家賃日になるときまって居なくなる。なんだい、あんたチーノか?」
「いえ、ハポネスですが、アレハンドロさんはいつ戻るか分りませんか」
「アルは、家賃は払えなくてもタンゲーラで飲む金はたんとあるんだろうよ。当分帰りはしないよ。探すならここじゃないね、坊や」
「どこのタンゲーラでしょうか」
「それが分っていたら家賃を取り立てに行っているよ」女は目が覚めてきたのかしげしげとわたしを眺めた。
「ブラジルのアントニーナかい?」
「え、アレハンドロが話したのですか」
「いや、以前はよくそこから手紙が届いていたからね。最近は届かなくなったから諦めたかと思っていた・・・」
「その手紙、アレハンドロさんは読んでいましたか?」
「・・・・・いや、多分一通も、一行も読んでいないね」女はそう言って表情を暗くした。
「あんた寒いだろう、中に入んな」女は親切になって扉をもっと開けてくれた。
家屋の廊下は暗かったが、外の風はここまでは入ってこなかった。アパートらしい建物は、すぐ正面に人一人がやっと通れそうな狭い階段があり、上の暗い踊り場の左右に部屋が並んでいた。
「あたしの部屋はここよ」といって招いてくれたのは一階の左側の扉だった。
「あたしは父が亡くなってからこのアパートの管理人をやっているの。アルは父の時代からの下宿人よ。彼が学生の頃から、もっとも途中で居なくなって、また戻ってきたけど、ずいぶんと変ったわ。あの男、昔は明るくてね、女の口説きも上手くて、あたしの妹のマルタなんてアルに夢中だったけど、だけどアルは口ばっかりで本当は奥手で、あれは根の純情な男で、サカリで女を抱けるタイプではなかったわ。そのうちマルタは妊娠して『アルが口説かなかったから当てつけに他の男に抱かれたら子供ができた、あんたのせいよ。』なんて言っていたけど、あの娘もメンドーサに行って、もう子供が五人もいるのよ。ずいぶん前のことね」女は、話し出すととまらない性質のようで、話し続けながらコーヒーを入れてくれた。
「なぜ、アルが手紙を読まなかったと分るのですか」
「あたしは、週に一度、アルの部屋の掃除をしているの・・・・お金は貰えないけど、まあ、あたしもマルタと同じで、昔アルが口説いてくれるのを待っていた時代があるの。いまはそんな気持ちは消えたけど、娘時代の楽しさや懐かしさを思い出せることは、それが消えたいまは大切な時間なの、だから押しかけて掃除をしているのよ」女は自分のコーヒーを口に運んで止めた。
「だから・・・・、彼の机に積んである手紙がいつも気になったわ。そして、その手紙が一通も封が切られないことが初めは嬉しかったの、だけど・・、それが積み重なってくると、手紙を出したムヘールの気持ちになって哀しくなったわ」女はパーマをあてた髪をたくしあげた。その手の爪の剥げかかったマニキュアにはこの建物と同じく古び去っていく悲しみがあった。
「アレハンドロはなぜ手紙を読まなかったのでしょうか」
「そんなの知らないわ。アルはロクデナシになったわ。哀しいロクデナシにね。あんた名はなんというの。あたしはロクサーナよ」
「トーマです」
「そう・・・、手紙は置いていく?」
「いえ、また届けに来ます」
「そう、それがいいわ、読んでくれるかもしれないからね。ねえ、手紙を書いた人、素敵なムヘールなの?」
「ええ、素敵な女性です。彼女以上の素敵な女性はいません」
「そう、だからアルは読めないのだわ。読まないのではなくて」
「・・・・・」
「ある日ね、アルが酔って帰ってきたの。あいつは酔うといつもドアを閉め忘れるからわたしは起き上がって、玄関のドアを閉め、それからこの上のピソにあがってアルの部屋のドアも閉めようと思ったの。すると中から魂が千切られるような泣き声が聞こえたわ」
「・・・・・・」
「アルが積み重ねられた手紙の上に覆いかぶさって、愛しいものを抱きしめるようにして泣いていたの」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「その手紙はそれからどうなったのでしょうか。アルは捨てたのでしょうか」
「・・・・いや、捨て切れやしないよ。好きな女の匂いのついたものはたとえ古ハンカチ一枚だって捨てるもですか」
「・・・・・・・」
「おまえさん、これからどこに行くのかい」
「まだ、決めていません。どこか暖かいねぐらを探しますよ」わたしは駅員の言葉を思い出して言った。

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