樹影の下で  第三章 ブエノス・アイレス 1973年6月 ①



第三章 ブエノス・アイレス 1973年7月

風には悪意があった。人を嫉むような、妬むような悪意があった。風は凍てついた南の大地から疲弊した足を引きずるようにパタゴニアを北上してブエノス・アイレスにたどり着き、その身の辛さをこの街の住民に思い知らせるように街の隅々でひどく吹き荒れていた。
午前四時のブエノス・アイレス。悲鳴をあげて吹き荒れる風、凍てつく寒さに震えて吹きかけた息が水蒸気のように白くわたしの掌を包んだが凍えた手が温かくなることはなかった。

フォス・デ・イグァスーの轟きは青天に白い飛沫を巻き上げて、その雄大さを誇示していたが、旅を急ぐわたしの心には届かなかった。車窓からその轟きを聞きながらブラジル国境を越えてイグァスー川を渡り、パラグァイのシウダッ・デ・ストロエスネルで飛び乗ったバスをアルゼンチンのサンタフェでブエノス・アイレス行きの鉄道に乗り換えた。
パンパと呼ばれるアルゼンチン北部の乾いた草原を幾日も車窓から眺める旅が続き、荒涼とした草原の風景が後へ後ろへと流れて行った。しだいにアントニーナから遠く離れていく痛みがあったが、心は不思議と穏やかにその痛みを受け入れていた。それは多分、なんの変哲もない地平まで続く広大なパンパに、わたしの魂が遠くへと運ばれ、自然の中では人間の小さな想いなどは大地に撒き散らされ、同化していったからだろうか。しかし、地平に太陽が沈み、大草原は彼方に消えてしまい、ガウチョたちの陽気な音楽が止むと、スールと呼ばれる南極からの風が刺すような敵意を剥き出しにして吹いていた。

そしてブエノス・アイレスの市街に近づき、軋んで泣くようなブレーキ音をたてて列車が減速すると、わたしは窓を閉めた。反射するガラスの向こうの街並みは暗く、不穏な冷たい影が近づいてくるのを不安に感じながら、読みかけの本をバックに納めて荷物を担いで通路を出口へと向かった。
ブエノス・アイレスのレティーロ駅は街の暗闇の中にそこだけが煌々と明るく、光の中に降車すると、鉄骨の高い天蓋に甲高い鐘の音が鳴り響いた。黒いコートの襟を立てた駅員がプラットホームの端に立ってカンテラを暗闇に向かって回すように振っている。するとわたしの乗ってきた列車が生き物のように滑りだし、駅の外の暗闇に飲み込まれて消えた。それは沈む船を眺めているような不吉な光景でもあった。
混雑していたレティーロ駅から、スール風の寒さが誘らったように人々の影を消した。立ち去る当てのない残された者にはあざ笑うような孤独を残していた。駅の外に出ると、掛ける人もないベンチが寒さに身を縮めていた。そのベンチに座り、見知らぬ街を眺めた「さて、行く当てがない。それに寒い」と、思わず声が洩れた。自分の声とも思えぬその声がわたしを不安にさせ、その不安が寒さを増幅させた。
わたしはフランチェスカから預かったアレハンドロへの手紙を取り出した。裏返して住所を確かめたが、そこに書いてある住所の方角すら見当がつかなかった。それでもわたしは、まずそこに行くことに決めていた。アントニーナを出発すると、それが旅の目的になっていた。それにしても街はスール風に征服されたように人影がなかった。見上げると空は闇に覆われて夜明けはまだ遠かった。
「この時間ではまだ眠っているだろうか・・」わたしは迷って、もう一度空を見上げたが、決断させたのもまた寒さだった。

レティーロ駅の構内に戻ると、そこにはもう旅人の姿は残っていなかった。鉄道会社のカウンターに職員らしき紺の制服を着た眉毛の濃い男がコーヒーカップを両手で包んで気難しそうに時刻表らしき紙を見つめていた。
「あの・・・・」男は時刻表から顔を上げて私を見た。
「なんだね」
わたしは手紙の入った封筒をカウンターの上に置いた。
「この住所に行きたいのですが、歩いていけますか?」
男の握っていたカップから暖かそうな湯気がでているのを羨ましく思いながらわたしはそう訊ねた。
「あんた、この寒さの中を歩いて行く気か。ケー・ローコ、まあ行けないことはないが・・」男は封筒の住所を見ながら幾度かゆっくりと首を横に振った。
「まあ若いんだ、歩いても行けるだろう。この住所はサンテルモだ。骨董屋が並んでいる街でな、ここからだと・・通り向かいがサンマルティン広場だ。ここを出たらアベニーダ・リベルタドールをずっと南に・・、つまり左に行けばいい。そして左手にコロン公園、右手に五月広場があるから・・そこがカーサ・ロサーダの裏になっている。そこまで行けば半分以上歩いたことになる。あとは・・そこらを過ぎたあたりで右に曲がってドレーゴ広場の場所を誰かに訊けばいい」
「カーサ・ロサーダ?」わたしは男に訊ねた。
駅員は驚いたように「おまえさん、予備知識まったくなしか。おい、そんなんで大丈夫か。カーサ・ロサーダは大統領府だよ。お前さん、どこから来たんだ」
「サンパウロです」
「そうか、おい、この市内地図をやるから持って行きな、多少は役に立つだろうよ」男はカウンターの下から取り出した市内地図を渡してくれた。
「ありがとうございます」
「今日のブエノスは寒いぞ、暖かいねぐらを早く探すことだ」
拒む風に押されて出口のドアは重かった。風はさらに勢い増して人気のない街をわが物顔で徘徊していた。風に吹かれた新聞紙が子犬のように勢いよく足元に絡みついたかとおもうと、風にもぎ取られてアスファルトの路上を囚人のように引きずられ、そして闇空に舞い上げられて見えなくなった。見知らぬ街の住人は、闇と、寒さと、吹き付ける風だけだった。

リベルタドール通りの角に立っていると、寒さは孤独という鋭い刃物を武器にしてわたしを威嚇した。後悔が「それみたことか」と、この寒い街に来たことをあざ笑っていた。
わたしは、突きつけられた鋭い孤独の理由に首を傾げた。孤独とは自分と他の者とのつながりを断ち切られることだ。そして、いまつながりを鋭く断ち切っているのは寒さだった。衣服の中はスール風に体温を奪われながらもまだ温もりがあって、この街の冷え切った気温と大きく違いすぎるのを感じた。そして、この気温の差はこの街からわたしを他人のように隔離し、風を使って街を出て行くようにと脅していた。
「トーマ、あなたは客観的に見ること、考えることができるわ。それは素晴らしいことだわ、でも常に客観的に自分を見るのはよしなさい。それは人生をつまらなくさせてしまうわ」フランチェスカは確か・・・少し叱るようにそう忠告したはずだ。その忠告を思い出してわたしは寒さの中で暖かくなり少し笑うことができた。その笑いが小さな勇気を与えてくれた。そして見知らぬ街に足を踏み出した。

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