第二章 アントニーナ 1973年4月~7月 ⑦
トーマの物語(1967年3月 Santa Cruz-La Paz)
やがてマタラールという村名が粗末な板に書かれて、立木に打ち付けられた交差点に着いたが、道路はバリケートで塞がれ、迷彩色の軍服を着た軍人たちが手を上げてバスを停止させた。
「また検問か」と誰かが不満を漏らしたが、重装備の兵隊にバスを囲まれると静かになった。彼らは機関銃の銃口を上げてはいたが油断なくバスに近づいてきた。
運転手が扉を開けると、指揮官らしき男が乗り込まずに訊ねた。
「アンゴストゥーラから新しい乗客が乗ったか?」
「いや、そのままですよ」運転手が答えると、指揮官の他に二名の兵士が乗りこみ、残り四人はバスに銃口を向けて取り囲んだ。
「私 はマタラールの分署の指揮を任されているマヌエル・パラーダ少尉だ。これから手荷物検査をする。棚から自分の持ち物を降ろせ」といって指揮官が前の席から
調べ始めた。残りの二人の兵士は前方の左右に立って銃を乗客に向けていた。その物々しさに乗客は沈黙し、それぞれの荷物を黙って差し出した。
ぼくの前にパラーダ少尉が立つと、ぼくも黙ってリュックのファスナーを開いて差し出した。彼はバックの中に手を入れ衣服と本やノートしかないのを確かめると
閉めるように指示した。ぼくはほっとしてリュックを閉めようとするとファスナーに預かった封筒の角が挟まった。次の席に進もうとしていた少尉がそれに気づいた。
「それは何だ」
「え、手紙です」
「見せろ」といって少尉は封筒を手に取った。
「宛名しかないな。だれが書いた手紙だ」答えようとすると前方の座席の乗客が怒鳴った。
「いつ出発させてくれるのですか。急いで下さいよ」
パラーダ少尉は振り向いてその乗客を見た、ぼくもその乗客を見た。それは私に封筒を預けたビクトルという男だった。
「どうして検問ばかりしているのですか。皆な迷惑していますよ。わたしは医者ですが、コチャバンバで急患が待っていますから急いでください。」ビクトルはタリハ訛りのスペイン語で抗議した。
「黙れ、チャケーニョ(タリハ人)。貴様じゃまするのか」と、前方の兵士が怒鳴ってビクトルの席まで行っていきなり殴りつけた。
「いいか、我々はゲリラと戦っているサンタクルス第八師団だ。じゃまするな」
ビクトルはそれ以上なにも抗議しなかった。しかし、それがわたしへのシグナルだということは明白だった。
「この手紙はどうして差出人の名がないのだ。また住所もないがどうやって届けるのだ」マヌエル少尉は、もう一度訊いた。
「それは・・・、差出人は同級生です。ラパスにいる恋人に届けてくれと頼まれたのです。親にばれるとまずいので名前を書いていません。彼女はターミナルに取りに来るそうです」
「君はチーノ(中国人)か?」
「いえ、ハポネース(日本人)です」
「そうか」といって封筒をいじっていたが、それをぼくに投げ返すと「つぎ!」といって後方の乗客の荷物を検めはじめた。
ぼくはビクトルを見た。彼はぼくを少しだけだが凝視して、そして安堵したように視線を逸らした。
兵士たちがバスから降りると、バリケートが横に引きずられて道路が空けられた。車窓からみるとマヌエル少尉がビクトルを殴りつけた兵士を上官らしく指図していた。
ぼくは返された封筒の内容と、ビクトルがなぜぼくに預けたのかを考えていたが、ビクトルの様子から彼が答えないのははっきりとしていたし、またこれ以上彼に近づくのは危険だと感じた。しかし、なぜか危険を冒してもこの手紙を届けようと思ったのは、それは日常から脱したいというこの旅と同じ理由からだった。
バ スの中はしばらくすると乗客のざわめきで満ちた。危険が過ぎた緊張の緩みが人々を饒舌にさせていた。車内が会話で賑やかになると前の席からビクトルが立ち
上がって屈伸運動をするかのように何度か通路を往復して歩き出した。そしてバスの揺れを利用してぼくの方に体を寄せると小さな声で「ありがとう、頼む」と短く言って席に戻って行った。
その後、半時間もするとバスはマタラール村の前を通り過ぎた。そこは三叉路になっていた。左に曲がればバリェ・グランデ村だったがコチャバンバ行きのバスはそのまま直進した。その三叉路を通り過ぎる時、濃緑色の軍用ジープが二台駐車し、軍人が数人煙草を吸っていたが、バスが通ると彼らの何人かがタバコを捨てて靴で踏み消してバスを見た。その何でもない仕草にでさえぼくは緊張した。多分、ビクトルも同じだろう。
マタラール村が見えなってしばらくすると道路は左に大きくカーブした。そしてカーブの出口で運転手が何かを叫んだ。とたんにバスは急ブレーキで軋んだ。ぼくは前方の座席の背に手を押しつけて体を支えた。バスはキーっというブレーキ音を立てて急停止した。
「カラーホ(ばか)、牛め!」と運転手が悪態をつきクラックションを立て続けに鳴らした。停まったバスの前方の道路を牛の群れがゆっくりと横切っていく。クラックションに動じるようすもなく高原の晴れた空の下で、のんびりと立ち止まってはこちらを見ている牛もいる。そして道路を渡った牛が時々草を食むので後ろの
牛はつかえてまた立ち止まる。運転手はあきらめてハンドルに寄りかかって牛の通り過ぎるのを待つ姿勢になった。
その時、バスのドアがコンコンと叩かれた。運転手が横を見るとガラスドアの向こうで戦闘服を着た髭もじゃの男が銃の先で軽くドアを叩きながら手のひらで開けろと合図した。
「だれだ、お前は・・・」といって運転手がハンドルから体を起こすとその反対側の窓からもう一人男が現れ、開いていた窓から銃口を運転手の頭に突きつけた。
「騒がずに開けろよ。危害は加えない」これも落ち着いた声だった。
運転手はいったん客席を振り返ったが仕方ないという素振りでバスのドアを開けた。
「騒がないでバスを出してください」と乗り込んできた男が運転手に丁重に指示をする。男は中肉中背で細面の顔だったが濃い眉にくぼんだ目、そして鼻下から顎まで髭で覆われていた。長い髪は癖毛らしく後ろに流しその上に小さな星のついたベレー帽をかぶっていた。
「皆さん、ご心配なく。我われはこの国の独裁者を倒し、民衆による政治を望んでいる者たちです」彼は目元にシワを寄せて、目を細めるようにして話した。声は落ち着いていた。そして口元に笑みさえ含んでいた。
「いいですか、ご心配なく。ただ皆さんの中に医者がいましたらご協力願えませんでしょうか。我々の仲間に怪我人が出ました」
「・・・・・」
「・・・・・」
問われた車内は反応がなくしばらく静かだった。しかし乗客の誰かが恐る恐る言った。
「彼が医者だというのを検問の時に聞いたぞ」といってビクトルを指さした。
「セニョール、医者ですか?」と髭の男はビクトルに近づいて聞いた。
「そうだ、ドクトル・ビクトル・サンドーバルだ。君は誰だ」
「わたしはエルネスト・ゲバラです」
「・・・・・・」
「申し訳ないが、ご同行頂けませんでしょうか」
「・・・・・・」
「心配はありません。治療して頂けましたらすぐに解放しますので、どうかお願いします」
ビクトルは躊躇していたが、まわりの乗客の厄介払いするような目が気に入らないのか、「いいでしょう」と少し怒気を含んで承諾した。ぼくは、検問所でのビクトルの抗議と符丁することに気付いた。
「その先を左の小道に曲がって下さい」ゲバラは運転手にそう指示すると身を屈めるようにして通路を進み、驚いたことにぼくの隣に腰掛けた。そして揺れるバスの中でぼくと同じように腕を伸ばして前のシートの背を掴んで体を支え、そして空いた片手で胸のポケットから葉巻を取り出して銜えた。
「さて、マッチはどこだ・・あった」ゲバラは乗客の一人であるかのようにくつろいで葉巻に火をつけるとゆっくりと紫煙を吐き出した。
ぼくはできるだけ彼を見ないようにして座っていたが無関心ではいられなかった。エルネスト・ゲバラと名のった男はぼくを見て、ニヤッと笑って言った。
「コンニチハ」
突然の日本語に驚いて彼を見た。ぼくの反応に彼はうれしそうに笑った。その顔は髭の中で人懐っこく悪戯に満足した子供の笑顔だった。
「たったこれだけだよ、わたしの覚えている日本語は」と、スペイン語で言った。
「わたしは君の国を訪ねたことがあってね。アメリカがヒロシマに原爆を投下したことに怒りを感じたよ」
ぼくは答えられなくて黙っていた。ゲバラは静かな声で続けた。
「一人旅かね?」
「そうです」
「そうか、旅の目的は何だね?」
「わかりません」
「わたしも旅に出たよ。友人とね、それもロシナンテというオートバイに乗って、アルゼンチンから遥かベネズエラまで旅した。いい旅だったが君と同じで目的なんかわからなかった。ともかく全てを変えることができる遠い遥かな旅をしたかっただけだったが、帰ったとき自分が変わったことに気付いた。君もきっとそうなる」
「いまも旅しているのですか?」
ゲバラは驚いたように葉巻を持つ手を止めたが、褐色の目を細めるようにして言った。
「そうだ、その通りだ。わたしはいまも旅をしている。なかなか辿り着けない旅だよ」
「ビクトルはあなたに似ていますね。あなたの兄弟ですか?」
ぼくは小さな声で訊いた。ゲバラはあっけにとられたような顔した。
「まいったな。君は感のいい少年のようだ」
「彼を迎えに来たんですね」
エルネスト・ゲバラはすぐに答えず、ぼくの顔をしげしげと見てそれから答えずに訊いた。
「君の名は?いくつだ?」
「トーマです。十四歳です」
「たった十四の歳の子供に我々の作戦が見破られるなんて・・・。つまらん作戦だ。そうだ君の想像していることは正しい。」
「彼の名はアレハンドロ・デ・ラ・セルナ、わたしの母方の従兄弟だよ。そして、わたしの名はエルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナだ。トーマ、君は誰かに生命を託されたことがあるかね、今がそうだよ。わたしは君を信じて命を託そう」
ゲバラはそういうと席を立ち、明るい声で運転手に呼びかけた。
「ここらで停めてくれるかね。そろそろ迷惑だろうから退散するとしよう」
「さて、ドクトル・サンドーバル、申し訳ないがご同行をお願いしたい」
エルネスト・ゲバラと仲間はビクトルを伴ってバスから降りた。ゲバラは思い出したように振り返って運転手に言った。
「君はマタラール村の検問所に戻ってわたしのことを訴えるかね?」
運転手は答えなかった。
「まあ、やめたほうが君や皆さんのためだよ。きっと四、五日は足止めされるぞ。懸賞金なんてしみったれのボリビア軍に期待しないことだ。ではブエン・ビアヘ」
バスから降りると、ゲバラは向こう向きのまま葉巻を持った手を上げて背中で別れを告げ、アレハンドロを伴って茂みの中に姿を消した。
バスの運転手は乗客を振り返った。誰も何も言い出さなかった。
「そうか、俺も面倒は嫌いだ。それじゃあ、このままコチャバンバに向かうが、同意するな」そう言っても誰も答えなかった。その反応に運転手は肩をすくめた。
「みんな同意したからな、俺一人で決めたんじゃない」と、言ってギアーをバックに入れるとバスを旋回させた。
バスが。本道に戻ると緊張感がとけたのか車内はやっと話し声で溢れた。
「あれが五百万ペソだぜ」
「それにしても優男じゃないか。あれなら簡単に賞金が稼げたが残念だよ」
「ばかいうな、クーバのフィデル・カストロの兄弟分だぞ。てめえなんか逆らったら殺されていたぞ」
「それよりもかわいそうにな、あのドクトル生きて帰れるかな」
ぼくはゲバラの作戦が成功したことを知った。そしてビクトルと呼ばれた男の本当の名を自分だけが知っていることに少年らしい誇りを感じた。
バスはサンタクルスからコチャバンバの州境を越えた。それは越えたという言葉がこれほど相応しいかと思うほど霧に覆われた険しい山脈を越えてコチャバンバに着いた。そしてサンタクルスから乗ったバスをラパス行きのバスに乗り換えるとぼくはほっとして預かった手紙をリュックの上から押さえた。
ラパスへの道はさらに海抜が高くなり、2千を越して、3千、4千メートルと高くなるにつれ、顔の表面に薄いセロファンを押し付けられたように空気はピンと張りつめ、肺はピンホールを開けられたように呼吸の効果が薄くなって息苦しかった。「高山病か・・・」大丈夫だろうかと夕暮れが近づいてくるにつれて不安になった。
その息苦しさを忘れようと、ぼくはエルネスト・ゲバラとアレハンドロ・デ・ラ・セルナのことを考えていた。彼らは何を成そうとしているのか。ゲバラは戦
闘服を着て顔を髭で覆っていた。アレハンドロはスーツを着てきれいに髭を剃って都会の若い紳士のようだった。しかしあの二人はよく似ていた。その二人がこれからやろうとしていることは十四歳のぼくには想像もつかなかった「賞金がついている」と誰かが言っていた。西部劇の酒場の壁に貼られた懸賞金の手配書を思い浮かべた。なぜだろうか?悪いことをした?でも、あの目は悪人の目ではなかった。そうだ「いまも旅をしている」と言っていた。それならエルネストも不確かなのだ。彼らがやろうとしていることが何であれ、理想を求める旅であり、理想は現実の届かないところにあるのだろうか。
翌朝、バスはエル・アルトというアンデス山頂の小さな集落から、すり鉢の底に降りるようにして坂道をラパスに降りて行った。ラパスはアンデス山頂の赤茶けた土を掘ったような盆地の底に存在する不思議な町だった。
バスを降りると騒々しさが私を押し包んだ。スペイン語だけでなくケチュア語、アイマラ語の甲高い声が騒々しさの中に入り混じって舞っている。
―あまりバスを離れては探せないだろう―、ぼくはそう思い、近くにあったベンチに座り、リュックを膝の上に置いて待つことにした。同じバスに乗ってきた乗客は出迎えた者や、あるいは目的があるのだろう、すぐに散り散りになって居なくなった。
座ったベンチは壊れているのか少し身動きするとギシギシと音がした。十五分もすると運転手も去って、バスは他の町に出発するためにフロントガラスの前に置かれてあった行き先を告げるカードが「ラパス」から「オルロ」へと変えたが、それでも誰も現れなかった。
ぼくはあきらめてバス・ターミナルを出た。どの方角が市内か見当もつかなかったが人の流れにまかせて坂道を下り始めた。ラパスは坂道だらけの町だった。それに長方形の小さな石を敷き詰めた道は数百年もの間、人々に踏みしだかれて表面が磨かれて滑りやすくなっていた。そして、ぼくはサンフランシスコ教会の広場の前で呼び止められた。
「すみません。マリア・エレーナですがビクトルから手紙を預かった方ですか」
ぼくは彼女を見た。若い白人の女性で黒いコートの襟で頬を隠していた。赤いスカーフで髪を包み、栗色の大きな瞳が印象的だった。
「いえ・・・」と答えると、彼女は驚いたような表情になって、すぐにバス停留所の方向に駆け出そうとした。
「違います。預けたのはビクトルではなく、アレハンドロです」と、ぼくは訂正して呼び止めた。彼女は立ち止まって振り返った。
「彼は君に名前を教えたの」
「それも違います。教えてくれたのはエルネスト・ゲバラです」
マリア・エレーナとぼくはサンフランシスコ寺院から始まるプラド大通りを南に歩き通り沿いの映画館の角を左に下る坂道に入った。そこは路地で人通りが少なくなった。そしてマリア・エレーナは一軒の古い家の鍵をあけて入った。
ぼくは彼女の後に続いて中に入った。中は暗く、彼女はスカーフを取り、すぐに電灯のスイッチを入れ部屋に明かり点けた。そこは台所と居間が一緒になったような小さな部屋で、彼女はコートを脱いで食卓の腰掛けにかけた。そしてコンロの火をつけながら「すわって、いまコーヒーを入れるわ」といった。
「いえ、手紙を渡すだけですから、すぐお暇します」
彼女は振り返って私を見た。彼女の後ろの窓からの光が逆光になってマリア・エレーナが影になった。
「だめよ。エルネストが名を教えたなら、君は私たちの同志よ」っと、彼女の影が話した。
「それともどこかに行く当てがあるの?」
「いえ、でも同志なんて、ぼくは貴女方が誰なのか、なにをしようとしているのかも知りません」
マリア・エレーナはぼくに近づいてきた。顔を近寄せると大きな瞳が美しかったが、彼女は自分の美しさに関心がないかのようにまったく化粧なしの顔だった。
「そういえば、君の名前も聞いていないわ」
「トーマです。」
「わたしは・・・タニアと呼ばれているわ。でもアイデ・タマラ・ブンケが本当の名なの。でもタニアと呼んで」
「タニアは、ボリビアーナではないですね」
「そう、わたしはエルネストと同じアルゼンチン生まれなの」
「アレハンドロもアルヘンティーノ?」
タニアは少し黙ってから答えた。
「わたしはアレハンドロと会ったことがないの」
タニアはぼくの前にすわった。
「トーマはアレハンドロと会ったのでしょう。彼はエルネストと似ているの?」
ぼくは急に怖さを感じた。知ってはいけないことに気づいたのではないだろうか。踏み込んではいけない領域に迷い込んだのではないだろうか。そしてマタラール村の検問所や三叉路に停まっていた軍用ジープ、そしてサンタクルスの街角に貼られた大仰な賞金のついた髭面の男の指名手配のビラなどが思い出された。あれは
ぼくが届けた手紙の内容に関連があるのではないだろうか。
「トーマ、どうしたの?」
この女性からも、そしてエルネストやアレハンドロからも、ゲリラという血生臭いものを感じなかった。しかし実際に彼らは戦っているのだ。ぼくとこうして話している美しい人は世の中が変わると信じて銃を持って戦っているのだ。
「あなた方が怖いのです」
タニアはまた黙ってぼくを見た。彼女はテーブルの上に置かれたコーヒーカップに手のひらを添えて湧き上がってくる何を抑えるかのように強く力を込めた。
「ぼくは二人に会いました。エルネストとアレハンドロです。でも、二人のことは知りません。アレハンドロは僕に手紙を預け、エルネストはアレハンドロを連れて行きました。二人とも似たような優しい眼をしていました・・・。そして受け取ったあなたもエル二人と同じく思いつめたような哀しみが瞳にあります」
「・・・」
「ぼ くには、エルネストやアレハンドロ、そしてあなたが兵士に変るなんて想像もできません。戦いというのは憤りや憎しみ、怒りだと思っていました。でもあなた
方を見ていると悲しみで戦っているような気がします。怒りや憎しみで戦うなら理解できます。しかしあなた方のような戦いは理解ができない怖さがあります」
タニアは瞳を伏せた。部屋の中が静かになった。ぼくもカップに手を添えた。手のひらに伝わってくる暖かさだけがこの部屋の唯一の救いだった。タニアはいつもこうして一人で手のひらを暖めているのだろうかと思った。
「トーマ・・わたしたちは・・・」
その時、ドアが激しく叩かれてタニアの言葉は途切れた。
「隠れて、早く」
タニアの反応は素早かった。テーブルの上にあったぼくの飲み残しのカップを取って中身を流しに捨てた。
「寝室に隠れて、静かにして」小さく、だがしっかりとした声だった
ぼくは隣の部屋に走りながら横目でタニアが椅子にかけてあったコートの内から銃を取り出すのを見た。
ドアを叩く音は続いていた。
「キエンエース(誰)」タニアの声がした。
「開けろ、マリオだ」
ドアを叩く音が止み開錠する音がした。そしてなぜかドアの向こうであるにもかかわらず冷たい風が入って来たのを感じた。
靴の音と椅子が動かされる音。そして乾いた声がした。
「チェはどうしている」
タニアの返答はなかった。
「連絡があったのか。誰かラパスに来たか」
声の主は部下と話すように見下して押し付ける口調だった。
「いえ、だれも来ないわ」
「今日バス・ターミナルに行っただろう」
「つけていたのですか」
「偶然だよ。お前が朝っぱらからバス・ターミナルでうろついていたと俺の部下が報告してきた。何の用があったのだ」
「・・・・・」
「チェからなんと言ってきた」ドン!とテーブルの叩かれる音がした。
「誰も来ないわ。買い物に出ただけよ」
「いいか、ここはお前らの国ではない。ボリビア共産党は俺の指揮下にある。勝手なまねはするな。ましてチェは共産主義など理解していない。あの男は政治も分かっていない。浅はかにもソビエトを批判してフィデルに見放されクーバを追い出された男だ。」
「違うわ、フィデルはチェを見放していない」
「フィデルは体よくチェを追放したのだ。あの別れの手紙を公開してな。フィデルは熱情家だが冷静な政治家だよ。今後クーバからの支援を当てにするのはよしたほうがいい。勿論、我々もチェを支援しようとは思っていない」
嘲笑するような声だった。
「あなたはチェを売るつもりなのね」
「チェを売る?その冗談は傑作だ。愉快なことを言う。誰に売る?彼にそんな価値はないし、そんな必要もない。彼は自分の夢に溺れて自滅するよ。いいかタニア、彼を売るのはわたしではなく民衆だよ。彼が愛してやまない貧しい民衆だよ。彼の妄想は現実を理解しようとしない。革命は上品なものではない。革命とは高尚な思想を生み出す頭からではなく、喰えなくなったすきっ腹という品のないところから生まれるのだ。純粋な革命思想で命を捨てる奴はいない。腹を空かせた痩せ犬が飼い主に噛み付くとき革命が起こるのだ。チェにはそれが分かっていない」
「・・・・・・」
「おまえたちは、あのサンタクルスの山中で誰と戦う。政府どころか将校一人さえ殺せないだろう。皮肉なことにお前たちが殺すのは貧しい農民出身の兵隊たちだけだ。俺はチェと会って驚いたよ。あの純粋さ、計画も戦略もなく、ただ民衆が蜂起することだけを信じている。彼は若い頃ロシナンテというオートバイに乗って旅したことを話してくれた。その通り彼は夢見るドンキホーテだ。ボリビア共産党がサンチョ・パンサになってお供してくれると思っているらしい。俺は政治家であって夢想家でも空想家でもない」
「いいかタニア、サンタクルスに行けば間違いなくお前は殺される。第八師団がチェの討伐に向かっている。アメリカ軍に訓練された特殊レンジャー部隊もだ。チェのことは忘れろ。ラパスで暮らすなら俺が安全を保証してやる」
マリオと名乗った乾いた声の男は声色を変えた。親切でやさしげな口調になっていたが、それでもざらざらとした声には変りなかった。
「モンヘ、あんたはチェに劣等感を持っているわ。チェは民衆に売られても、民衆に忘れられることはないわ」
苛立つようなタニアの声だった。
「なんと陳腐なセリフだ。罵れば俺が腹立つとでも思っているのかね。残念ながらチェには羨望も感じないし、彼の人格に引けをとっているという劣等感もまったくない。彼は夢見る青年で、わたしは大人だよ」
ぼくは扉に背を押し付けたままでマリオ・モンヘという男の言葉を訊いていた。喉が渇き、背中が汗ばんでくるのを感じていた。
「わたしはボリビアの人々を、民衆を信じるわ。あんたには欲が見えるわ。それが信じられない理由よ」
「なるほど類は類を呼ぶものだ」
「・・・・・・」
「タニア、君も何もわかっていないようだ。君たちにボリビアの現実が理解できるはずはない。わずか数ヶ月の滞在でボリビアを理解したというのなら君たちは傲慢だよ。そのことはチェにも伝えた。また君には欲がないかね。純粋に生きようとするのも欲だよ。エゴといってもいい。君らは全ての者が欲もなく純粋に国のために生きていけると思っているのかね。そして純粋に生きていけないものは排除するのかね?そのような者は不潔で、君らが持つ綺麗な心が汚れるからといって嫌うのかね?どちらも違う欲を持っているだけだ」
「モンヘ、あなたはわたしたちがボリビアを理解していないという。でも、あなたはチェと数時間しか話していないはずよ。それで彼を理解したというのも傲慢よ」
椅子から立ち上がる音がした。そしてまた同じ乾いた声が言った。
「タニア残念だ。国を理解するのと個人を理解することはまったく別の次元だよ。個人を理解するのはそう難しくない。ましてチェのように表裏のない男を理解するには数分で充分だ。君のように若く美しい女が無駄死にするのを止めることができないのは残念だ」
「・・・・・・」
そして扉が開き閉まった。部屋は静寂に包まれると急に気温が下がったように冷えた。ぼくはそのまま扉に背を向けて立っていた。その扉をタニアが開いた。
「もう行ったわ」
「チェとは誰ですか」ぼくはタニアに訊いた。
「エルネスト・ゲバラはチェと呼ばれているの」
ぼくはタニアの部屋に泊めてもらった。タニアはいつも用心深く、二人同時に部屋を出ることはなく、必ず彼女が先に出て、外を確かめてから戻ってきてドアを軽く叩いて出てもよいという合図をした。
街に出るとぼくは彼女と別れ、行く当てもなくラパスの古い街並みの中を歩き、スペイン植民地時代の建造物の中に形もなく臭いのように染み込んだアイマラ族の歴史の怨念とそれを拒むように塗りつぶす統治者の傲慢さと恐れを感じた。植民地、統治は治る者も治められる者も過酷な歴史を背負い五百年の歳月を得てもなおラパスという高山の街の至るところにその傷跡を残していた。
そして疲れると公園のベンチに座ってラパスをとり囲むアンデスの赤い峰々を見上げた。その中には白い雪を被ったイリマニ山の峰もあった。空は青く雲ひとつなかった。アンデスの空の蒼さは空以外の存在を許さないかのようだった。
タニアは出かける度に向かいの家のレンガの隙間に鍵を隠した「ここに隠せば向かいの家の鍵だと誰も思わないでしょう?」と、話すときはいつもの暗く沈んだ表情が少女のようないたずらっぽい顔になっていた。
ラパス最後の晩も僕はその鍵を取って部屋に入った。湯を沸かしているとタニアが戻ってきて「明日はサンタクルスに帰るの?」と訊いた。
ぼくが頷くとタニアは「わたしも行くわ」と短く言って、それから「一緒では迷惑かしら」と訊ねた。
タニアは上着を脱ぎ、黒いセーターの袖を腕の少し上に引いた。鍋に水を入れ、フライパンに油を敷いてコンロの火をつけた。ぼくは料理をするタニアの背中に「タニア、どうしてゲリラに加わったの」と訊ねた。タニアは一瞬その白い手の動きを止めた。
「ぼくにはあなたやチェ、そしてアレハンドロも優しい人にしか感じられない。とても銃を持つ人のように思えない」
タニアは後ろ向きのまま答えた。
「・・・・ 故郷が欲しかったの。トーマ、わたしはアイデンティティをなくして、いつも一人だったわ。アルゼンチンで生まれたけれど、ブエノスではロシア人と呼ばれ、
母の国、東ドイツに行っても、父の国のロシアに行っても・・・どこに行ってもわたしは異邦人だったの。チェと東ドイツであったとき、彼は同志と呼んでくれた。故郷を欲しがっていた私はその言葉の暖かさに飛びついたわ。以来、わたしはボリビアを、そしてアルゼンチンの民衆を解放して国民に同胞として迎えられる夢をみているの。」
「・・・・」
「マリオ・モンヘは嫌な奴。でも真実を話しているわ。その真実が私の心をズタズタにすることもあの男は知っている。残酷な男だわ」
「真実なら、どうしそれを受け入れないのですか」
「真実は事実だけど、正しいということではないわ。マリオ・モンヘは私たちがボリビアの実情を知らないといったでしょう。それは事実だわ。でもチェは
ボリビアとかアルゼンチンという国境を持たないの。彼はボリビアを知らなくても人はどう生きるべきか知っているわ。わたしはそれが正しいと思ったの」
タニアはコンロの火を止めるとフライパンで焼いた肉を二つの皿に移し、鍋で煮たジャガイモを添えた。
「わたしは迷うことをやめたの。チェを信じてついて行くわ。その結果がモンヘのいうような無駄死にであっても、私にとっては信じた道、無駄ではないわ」
ぼくは、タニアの憑つかれたような動かない決意の底には深い悲しみが沈んでいると思った。
タニアはそれ以上何も話さなかった。静かな、食器の乾いた音だけが冷たい部屋に響いていた。
翌朝、ぼくは初めてタニアと一緒に部屋を出た。彼女は警戒することをやめていた。部屋にもラパスにも最後の別れを告げたせいだろうか。しかし、タニアはスカーフで髪を隠し、白い肌の色を別人のように褐色に変え、服装もサンタクルスの田舎娘のように装っていた。バスに乗ると彼女はそっと腕を伸ばしてぼくの手を握った。彼女の不安が私に伝わってきた。ぼくもその手を握り締めた。窓の外にイリマニ山の雪を被った峰が白く光って見えた。ラパスの空はその日も青く雲ひとつなかった。バスが動き出すと哀愁をおびたケーナの音色がいずこからか響いてきた。タニアはビクッと握る手に力をこめたが、その笛の音色はラパスの薄い空気のように希薄に漂って消えた。
バスは盆地をあえぐように這い上り、平坦なアルティプラーノまで登りきると速度を増した。ラパス盆地の向こうに見えたイリマニの峰が背後の地平線に隠れようとしていた。バスが東に方向を変えると朝日がフロントガラスから眩しく差し込んできた。その明るさにタニアはほっと安堵したようにぼくの手を離し、その時
になって気づいたようにはにかんだ。
「ごめんなさい」
「いえ、ぼくも怖かったです」
タニアは不思議そうにぼくを見て「あなたは大丈夫よ。絶対に安全だわ。私はそうするし、チェもそれを案じていたはずだわ」と言った。
「でもぼくは手紙を預かってきましたから」
「あの手紙は架空の男が恋人に宛てた形式になっていたの。だから誰が読んでも男の身勝手な別れ話としか理解できないわ」
「別れ話?すると、チェはタニアに来るなと告げたのではないですか?」
タニアはぼくを見てため息をついた。
「手紙を受け取った後。一度だけ電話でチェと話す機会があったわ。その時チェに少年は感が鋭いから気をつけろと言ったわ。あなたは真実を見る力があるのね、これからの人生が辛いわね」と言ってぼくの頬に手で触れた。
ぼくはタニアにそれ以上訊くのをやめた。しかし、なぜ彼女はそうしてまで戦地に赴くのだろうかと疑問に思った。旅の始まりに見たサンタクルス西部の荒涼とした乾いた土地。その荒れ果てた土地に消えたチェとアレハンドロ。タニアもその地に永遠に消えてしまうのだろうか。
バスはアンデス山脈を降って行った。時々山裾に広漠とした平野が現れ、そこに点々とアドベ煉瓦で建てられた人影のない人家やその周りに放牧された家畜、そしてトウモロコシ畑の緑が生き物のように風に揺らいでいた。その風景が夕暮れに包まれ気温が下がりはじめた頃、山裾がひらけて道が平坦になりコチャバンバの町に到達した。
タニアとぼくはコチャバンバのバス・ターミナルでキヌアの熱いスープを飲んだ。サンタクルス行きのバスのシートに腰掛けてもスープの暖かさが体内に残って、
ぼくは小さな幸福感に包まれた。タニアも寡黙ではあったが唇に微笑が浮かんでいた。そして、夢のなかに沈むように眠った。
ぼくは暗闇の中で目が覚めた。同じ暗闇の中でタニアがもっと暗い外の闇を見つめていた。暗い窓ガラスにタニアの顔が映っていた。その顔は外の闇に劣らず深く暗い表情が張り付いていた。
ぼくが目覚めたことに気づいて振り向いた。
「トーマ、わたしのこと忘れないで」
「・・・・・・」
「このまま死んで、誰もわたしのことを憶えていないなんて悲しいわ。」
タニアはそういうと目を閉じた。瞼が膨らんで悲しみに震え涙がこぼれた。
「忘れません。タニアもタマル・ブンケもエルネストも、そしてアレハンドロも、ぼくはずっと憶えています」
タニアは目を閉じたままで頷いた。安堵したようにまた唇に薄い微笑が浮かんだ。
「わたしはチェの命令を無視したわ。チェには今度の作戦が失敗に終わるかもしれないという予感があると思うの。だから来るなと指令を出したの。チェは計算するタイプではないの。自分の理想に忠実で、その理想のためなら死を選べるくせに私には生きろと言うなんて矛盾しているわ。彼がなんと言ったと思う?『女は死んではいけない』だって。馬鹿にしているわ、でもそれが彼の愛情なの」
「・・・・・・」
ぼくは答えなかった。答えると神聖なものを壊してしまうような気がしたからだ。
それから夜が明けるまでタニアは寡黙のままだった。ぼくも話さなかった。すべてはある目的をもって動き出し、人の力では止めることなど不可能な運命だと思った。そしてチェとアレハンドロが去ったマタラール村の手前に近づくとタニアは私を抱いて両頬にキスをした。
「さよならトーマ」
「さよならタニア」
「停めてください。ここで降ります」
タニアは荷物を背に担ぐとバスから降りた。すると木陰からひとりの髭の男が待っていたように現れてタニアの荷物を受け取り、抱擁し、それから発進しようとするバスに手をふった。それがエルネスト・ゲバラなのかアレハンドロだったのかぼくには分らなかった。バスはすぐに発進した。こうしてぼくは、タニアと呼ばれた
タマル・ブンケと1967年3月の夜明けに別れた。
それから夏が過ぎ、秋のない亜熱帯のサンタクルスに冬が訪れて、南極からスールの冷たい風が吹きつける季節になった。
ぼくはいつもの生活に戻り、学校に行く途中で兵隊を満載したアメリカ製の幌つきのトラックやジープが砂埃を舞い上げて走り去っていくのを路傍に立ち止まって見送った。ラジオではレネー・バリエントス大統領がしわがれ声を張り上げて「ゲリラ掃討作戦の大成功」を何度もラジオで発表した。その度に新聞にはチェの大きな顔写真が載ったので、ぼくは星印のベレー帽をかぶったチェの写真を切り取って机の中にしまった。
そして何度かの全滅作戦大成功のニュースが発表された後の九月、タニアの死が新聞で報道された。リオ・グランデで政府軍に待ち伏せされた彼女たちは、激しい銃撃戦ののちに射殺されたという。政府軍は川に流された彼女の遺体を執拗に捜し、やがて回収したと誇らしげに発表した。ぼくはもうラジオなど聞きたくなかった。新聞も見たくなかった。なにかを恐れていた。いつかそうなるだろうと思っていた予感が現実に新聞に報じられたのは十月九日だった。
ぼくは、死んだチェの写真を長いこと見つめていた。不思議と悲しみは湧いてこなかった「この人はこうなることを願っていた」という確信が心の中にあったからだろうか。ただ疑問が残った。誰が死んだのかぼくには判らなかった。
それがエルネストなのか、アレハンドロなのか、上半身裸の死んだ男は薄く目を開けて口元にイエス・キリストのような微笑と言葉を浮べていたが、その言葉は聞こえてこなかった。
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