第二章 アントニーナ 1973年4月~7月 ⑧


 すべてを語り終えるとわたしは疲れを感じた。ぐったりと椅子の背に持たれて視線をテーブルの上の吊り下げられたシャンデリアに向けると光が眩しく沁みて瞼を閉じた。
「殺されたのはエルネスト・ゲバラよ」とフランチェスカが言った。
「しかし・・・・、エルネストが・・・死んだなんて信じられない。クリチーバのあの写真を見たとき、僕は、エルネストは生きていると思った」わたしは目を閉じたまま答えた。
「アレハンドロは、エルネストと共にボリビアの山中で戦ったことを話してくれた。でも、彼はそれ以上話そうとはしなかった。毎朝、海辺に座って沖を見つめていた。わたしは彼を愛し、彼はわたしを愛しながらも幸せになることをためらっていた・・・・死んでいったエルネストやタニアに詫びて・・・幸せになることが裏切りになるという意識から抜け出せないまま去ったの」フランチェスカは哀しげ言った
「トーマ、これから何処に行くの」アントニーナが訊いた。 
わたしはアントニーナを見た。大きな瞳から涙が消えて彼女らしいまっすぐな光があった。わたしは安心して答えた。
「ブエノス・アイレスに行きます」
「アレハンドロに会う?」とアントニーナが訊いた。
「ええ、あなた方のお許しを頂けたら・・・そうしたいと思います。ぼくは確かめたいことがあります」
「待っていて」と言って、フランチェスカは立ち上がって出て行った。
「トーマ、この町に来たことはあなたにとってよかったことなの?」
「くらべようもないよ。ここに来なければ、ぼくは何も知らないままだった。エルネストやアレハンドロのことだけでなく、自分自身をそしてフランチェスカは女神のようにぼくを真実に導いてくれた。この町に連れてきてくれた君に、アントニーナ、君に感謝している」
「わたしはそんなことを・・・・」とアントニーナが言いかけると、フランチェスカが手に手紙を持って戻ってきた。
「これはアレハンドロが最後にくれた手紙。まだこの住所に住んでいるか確かではないけどあなたなら探せると思うわ」といって縁に水色のストライプの入った封筒を渡してくれた。
「トーマ、あなたは明日何かを求めて旅立つのね。」 
わたしは立ち上がって、テーブルをまわり二人の素晴らしい女性を抱擁した。そしてひとりひとりの頬に愛情をこめてキスをした。

翌朝、わたしはアレハンドロが見ていたという早朝の海を見るために海辺まで下りていった。海への坂道を歩いていると、ホーホーという声が遠く沖合から聞こえてきた。立ち止まって海を見ると朝霧の海は銀色に染まっていた。遊歩道から浜に降りていくと海から冷たい風が吹いてきたわたしは両手で襟元を押さえて渚まで歩いた。
アントニーナの内海には今日も小さな漁船の影がいくつか浮かんでいる。その船から別の船へ呼びかけるようにホーホーという両手で包んだような声が聞こえ、するとその呼び声に応えるように霧の中からまたホーホーという声が聞こえてきた。対岸の島影の裾に霧が雲のように漂っている。そしてわたしはアレハンドロと同じように砂浜に座って夜明けをまった。やがて空も海も夜明けともに朝焼けの赤紫色に染まった。漁師もその小船も小さな黒い影となり、その周りを海鳥がキーキーと甲高く鳴いたかとおもうと上昇した。
それは一瞬の刹那の風景だった。瞬く間に世界は変化し、海は透き通り輝くような水色に色を変化させ、山頂から太陽が白い光を射して力強く朝が訪れると、海はその水色を濃くして青さ深め、そして普段の空と海の色になった。わたしはこの海を、この夜明けを、この砂浜に座って眺めていたアレハンドロという男を想像した。この夜明けの美しき変化は男の心に確実に影響を及ぼしただろう。わたしも最後の夜明けが自分の心の中に触れるのを感じていた。

旅というものは多少の不安を伴ったにせよ常に私の心を躍らせた。しかし今日の旅立ちには不安はなかったが心躍らす喜びもなかった。沈んだ気持ちのままわたしはバックを背負った。アントニーナ駅のプラットホームに立っていると、カラーン、カラーンという発車の合図の鐘がなり、それに応えるように先端の機関車から長い汽笛が聞こえてきた。その機関車のボイラーから吐き出された蒸気が列車の車体とプラットホームの隙間から溢れ、ホームに立つ人々の足元を白く覆った。
フランチェスカは愛情をこめて静かに別れの抱擁をしてくれた。小さなエルネストが泣いてズボンの裾を掴んだ。アントニーナは・・・・、薄い水色のドレスを着ていた。そのドレスに似合わぬ物憂い哀しげな瞳の色がぼくには辛かった。しかし、しっかりと口元を結び、強い意思を秘めていた。わたしはその訴えるような瞳をまっすぐに受け止めることができなかった。そして、わたしはその瞳に別れを告げなければならなかった。
「さよなら、アントニーナ」
「・・・・・・」
「いつか・・・・、いや、元気で」
アントニーナは、なにも答えなかった。わたしは自分が間違ったことをしているような気分になったが言葉見つからなかった。もう一度「さよならアントニーナ」というと「さよならトーマ」と、その唇から小さな声が洩れた。

汽車の通路は狭く、空いた席を見つけてわたしは窓際に座った。バックを足元に置き、すぐに窓を引き上げてアントニーナを探した。彼女はエルネストの手を握ってプラットホームに立っていた。わたしを見て近づくと車窓に両手を乗せて身を乗り出すと「信じているわ」といって頬に軽いキスをくれた。
機関車はもう一度急かすように汽笛を鳴らし、そして動き出した。乗客たちはいっせいに窓から別れを告げている。そのとき心が激しく高鳴って胸が痛んだ。だんだんと動悸がひどくなり叫びたくなるほどたまらなくなった。わたしはいったい何に別れを告げようとしているのだろうか。
「失いたくない!」わたしは汽車の窓から身を乗り出して、別れを告げたばかりのアントニーナを振り返った。風景は後ろに流れて汽車は速度を増しはじめていた。しかし、わたしが窓から顔を出すと、それが合図であったかのようにアントニーナはエルネストの手を放し、汽車を追うようにプラットフォームを走り出した。そしてホームの最後まで行きつくと躊躇することなく線路に飛び降り両手を広げてさらに駆けてくるのが見えた。
そこまで確かめたとき、わたしの想いの全てはアントニーナだけに満たされ、彼女以外のものはすべて世界から消えた。わたしは車窓から飛び降りようと窓枠から更に身を乗り出したとき、信じられない魔法の杖が触れたように汽車が軋む音を立てて停車した。わたしはその幸運に感謝しながら機を逃さずに車窓から地面に飛び降りた。
アントニーナはもうすぐ近くまで来ていた。彼女への愛に溢れてわたしはもどかしく走った。そしてアントニーナを強く抱きしめ、彼女の涙を見ながらそのバラのような唇にキスをした。
「アン、愛している」
「やっと言えたのね、お馬鹿さん」
わたしは彼女の瞳に喜びが満ち溢れるのを見て、本当の幸せというものを理解した。

「ねえアン、どうして汽車は停まったのだろう?」
「ママイよ、お母様は今でもゴンサーロ駅長に神通力を持っているの。汽車を止めるくらいならわけないわ」
わたしは、プラットホームに立つフランチェスカを見た。それに気づいて彼女は手をあげて微笑んだ。その横にゴンサーロ駅長がまっすぐな姿勢で畏まるように立っていた。
ふたりが近づくと、ゴンサーロ駅長は「さあ、わたしは乗客にお詫びしてきますか。何しろ古い機関車はよく故障しますから」といって離れていった。私はその後姿に「駅長ありがとうございます」と、礼を言った。
「なあに、こんな田舎の鉄道ですから、遅れるのは度々です。時間なんて気にすることはありません」
彼は振り返って制帽のつばに手を添えて軽く返礼た。わたしは自分の若さで彼を誤解していたことを後悔しながら近寄り、握手を求めて手を差し出した。ゴンサーロ駅長の握手は以前より幾分か力強く温かみを含んでいた。
ゴンサーロ駅長が騒いでいる乗客の方へ歩み去ると、フランチェスカが私の頬を手で触れ、そして抱きしめた。
「トーマ、このまま行ってしまうはずがないと信じていたわ。あなたがアンを愛していることは疑いもなかったし、アンに愛を告げずに行くのは彼女の心を引き裂くようなものよ。トーマ、あなたは何かを得ようと旅に出る。何かを得るということは何を失うことなの。人は得るという欲望に盲目になり、失うものがなんであるか気づかない。得ることは失った生贄の代価なの。何かを得ようとする者が考えなければならないのは、その代価で何を失うのかであって、何を得るかではないの。トーマ、これがあなたの旅に私から贈る言葉よ。そして、あなたは今日から私の息子よ」
わたしはその言葉を何よりも嬉しく、誇らしく思った。そして、アントニーナが近寄ってきて私をやさしく抱いてくれた。

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