第二章 アントニーナ 1973年4月~7月 ⑥

 
 
三日降り続いた雨が晴れた。
雨に洗われた澄んだ空気が窓から入ってくる。
カーテンを揺らす風には、潮の匂いがかすかに含まれている。その匂いに誘われて手すりに寄りかかり外を眺め雨が降っている間は海の遠くあった島影が、今朝は近くまで引き寄せら真っ青な海に小さな漁船が浮かんでいる。

「なにを見ているの」いつの間にか後ろに立っていたアントニーナが私の右肩に手を置いて訊いた。
「あれ港だろうか。ほら、あそこにクレーンのような鉄骨が見える」わたしは海岸沿いに伸びた町並みが途絶えた辺りを指さした。
アントニーナはわたしの肩に重心をかけて、後ろからのぞき込むようにその方角を眺めた。
「ええ、アントニーナ港よ」 
「港か、行ってみないか
アントニーナを誘うと、彼女は困ったように少し首を傾げたが「待っていて」と言って、すぐに着替えてきた。白いワンピースと帽子をかぶった姿は、アントニーナに着いた日のトラピシェ桟橋に立って海を見ていたフランチェスカの服装によく似ていた。
ふたりは丘の上に建つピラル教会までゆっくりと歩いて登った。この場所から眺めるアントニーナ村の町が一番素晴らしかった。いつものように古い町並みの向こうに青く美しい海が朝日で光っている。いつものように景色は素晴らしかった。しかし、その丘に立つアントニーナの美しさと比べれば、その景色も彼女を引き立たせるための背景に過ぎなかった。
アントニーナが振り返って笑っ。片手で白いドレスの裾を押さえ、もうひとつの手は帽子を押さえている。風が彼女と戯れている。わたしは彼女の手を取って教会の丘を海に向かって下りて行った
港は思ったより遠かった。だが歩くことは楽しかった。アントニーナは町の歴史や家族のことを楽しそうに話してくれた。しかし、が遠くなり港が近づくとアントニーナの表情曇り、口数がすくなった付近の集落家々は灰色のスレート屋根の平屋に変わり、野良犬のような痩せた犬が錆びた線路の上で甲高く吠えた
その線路は長く使われていないらしく、道路を横切り、これもまた使われていない工場跡らしき高い塀に囲まれた敷地の中に引き込まれていた工場の正面には頑丈な鉄製の黒塗りの門扉があったが、歳月の重みで傾き、閑散とした広い敷地と丈な三階建ての建物が三棟ほど建っているのが覗けた。建物の壁は元のペンキの色が分からなくなるほどくすんでいた。壁の高みに小さな窓がいくつも並び、スレート屋根の上には排気口がいくつも突き出ていた。
「ここは?」
アントニーナの躊躇の原因がこの廃墟であることは、この工場跡の前に彼女が立ちどまったときに気づいていた。
「わたしたちの祖先言ってもそう昔ではないの。母の祖父の時代まで、つまり40年から60年代までベルテーロ家はアントニーナの町で製粉、肥料、農業や林業、そして海運業まで営んでいたの。ベルテーロ家はイタリアのベネチァからアルゼンチンに移住して、それからブラジルに来たの。パラナ州のクリチーバ、そしてこのアントニーナで手広く事業を営んでいたの」
わたしは廃墟を眺めながら問いかけた。
「それがどうして、このように」
「戦争よ、日本と同じ第二次世界大戦でイタリアも敗戦国、母国に協力した母の祖父はアメリカに連行されて病死したの。そして、それを救おうと奔走していたママイの父は、父親の死を知り無気力になったというわ。ママイは、その父を引き取り、この地を見捨てて去って行く叔父たちの誘いも断ってこのアントニーナに残ったの」
アントニーナは工場跡を眺めて言葉を切った。それから、また続けた。
「ママイは、わたしと同じ年頃の十八歳のとき、父親の主治医であったドイツ系のフォッグ医師、つまりわたしの父と結婚したの。しかし、その結婚はわずか一年余、ドイツ人には珍しく冗談好きな明るい男だった父は、クリチーバに向かうバスの事故で父が亡くなった時・・・、わたしはママイのお腹の中身重のママイは寝たっきりの父親のためクリチーバに引っ越さなければならなくなったけれど、わたしが生まれ、父親が亡くなると、アントニーナに戻って、古い館を買い取ってホテルに改造したの。」
アントニーナは廃墟になった工場の錆びた鉄門を押した。ギーと乾いた音がしたが鉄門は難なく開き、廃墟の庭に茂る雑草だけが唯一の生命のようだった。アントニーナは壊れたベンチに座った。広い敷地にはもう誰も居ない。静けさのなかに時折クークックーという鳴声が響くのは、工場のどこかに巣をつくった鳩が侵入者たちを警戒しているのだろう。
「ママイが三十歳の時、アレハンドロが来たの。どこでどうしてママイと知り合ったのか今も訊けないでいるの。最初はイヤだった。わたしはまだ十二歳でママイを奪われると思ったの。だけどアレハンドロはいつも悲しい目をしていた。子供のわたしでさえ慰めたくなるほどだったわ。そしてママイはアレハンドロの心を救ったわ」
「あの人は、悲しいというより、心が死んでいたの。きっと魂をどこかで抉り出されたのね。でも、ママイは何も訊かなかった。アレハンドロは毎日ピラル教会の丘に座ってアントニーナの海を見つめていたわ」
「・・・・・・」
「それからある日、アレハンドロはママイに訊ねたの『エルネスト・ゲバラを知っているか?』って、ママイが頷くと、アレハンドロは『俺はボリビアでエルネストを殺してしまった』と言ったの」
わたしの脳裏にある風景が浮かんだが、アントニーナの話を遮ることはしなかった。
「アレハンドロは、それだけ言うのも苦しそうだったわ。それからまた黙って、しばらくすると『どうして俺が生き残っているのだろう』と呟くと、それっきり話さなかった」アントニーナそれっきり話をやめた。
わたしはあの日、バスに乗り込んできた明るい瞳の男たちを思い出した。あの中の二人はよく似ていた。彼らは他人を装っていたが明らかに仲間だと私は気づいていた。その一人は、くせ毛の髪に指を突っ込んで引っ張る癖があることまで思い出した。
「町の人はアレハンドロを嫌っていたわ。ママイは美しかったし、憧れている人も多かった。町の若い有力者たちは、自分こそ結婚相手に相応しいと申し込んできたわ。でもママイは未亡人だし年齢も三十歳になっていたから彼らの態度にはどこか母を哀れむようなずうずうしさがあったわ」
「・・・
「ママイは誰も相手にしなかった。でも相手の度が過ぎるときはママイの言葉は有無を言わせない強さがあった。一番しつこかったのは駅で会ったあのゴンサーロ・ソーザよ。すごく礼儀正しくて、そして不誠実だったわ」

わたしは、あの力のない奇妙な握手を思い出した。

「ある日、ママイは『アレハンドロと結婚します』とゴンサーロに言ったの、それから町で妙な噂が広まったわ。その噂はママイを中傷するもので、アレハンドロは黙って出て行くと、ゴンザーロを呼び出して殴ったわ。それはもう一方的な暴力で、警察が止めなければゴンザーロは殺されていたわ」
「アレハンドロの形相と暴力に警察も逮捕できなくて、怖がっていたけどわたしにとっては母を救った英雄だった。だけどママイは悲しんだの『暴力には暴力が返ってくる。力というものは押した力と同じ力が返ってくるものよ。噂は空気のようなもの、あなたの暴力はその空気を肯定するようなものよ』と言ったの。アレハンドロはどうしていいのか解らないように痛めた拳を握り締めていたわ」

わたしはアレハンドロという男の情けない気持ちが痛いほど理解できた。

「それからアレハンドロは変わったように働き出したの。ホテルの傷んだ屋根を直したり、庭の木を植え替えたり、ペンキを塗り替えたときは私も手伝ったわ。そして夕方になるとママイと海岸に散歩に出たわ。不思議なほど落ち着いて、穏やかな表情で優しい瞳だったのに・・・・・、ある日なくなったの『エルネスト』という名を紙に書き残して。ママイは翌年、男の子を生んだわ」

廃墟になった、誰もいない工場がアレハンドロという男重なっていた。

「たぶん・・、ぼくはアレハンドロと会ったことがある。そしてもう一人の男とも、帰ったらメイに話そう」
わたしは立ち上がりながらが言ったアントニーナは悲しげに見上げた。
「そして行ってしまうのね」わたしは答えられなかった。
アントニーナは立ち上がるとスカートの埃を払い、工場を見ながら言った。
「この廃墟になった工場を見ていると。わたしたちの家族が壊れてしまう不安と、祖先や一族に置き去りにされた淋しさを感じるの」
「・・・・・」
「トーマ、この先の岬に岩があるの、大きな丸い岩でとても素敵。行きましょう」アントニーナは一人で決めてしまうと歩き出した。わたしはつもの我ままなアントニーナに戻ったことに安心した

工場跡を出ると、暗く古い歴史が閉じられ真昼の光が戻ってきた。しばらく浜辺沿いく、冬が近い海は人影なく、銀色の水面静かにゆらゆらと揺していた。歩道が途切れたところに戸の閉った売店があった。横倒しになった丸いゴミ箱がかすかな風海の波と同じように前後に揺れていた。赤く塗られた店のシャッターには、粗暴な字で「チェ!自由と死」と落書きされていた。
アントニーナはそれに目もくれずその脇の細い坂道を登っていく。わたしは坂を上りきった彼女が振り返るのをみた。上は風が強いのかントニーナは帽子を押さえている。彼女の顔は逆光になって見えなかったが、なぜか笑っていると確信できた。そして、手を差し伸べる彼女に誘われて急いで坂道を上った。
そこはなだらかな大きな丸い岩の上だった。正面の海から風が吹いてきた。その正面にある内海には島影がいくつも見え、遠くは霞んでいたので果てしなくどこまでも続くかのようだった。
「トーマ、日本はこの海の向こう?」と、アントニーナは岩に腰掛けると沖を指さして訊いた。
わたしはその沖を見ながら「いや、この海は大西洋だよ。日本は・・・」
反対側の山を振り返って「この南米大陸を横断して太平洋に出て、その向こうにある」
「そうね、でも海を見ていると、すべての外国はこの海の向こうにあって、大西洋も太平洋も関係なくなるわ」
アントニーナは横に立ったわたしの手を握った「またか・・」と思っていると「違うわ、癖ではないの。あなたの手を握りたかったの」とアントニーナは言った。
わたしは、答えなかった「どうして」という問い何度も喉元で詰まってしまい、とうとう諦めた。そのかわりに握った手に少しだけ力を込めた。
ふたりはしばらく黙って水平線を見ていた。カモメが時々水面の上を飛んだ。その飛翔はこのゆったりとした風景の中であまりにも早かったが、遠ざかるほどに雄大になる自然に飲み込まれ、逝くつくことのない旅の悲しさの飛翔のように思われた。
やがて、どちらともなく誘って岩を降りると砂浜に降りて靴を脱いで裸足で歩いた。渚は過ぎ去った夏と秋を懐かしみながら、訪れた冬という静けさの季節の訪れを寄せる波で告げていた。
渚はふたりを寡黙にさせたが、それは互いの意識が言葉を必要としなかったからだった。互いの意識は握られた手から十分すぎるほど伝わっていた。そして、わたしは目の前に広がる現実の風景から遠い歴史に意識を運ばれていた。
「なにを想っているの?」アントニーナの声がした。
「いや・・・、アメリカの・・・新大陸発見というか・・・」
「あら、トーマは冒険家だったの?」
「いや、そうではなくて・・・・」わたしは静かな海をみながら話した。

「五百年前に・・・もしかしたらこの入り江にも三本マストの帆船が入って・・きた。船足はゆっくりとして舳先にわずかな波を立てている。頭髪を布で覆った船乗りたち数人が海を覗きこみ、後ろを振り返って大声で何かを叫ぶ・・・・、その声が南米大陸で初めて使われたポルトガル語だ。船乗りらが引っ込んだかとおもうと舳先の波が消えて船が止まり、横揺れしたかとおもうと神聖な静寂を壊すかのようにガラガラガラと耳障りな金属音がしてザブンっと碇が海に投げ込まれる。船からは相変わらず大声が聞こえてくる。やがて四~五人の水兵がボートを海面に降ろす。続いて縄梯子が下に投げられ上にいた水兵ふたりが降りてきて梯子を両脇から支えて固定する。次は青い軍服の胸にやたら勲章飾りをつけた将校らしい痩せた背の高い男が降りてくる。それから黒い法衣を着た太った司祭が不器用に降りてきて慌てて腰掛け、ボートの船縁を両手で掴む。それから副官らしき男と銃を持った水兵が数人乗り込む・・・」
アントニーナが微笑んでいる。
「やめようか?}
「いいの、続けて、どうなったの?」
「・・・・・・・」
「好きなの、トーマはもっと理論的な理屈っぽいことばかり考えている人だと思った。意外だわ、空想するなんて、そしてそれを話してくれるなんて素敵だわ」
「アントニーナ、ぼくはいつも空想している。自分が理屈っぽいなんて思ったことは一度もない。でもこれは空想ではなくて想像だよ。現実にあったかもしれないことを想像しているんだ」
「どっちでもいいわ。続けて」わたしの反論をぴしゃっと打ち切って、命ずるように次を催促した。
「ボートが陸に向かっている。その後に銃口を上に向けた水兵たちを乗せた三艘のボートが続いている。この静かな内海にボートを漕ぐギィギィーという櫓の音だけが響いている。将校らしい男は立ったままで険しい目で陸地を見つめている。司祭も座ったまま見ているが彼は不安そうだ。渚に近づくと将校は副官に何かを命じる。オールを漕いでいた水兵が波際に飛び降りてボートを砂浜まで押し上げる。将校は身軽に水際に飛び降りると後ろを見ることもなくブーツで飛沫をあげて陸に向かって歩き出した。司祭が副官の手を借りてボートを降りてその後に続く、手には旗を、いや・・・なんだろう、ああ十字架のついた長い棹だ。その頃には他のボートも到着してこの砂浜が賑やかになる・・」
わたしは、ふたりがいる砂浜に寄せる波を見たそして続けた。
「将校は全員を整列させて『ここがポルトガル王室の新しい自由に満ちた地だ』と叫ぶように宣言する。それから険しかった表情を和らげ感激をこめて『もしこの地に人々が住んでいるなら、我々は彼らに文明を与え理想国家を建設しよう』と続ける。そして、後を司祭に譲る。譲られた司祭の頭は将校の叫びを聞いているときから母親だけでなく全ての女たちの名前に聖なるサンタを付けてその響きを口の中で呟いている。発見したこの新しい地に相応しい名を命名しなければとの焦りからだ」
わたしは白い砂浜の波打ち際から緑の山間まで眺めた。そこには五百年の歳月が過ぎても変わらないものがあるはずだと探した。
「それから?」
「それから・・・、司祭は気に入った聖女の名が見つからず、にわかに彼の父親の名を思い出す。アントニオだ。しかし女性の名の方が美しいと思い、厳かに『この地をアントニーナと命名する』といって十字を切って祝福する。祝福された地で戦士たちの未来の幸運を願う、そして、この砂浜から上陸したコンキスタドールたちは南米大陸の奥地に分け入っていく。五百年が過ぎて、僕はこの海に停泊した帆船と、渚に上陸したコンキスタドールたちのことを、町の名と同じ名を持つアントニーナという美しい娘にその話しをしている。これが歴史で、たちもまたいつか歴史になって誰かに語られる。」
アントニーナは笑った。
「トーマは冒険家で、空想家で、小説家だわ。そして、私が美しいという結論を伝えるために五百年の歴史を語るなんてとんでもないご機嫌取りよ。」
「でも・・・、このなんでもない海に帆船が浮かんだなんて、ポルトガル人がこの浜辺に上陸したなんて想像すれば、このなんでもない砂浜が大切な場所に思えてくるわ。でも嘘つき、コンキスタドールたちはもっと北の地にすでに上陸しているわ。南米大陸で初めて使われたポルトガル語だなんて、まったく歴史を無視しているわでも素敵な嘘つきね、・・・あら、」
誰かがこちらへ歩いてくる。アントニーナはそれを見て立ちどまった。渚は東に緩やかなカーブを描いて寄せる波が砂を濡らしている。その波際を五人の人影がこちらに向かってくるのが遠くに見えた。やがてそれが若い男たちで、その声高な話し声がこちらまで届く距離になった。
「ルイスたちだわ」と言うと、アントニーナは眉をひそめ、なにやら思案していたが、すぐにうなずくと歩き出した。
彼らも私たちに気づいたようで、話し声がやむと、視線をこちらに向けたままで顔を寄せ合ってなにやら小声で話し合い、わたしたちを待ち受けるように横に広がって立ちどまった。
「やあ、アントニーナ」
リーダー格らしい真ん中のブルーのシャツを着た長身の男が挨拶した。
「ごきげんようルイス」
金髪で端正な顔をしたルイスという男がゴンサーロ駅長の息子だと一目で分かった。それほど彼は父親に似ていた。
「彼は?」
ルイスはわたしを無視してアントニーナに訊いた。
「トーマよ。私の家のお客様」
「家の?君が誰かを連れてきたと父から聞いたよ」
アントニーナはまた眉をひそめたが、すぐに努めて明るく答えた。
「そう、わたしがお連れしたの。お母様が気に入って家のお客様になったの」
「・・・・・」
ルイスは初めてわたしを見た。
「ルイスだ、よろしく」といって手を差し出した。兵隊が挙手するような堅苦しい手の出し方だった。
「トーマです」と言って握手をすると、その握手は生暖かい皮袋に手をつっこんだような感触で父親とそっくりな力をこめない握手だった。
「おまえ、ジャポネスか?」
ルイスの後ろに居た猪首の男が前に出てきて訊いた。
「ええ、そうです」
「俺はグスタボだ。おまえ何処から来たんだ?えー、なにしにアントニーナなんかに来たんだ。」
「用はないのですが、アントニーナさんに招待されたものですから」
「日本人って奴は、図々しい人種らしいな。招待されれば遠慮もないのか」
「グスタボ、やめなさい!」
アントニーナが叫ぶと、グスタボは舌打ちしながら小さな声で「まったく、アントニーナといいメイといい、外国人を銜えこんでくる。そんなに外人はいいものを持っているのか。」
わたしはこぶしを握った。そしてグスタボのセリフに応えようとした。しかし、そのまえにグスタボは殴られて後ろに吹っ飛ぶようにして砂浜に転倒した。
意外にも、殴ったのはルイスだった。彼の肩は怒りで震えて、拳を握ってグスタボを睨んでいた。殴られたグスタボも意外だったのか驚いたようにルイスを見上げている。
「ありがとう」わたしは礼を言った。
ルイスはその目にさらに怒りを増して答えた。
「いいか、俺の胸の中にもあいつと同じ言葉も想いもある。礼など欲しくない。あいつを殴ったのはアントニーナを侮辱したからだ、貴様のためではない。いいか、貴様はよそ者だ、この地から出ていけ。貴様はきっとアントニーナを不幸にする。間違いなく不幸にするという確信が俺にはある」
わたしはルイスの怒りよりもその予感に恐れを抱いた。それはわたし自身が予期していたものを言葉として聞いただけだったからだ。
「・・・・・・」
「行きましょう」と言ったアントニーナの声は意外にも冷静だったが、口惜しさが滲んでいた。そしてルイスのグループを非難するような厳しい瞳で一瞥すると、砂浜から道路に向かって歩き出した。

部屋に戻ってもルイス・ゴンサーロの言葉は異物でも飲み込んだように重く胃に溜まり、やがて疫病のように体中に広がって心に疼痛を覚えた。その痛みは彼の言葉が真実であることを告げていた。
痛みは、わたしはこれからどう行動すべきかを明確に告げていた。わたしはクローゼットをあけた。彫刻が施された素晴らしい大きな木造りの家具の中に、わたしの憐れなくらいみすぼらしい数枚のシャツとズボンが吊り下げられていた。わたしはそれを畳んで旅に出たときのバックに詰めた。その数分もかからない作業が自分の惨めさを増幅させた。わずかな荷物を片付けると空っぽになった部屋が異邦人を見るように冷たい視線で早く立ち去れと催促した。
いたたまれなくなって部屋を出ようとすると小さな拳で叩いたような音でドアがノックされた。そしてエルネストがドアを少しだけ開けて顔を覗かせた。
「トーマ、あのね、もう食事の準備ができたんだって。ぼく、トーマを呼んでくるようにママイに言いつかってきたの」
「そうか、偉いね。一緒に降りようか」というとエルネストは嬉しそうに笑顔になったが、ドアから少しだけ中に入ると訊ねた。
「ねえ、トーマはアンとけんかしたの、アンは泣いていたよ」
アントニーナルイスの言葉に真実聞いたのだ。わたしは群れからはぐれたただ一匹の羊のように当てもなくさまよう旅人にすぎない。わたしには未来もなく、風に吹かれて意味もなく風下に流され、湿っぽい吹き溜まりで小さな一生を終えるのだ。そのわたしが、自分自身ですら幸福になれない者が、どうして誰かを幸せにすることができるだろうか
「どうしたの、やっぱりけんかしたの?」心配そうな顔でエルネストが訊いた
「いや、そうではない。心配しなくていいよ」と答えたが、それでもエルネストは不安げだった。
「エルネスト坊ちゃま通して頂けますか」
エルネストの後ろに荷物を持った女中のテレーザが太った体を横にして部屋に入ってきた。
「トーマ様、メイ奥様から今晩のご夕食はこの服にお着替え下さるようにとのことです」と言って衣服と靴を渡すと、忙しいという様子で急いで出て行った。
「エルネスト、今日はどこかへお出かけするの?君は髪をわけているし、きれいな服も着ている」わたしは衣服を持ったままで訊いた。
「ううん、ちがうの。今日は送別の夕食だってママイが言ったの。ねえトーマ、だれかいなくなるの?」
わたしはアントニーナとの散歩から戻ってフランチェスカと話していない、いや会ってさえいない。フランチェスカはアントニーナと話したのだろうか。いや、そうではないだろう。あの女性は全を予期していたのだ。別れという日がいつであるかということも。
「エルネスト、それはたぶん僕のことだよ。トーマはまた旅に出なければならないんだ。だからお母様がきちんとお別れをしてくれるのさ。さあ、着替えなければならないから先に行ってくれるかい」

ダイニングに入っていくとすでにフランチェスカやアントニーナも、そしてエルネストも席に着いていた赤いバラの花が白陶磁の花瓶いっぱいに活けてあった。またいつもは消されているシャンデリアも今夜は煌々と灯され食器やワイングラスを輝かせていた。しかし、それよりもディナードレスを着た二人の女性が美の全てだった。
フランチェスカは胸元の大きくあいた真珠色のドレス着ていた。髪を結い上げた彼女は神々しいほど完全な造形の美そのものだった。そして微かに微笑んでいた。
アントニーナを見た。彼女は淡い檸檬色のドレスを着ていた。アクセサリーは付けず簡素な装いだったが、彼女の美は何んの飾りも必要としていなかったフランチェスカが女神ならアントニーナは天使だ。金色の髪とまっすぐに真実を問うように見つめるブルーの瞳は彼女が神から使わされたものであることを示している。
「兄が若い頃に着ていた服なの。デザインは古いけどトーマには良く似合っているわ」フランチェスカはわたしが着用た服を値踏みするように見て満足そうに頷いた。

夕食は素晴らしかった。わたしがこれまでに味わったどの食事よりも豪華で、華麗だった。そして心に沁みるほど愛情に包まれていたが、これほど淋しい食事をしたことはなかった。フランチェスカは別れを言い出さなかったが、その言葉にはわたしが旅先で気をつけるべきことや、これからどう生きるべきか未来を示そうとしていた。アントニーナはただ聴いているだけでほとんど話さなかった。そして、わずかではあったが沈んだ気配があった。
しばらくしてフランチェスカは言葉を止め、アントニーナを見て、それからわたしを見つめると優しい目でわたしに決断しなさいと催促した。
わたしはフォークとナイフを置きフランチェスカの方を先に見ながら言った。
フランチェスカ、それからアントニーナ、エルネスト。はみなさんに感謝します。しかしその好意に甘えて長居し過ぎたようです。どうかお暇をお許し下さい・・・」と言うと、ガタンと大きな音をたて、アントニーナが立ち上がり「ごめんなさい」といって部屋を出て行こうとした。
「アン、お待ちなさい。食事を終えましょう。それからわたしたちはトーマの物語を最後まで聞かなければならないわ」
アントニーナは背を見せてしばらく立ち止まったままだった。そして振り返った。その頬に涙があるのを見て、わたしは胸が引き裂かれそうになった。
アントニーナがテーブルに戻るとフランチェスカは「今日はもういいわ」といって女中のテレーザを下がらせた。そして眠そうにしているエルネストを部屋に連れて行った。
「やっぱり行ってしまうのね、渚なんかに行かなければよかった」
アントニーナは涙の溢れそうな目でそう言った。
「アントニーナ、渚なんかのせいではない。勿論ルイスのせいでもない。僕は君やフランチェスカに会ってはじめて何かが解りかけてきた。それが何であれ自分の求めるものであることには間違いない。だから行かなければならないのだ」
「・・・・」
「分かって欲しい、ここで過ごした日々はの人生にとってかけがえのない最高なものだ。君に会えた今、君に会わなかった自分など想像もつかないはいま自身が変ったことを感じている」
「でも、ルイスの言葉で旅に出ようとしている。その言葉に傷ついたように」
「傷ついたのは確かだろう。しかし、彼の言葉よりも彼の言葉が真実だったことのほうが辛かった。君も多分それに気がついたと思う」
「わたしはルイスの言葉よりも、その真実よりも、あの時のトーマの表情にそれを受け入れようとしていることの方がショックだったわ。どうしてもっと居てくれないの。誰もあなたを急かしていないし、あなたも急いでいなじゃないの」
「でもぼくは気づいてしまった。それに気づいた以上、知らないふりをして過ごすことはできない。君はフランチェスカの娘だ。ぼく以上に彼女から教わったはずだ、誰かの言葉に反応するのは、同じものが自分の中にあるからだ。人は自分の中にないものは理解できない。理解したときはそれに従わなくてはならない」
「・・・・・・」
テーブルの向こうからアントニーナは手を伸ばした。わたしも手を伸ばしてその手を握った。小刻みに震えが伝わってきた。それがアントニーナの言葉だった。顔を上げると戸口にフランチェスカが立っていた。
フランチェスカはアントニーナの後ろに立って愛おしそうにその髪に触れた。アントニーナは頭を傾けて母に寄りかかった。
「さあトーマ、あなたの物語を続けて」

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