第二章 アントニーナ 1973年4月~7月 ⑤
いつしか空には白い月が浮かんでいた。まだ昇ったばかりの月の明かりが、波のない滑らかな海面に一筋の白銀の道を輝かせていた。その光の道を風が静かに揺らしていた。
「トーマ、ねえ、トーマの旅はどこへ続くの?」
いままで黙っていたアントニーナがティカップを手のひらで包んで紅茶を揺らしながら訊いた。
「つまり、どこまで行くの?」
わたしは6年前の旅の記憶から現実の旅に戻されてうろたえた。
「ぼくは・・、これからアルゼンチンのブエノス・アイレスに向かう。それから先は未定で、分かりません」
海を見ていたフランチェスカが、ティカップを置いて少し哀しげに私を見た。
「やはりね、次はブエノス・アイレスなのね。そうなるのが運命だわ」
「どうしてですか?ブエノスには何があるのですか?」
「トーマは導かれているの。あなたの旅はブエノス・アイレス、そして、そこで次の目的を知ることになるわ。私はそこがどこであるかも知っている。でもそれはブエノスに行けば分かること」
「・・・・・・・」
「さあ、今日はもう終わりしましょう。楽しかったわ、休みましょう。トーマ、来てくれて本当にありがとう」フランチェスカはそう言って立ち上がり、トレイに茶器を乗せて先に階段を降り、海を背にしてホテルに向かって歩いていった。アントニーナが続き、わたしはそのふたりに続いた。
クククルルという鳥の鳴き声と羽ばたきで目が覚めた。窓を開けると屋根裏からハトが飛び立った。揺れるカーテンを押さえながらテラスに出ると、朝日はまだ大西洋の入口をふさぐイーリャ・ド・マルの後ろに潜んでいたが、その光はイーリャを黒い島影にし,海を平らな銀色の鏡に変えていた。しかし、南米大陸はつかのまの眠りの中に沈み,部屋から見下ろす市街には人影もなく、町は暗やみのまどろみの中にあった。ベッドの傍に置いてあった時計をつかみ時刻を確かめると午前五時を少し過ぎただけだった。
わたしは顔を洗い、服を着替えると、廊下を静かに歩いて昨夜と同じドアから外に出た。明け方の冷たい空気には潮の香りが滲みこんでいた。その潮の香りに誘われるように海の方向に歩きだした。しばらく歩くと右手にマーゴの家に行く小さな分かれ道が見えたが、そのまま真っすぐに進むと踏み石がなくなり、道幅も狭まり、小路の先は冷たい海の気温が発生させた薄い霧で覆われて見えなかった。
それでもなぜか、わたしは安心して霧の中を歩くことができた。少し進むと小路は急な坂道になったが切れることなく続き、霧が陸地に方へと去ってしまうと、晴れた空の下に青い海が広がっていた。
わたしは、そこで立ち止まって、海に向かって傾斜した砂浜にすわって朝日の出を待った。波は、砂浜で餌を探す海鳥を追い立て、漁に出る船を沖に運び去ろうとしていた。サンパウロを出たのはわずか二日前のことだが、あの霞む水平線のようにすでに遠く彼方のおぼろげな過去となっていた。
わたしは、そこで立ち止まって、海に向かって傾斜した砂浜にすわって朝日の出を待った。波は、砂浜で餌を探す海鳥を追い立て、漁に出る船を沖に運び去ろうとしていた。サンパウロを出たのはわずか二日前のことだが、あの霞む水平線のようにすでに遠く彼方のおぼろげな過去となっていた。
それから、わたしは二ヶ月余もアントニーナという海辺の町に留まっていた。季節は初冬になり寒い日もあったが晴れた日には海辺を歩きながら、また、糸を引くような雨の降る日には、雨に霞む樹木をテラスに座って眺めながら、温かいコーヒーを飲み、二人の美しい女性との会話を心から楽しんで過ごした。
しかし、なぜかアントニーナに着いた日に語った物語の続きをフランチェスカもアントニーナも催促することはなかった。
フランチェスカは、わたしにとって初めての理解者であり、導師だった。彼女に導かれて私は自分の内部にあるものに少しずつ輪郭を与えることができた。
ある晴れた日、フランチェスカは海辺を歩きながら語ってくれた。
「トーマ、神とは全ての総称のことよ。何かが集まったとき、そこには総称が生まれる。全てのものが集まって生まれた総称。それは人間だけでなく、動物や植物だけでもなく、山河のような自然、生のあるもの、生のないもの、いえ、時間や空間のように形の無いものさえ抱合した、それら全てを含んだ者の名前。人間だけでなく、その人の歴史や未来、そして生存する、滅亡したありとあらゆる動植物、形のないもの全てを抱合した者の名は神という総称で呼ぶのが相応しいわ。トーマ、わたしもあなたも神の一部分なの」
フランチェスカの瞳の中に光があった。わたしはその光に勇気づけられて訊ねた。
「フランチェスカ、形の無いものさえ総称があると言いましたが、例えば他にどんなものがあるのでしょうか?」
「フランチェスカ、形の無いものさえ総称があると言いましたが、例えば他にどんなものがあるのでしょうか?」
「それは、例えば希望です。希望とは人々の心の中にある願いが叶えられることを信じることです。その願いはひとつではなく、多くの願いが叶うと信じた時に希望となるのです。ですから希望は多くの願いの総称と言えるわ」
また、雨の日には息子のようにわたしの肩を抱いてくれた。わたしはその愛に包まれて愛にたいする疑問を口にした。
「フランチェスカ、ぼくはこの世の矛盾に満ちていると思った。だけど、全てに存在の意味があるのなら、矛盾という現象にさえ答えがあるかもしれないと思いました。神が全てを愛するというのなら、どうしてこのように人々の人生に不公平があるのでしょうか。いや、人生だけではなく、人は生まれたときからひとりひとりのその能力に差があることは歴然としています。それがどれだけ多くの悲劇や喜劇を生む原因となったことでしょうか、愛とはなんでしょうか」
「そうね『神は全てを愛する』というフレーズは広告のようにバスのボディや街角にべたべた張られているわ。それは可笑しなことね」と言って、微笑みながら言葉を切り、それからまた続けた。
「愛するというのは、選択するということなのよ。あなたが誰かを愛して「愛している」と告白することは「誰よりもあなたを愛する」という選択ではないかしら。もし全ての人と同じように貴女を愛するというのなら、それは愛の告白にならないし、すべてを愛しているということは比較するものがなくなる以上、愛が存在しないということになるわ」
「愛には肉体的な愛情であるセックスとプラトニックと呼ばれる精神的な愛があるわ。でも、実際に存在するのはセックスだけなのかもしれない。精神的なプラトニックと呼ばれる愛は、人は動物とは違うはずだという人間の切なる願いが創りだしたものかもしれない。だって、セックスは証明する必要もないほど明らかだけど、精神云々は明らかどころか証明することすらできないわ」
わたしはフランチェスカのセックスという言葉にたじろいだが、フランチェスカは、わたしのそんな反応を可笑しそうに楽しんでいるようだった。
「矛盾については、あなたはもう答えを出しているわ。矛盾しているという前に、世の中に存在するものに普遍的なものはないわ。すべて変化するということだけが唯一の普遍かもしれない。明日のあなたは今日のあなたと異なっているの、この雨の中の風景だって明日は晴れてわたしたちに異なった印象を与えるわ。だから言葉や行動に囚われることはないの、その時、その場に必要な言葉で話し、行動すればいいの。そしてそれを約束というふうに自分の心の中に杭を打ち無理につなぎとめてはいけないわ。それは、その杭に繋がれたロープの長さの分だけの自由だわ」フランチェスカは、私の目をのぞきこむように近づいた。
「あなたは、なにか話したいことがあるのね」
私は少しためらったが話した。
「ええ、よく夢を見るのです。それは僕が、いえ僕だけでなく大勢の人々が歩いているのです。その世界は暗黒で、銀河のように銀色の道が光って続いて、どこまでも、どこまでも。よくみると粒々のように光っているのは永遠に続く人間の命の波で,いや、人だけでなく。山羊や馬や牛、鶏など獣の魂も人々に混ざって同じ方向に歩いているのです。その数え切れないほどの人々や獣が暗黒の世界に銀河のように光って一筋の道になって果てしなく続き、宇宙の闇の中に細い筋になって消えて見えなくなっているのです。僕はその夢の意味するところを考えていました。あらゆる宗教は現世の次、つまり天国であったり、極楽であったり、運が悪ければ地獄であったり。現世の次である来世を示してくれます。つまり、来世があって現世で終わらないというのが宗教的な救いなのです。その形は常に円を描いています。しかし、僕の見る夢はそれを否定しています。その道を歩くものは営々と途絶えることがないのですが、ひとりひとりは小さな光が消えるように消滅しているのです。それは数千年数億年と永遠に刻まれる時間の中で生とは刹那とも呼べないほど儚く短く、生から死へと続く真っすぐな道の途中で絶対的な終局があるのです。現世から来世、生まれ変わってまた現世に戻るという円を描いていない、人は来世がないことを気づかないで歩いている。ただ、真っすぐな人生という道を刹那に生きる我々が終局に向かって歩いている。そんな夢です。それは宗教の死、希望を埋葬する夢です」
メイは、わたしの肩に置いた手に力をこめた。そしてわたしは休むように彼女にもたれた。
「トーマ、あなたは厳しく淋しい道を歩まなければならないわ。あなたがどのような道を歩んでもたどり着く場所はいつも同じ」
わたしは糸を引いて静かに落ちてくる雨の音に耳を澄ました。何千何億・・・数えることなどできない雨の音が心の中に静かな湖になって満ちてきた。
「僕は旅を続けなければならないのでしょうか?」満ちてきた雨の音がわたしの心に伝わって言葉に変わった。口に出してはいけない。すべてを壊していけない。失ってしまう恐れがこの質問を躊躇させてきた。
フランチェスカは黙ったまま雨を見つめていた。そして雨を見つめたまま答えた。
「トーマ、なにかを得るということは、なにかを失うことよ。すべてを得ることはできないの。あなたがここに留まることは旅で得られるはずのものを失うことなの」
そして、わたしを見て、瞳の中に悲しみをたたえて言った。
「だから選択することを覚えなさい」
「・・・・・」
「ダメ!」
激しい声に驚いて振り返るとアントニーナが立っていた。
「ダメ!それではアレハンドロと同じだわ。ママイは同じ過ちを繰り返すの、アルは帰ってこなかったわ」
「アン、アレハンドロは帰ってくるわ。まだその時ではないの」
「エルネストはもう五歳よ、父親の顔を知らないわ。それでもその時ではないの」
「アントニーナ、その時は、わたしたちの時ではなくて、アレハンドロの時なの、彼が判断するしかないの、わたしもエルネストもアルを待つしかないの」
「・・・・・」
「トーマは希望よ。アレハンドロは苦しんでいるわ。トーマとアレハンドロが出会うことによって彼もトーマもきっと変わる。それはわたしにはできないこと、不可能なこと、救えないことなの。トーマにはアレハンドロを導く力があるし、トーマはアレハンドロから学ばなければいけないわ。だから彼はブエノス・アイレスに行かなければならない。それは同じことではないの、変えることなの」
「・・・・・・」
「わかってちょうだい、アントニーナ」
「・・・・・・」
「トーマはアレハンドロより強いけど、アレハンドロは人の心を強くつかむ力を持った人、この二人はもうすでに出会っていることは話の続きを聞かなくたってあなたにだって分かっているでしょう」
「・・・・・・いつ、いつ発つの」
アントニーナはわたしに聞いた。
「戻らなかったら探しに行くわ。わたしママイのように待つのはイヤ」
わたしはアントニーナの言葉がわたしに向けられたものかアレハンドロに向けられたものか判断がつかなかった。いや、判断を避けていた。
「まだよ、トーマはまだあの話しを語り終えていないわ」
「だったら、もう話さなくてもいいわ」
そう言うと、アントニーナは身をひるがえして駆けるように屋内に去ってしまった。
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