第二章 アントニーナ 1973年4月~7月 ③



やがて浜辺を離れると、ゆるやかな坂になり、その坂を上りきった丘の上に二階建ての屋敷がみえてきた。白い細かい砂利が敷きつめられた広い正面玄関の両脇にはいくつもの枝を傘のように重ねた二本の杉の木が衛兵のように直立していた。また、車まわしの中央でビーナスの噴水が夏の暑さと戦っている。
その水音でわたしは喉の渇きを覚えた。気がつくとシャツの背は汗でびっしょりと濡れていた。
「喉が渇いたでしょう」フランチェスカは階段を上りながら訊ねた。私はその階段の下から建造物とフランチェスカを見上げた。建築の知識が乏しい私にはこの建造物の様式が分からなかったが、古い歴史のある家屋なのだろう。壁は大小の石で積まれ、屋根は青銅葺きだった。その下に小さな飾り窓があった。出入口の大きな木製の扉は上部がアーチ型で、青銅の蝶番で支えられ、両方の扉に獅子のノッカーがついていた。そして、扉の上にはヨーロッパ貴族の家紋のような紋章が刻まれていた。
昔日の面影を残す建物の階段にフランチェスカとアントニーナが立っている。ふたりは建物の歴史をフラッシュバックさせて幻想の中に佇んでいるようだ。正面の扉から大航海時代のポルトガル人が出てくるような錯覚を覚えたが、出てきたのは黒いワンピースに白い胸当ての付いたエプロンをつけた顔の丸い太った黒人の女性と、半袖の白いシャツに黒いズボンの背が高く白人とも黒人と判断のできない痩せた男だった。
黒人の女性はその身体のように転がるように小走りで出てきたし、男も小走りではあったが、手足を折り曲げる音が聞こえるようなぎくしゃくとした歩き方で、二人の対照的な歩き方は、それだけで面白かった。そして、その二人の間から五つか六歳頃の男の子が飛び出して来た。
「おかえりなさい、アン姉さん」という言葉で、アントニーナの弟だとわかった。
「ただいまエルネスト、おりこうさんにしていた」
アントニーナはそう言って弟を抱きあげた。
「ねえ、おみやげは?」
首筋に抱きついてきた弟の頬にキスをしたアントニーナは「それはあとでね。それよりご挨拶しなさい」と言ってわたしを瞳で示した。
エルネストはもがくようにしてアントニーナの腕から下に降りるとわたしに近づいてきた「エルネストです。初めまして」
しっかりとした声だった。少しくせ毛で、そして、母とも姉とも異なって、その髪の色は黒かった。また、心の奥をのぞくような真剣な黒いまなざしはどこかで会ったことがあるような懐かしさを感じさせた。
「トーマです」と答えると、エルネストは姉に駆けより、「ねえ、ちゃんとご挨拶できたでしょう」と言って、アントニーナのバックを触って「何が入っているの?」と、興味を移した。

案内された部屋は海に向いていた。アントニーナが白いレースのカーテンを開けると眩しい光が部屋に満たされた。
「こんな素晴らしい部屋を使ってもいいんですか?」
「ええ、母はこの建物を五年前に買ってデスカンソ・ド・マルと名付けてホテルに改造したの、それまでは私たちクリチーバに住んでいたの」
「どうしてアントニーナに越したの?」
「エルネストよ、弟が生まれて母はこの町に引っ越すことにしたの」
「・・・・・」
「エルネストの父親はアレハンドロ・デ・ラ・セルナというアルゼンチンの人よ。母とアレハンドロはしばらく一緒に暮らしたの、だけどエルネストが生まれるとアレハンドロは『エルネスト』という子供の名前だけを残して逃げるようにアルゼンチンに帰ったわ」
わたしは荷物をベッドの上に置いてテラスに出た。アントニーナもついてきてベランダの手すりに持たれた。ふたりは海を見ながら話した。
「どうして僕がアレハンドロとつながりがあると思うの?」
「わからない、それはトーマが教えてくれるわ」
「アントニーナは、そのつながりのために僕にクリチーバで降りるように勧めたの?」
「それは違うわ、いえ、そうかもしれない。いえ、分からない。でも、トーマを見たとき、話しかけなければならないという義務感に似たもの・・・ちがうわ、説明はつかないけど何かを感じたの。でも、それがアレハンドロと結びついたのはトーマがバスの窓から外を見つめていた時よ。アレハンドロもあんな風にいつも遠くを見ていたの。きっとそれで思い出したのね」
「それで、僕の話を聞きたがったのだ。僕は君を不思議な人だと思った」
「エルネストという名に憶えはある?」
「君の弟のエルネスト?」
「別のエルネストよ」
「エルネスト・・・・」
その名は、十四歳になったばかりの・・・、少年の初めての旅を思い出させた。そこで出会った男を思い出したが、しかし、それはアントニーナとなんらつながりのないはずの男だった。
「エルネストといえば・・・」
「いえ、今は答えなくてもいいの、母に聞いてもらいたいの。少し休んで夕食の時にでも・・・」
なぜかアントニーナはそれ以上話すことを避けた。ボリビア、クリチーバの写真の男、そして間違いなければあの男のことを。

そう疲れているはずもなかったが、シャワーを浴びてベッドに横になるとそのまま眠りこんでしまったらしい。目が覚めると沈む夕日が部屋のカーテンを赤く染めていた。そしてベランダの手すりにとまった海鳥が不思議そうに室内を覗きこんでいた。
誰かがコツコツとドアを叩いている。まだ寝ているかどうかを確認するような小さなノックだった。
「どうぞ」と言うと、ドアが開いてエルネストが入ってきた。
「お母さまが夕食の準備ができましたといっています」
「ありがとう、すぐに行くよ」
エルネストはそれでも入口に立っていた。
「なにか訊きたいの?」
「うん」
エルネストは、どうしようかと迷っているようだった。黒い眼が私を値踏みするように見つめていた。
「トーマは僕のお父さんのお友達?」
やっと勇気をみつけたように訊ねた。
「いや、僕は君のお父さんを知らない」と答えると、はっきりと分かるほどエルネストは落胆して目を床に落とした。
「でも、君のお母さまは僕がお父さんの手掛かりを知っていると思っているようだ。エルネストはお父さんに会いのかい?」
「うん、お母さんがね、とっても素晴らしい人だったっていつもいっているよ」言葉に力がこもり、目が輝いた。
「そうに違いないさ。あんな素晴らしいお母さまが選んだ人なのだから。さあ、行こうか」
 
ダイニングは一階の左手の奥の方にあった。ホテルのダイニングではなく、家族だけが使っている場所のようでテーブルは八人掛けだった。わたしとエルネストが並んで座り、メイとアントニーナが向かいに並んで腰掛けた。
フランチェスカもアントニーナも衣服を着替えていた。
フランチェスカは胸元が大きく開いた薄紫色のシャツにフレアースカートというカジュアルな服装だったが白い豊かな胸元が眩しかった。アントニーナは彼女の瞳と同じライトグリーンのノースリーブのワンピースがよく似合っていた。

食事はハバーダと呼ばれている香辛料で煮込んだ牛のテール肉のシチューと、たっぷりのサラダだった。わたしはとろけるように柔らく煮込まれた肉が尾骨からはずれて舌に溶けるのを楽しんで食べた。ライスは炒めてから炊いたさらさらとした舌触りだったが柔らかなテール肉によく合っていた。たっぷりと食事をすませて、ドロっとした濃いコーヒーを飲むと、食事の間まったく会話がなかったことに気づいてテーブルを見た。
フランチェスカとアントニーナは微笑んでいたが、エルネストはびっくりしたようにスプーンの動きを止めて、口を開けたままわたしを見ていた。

「ごちそうさま。すみません・・、無作法でした」

「いえ、それが最良の作法よ。食事を作った者にはね。でも私たちが済むまで待っていて下さいね」
わたしは恥ずかしさをそらすようにダイニングの壁や調度品に目を移した。壁は濃い橙赤色でいくつかの家族写真らしい額縁が飾られていた。その下のニス塗りの古いマホガニー製の家具にも写真が立てられ、民族衣装を着た黒人女性の陶器製の人形が置かれていた。
食事が済むとフランチェスカは幼いエルネストを寝室に連れて行きながら「アン、トーマとマーゴの家で待っていて」と言った。
海側の庭に出ると私はアントニーナに訊ねた。
「マーゴの家って?」
アントニーナはそれに答えずわたしの手を取ると歩きだした。
やっぱりこの娘は手を取る癖があるんだ・・・
海側に面した庭は起伏があってところどころに外灯が灯されヤシの木が影となっていた。芝生に覆われた先が切れるように海に繋がっていたが、その海はもうすでに闇の中にあって潮鳴りの音が風に運ばれて来た。
外灯の光で白く反射する敷石を踏みながら少し歩て行くと、六本の柱で支えられた六角形の椰子葺きの小屋があった。休憩所のような小屋は地面から四段ほど高床になっていて、楽団が野外演奏で楽しむような造りだった。壁は腰高までしかなく、四方が見渡せた。壁に沿って長椅子が置かれ、その間に飲み物が置けるような小さな木製のテーブルがあった。私たちはその長椅子に並んで腰かけた。
「トーマ、わたし、本当は少し不安なの。私が知りたいことに近づいていくのを感じているけど、だから、あなたの話を一人で聞く勇気がなかったの」
アントニーナは瞳に不安をにじませていた。海風が吹いて彼女の短い髪を頬に寄せてなびかせ、まだ握られていた手に力がこもった。
「僕の話にどうして君の知りたいことが含まれているのだろうか、よくわからない。アントニーナ、君と僕はバスに乗るまで何の接点もなかった。僕は旅に出たが、それは外に何かを求めたというより、自分の内面を知る手掛かりにするという試の旅でしかない。そのような僕の旅や僕の人生のどこかに、君の家族の過去との接点があるとは思えない」

「もう話し始めているの」
微かなユリの花のような香水の香りがした。フランチェスカがお盆に茶器を乗せて登ってきた。ティカップに紅茶を注ぎアンと私に手渡すとフランチェスカは向かいあって腰かけた。
「十四歳までの話はトーマが眠っている間にアンが話してくれたわ。アンはその続きに不安を感じたようね。それで止めたの、話を。でも、この先の物語を話すためにあなたは旅に出たのでしょう。それが必然なことをだと知らないで」
「これは必然ですか?偶然ではないのですか?」
「世の中の全てが必然ではないわ。でも偶然でもない。それをどう受け取るかだけなの。そして私は必然と受け取っているわ」
「・・・・・・・」
「そうね、たとえば、トランプには四種類のカードが混ざっている。不正をしなければ次のカードがなんであるか誰も知らないでしょう?そしてスペードのクイーンが来たとする、それが待っていたカードか、いらないカードかは別にして、そのカードが来たことを必然と取るか、それとも偶然と取るかはゲームをしている人の心理、つまり心のゆとりともいえるわ。カードを待つ気持ちが強ければ、心が苛立つか喜ぶかのどちらかで、楽しむゆとりがないので強く偶然を求めるわ。でも、ゆとりがある人にはどのようなカードが来てもそれは必然でゲームを楽しむためのプロセスでしかないの」
「僕には必然の定義とは、季節が変わるようなもの、人が生まれて死んで行くように明確なものだと思えるのですが」
「トーマの定義は、必ず起こりうることという不変を前提にしているのね。では季節の移り変わりや人の生死が必ず起こりうることといえるかしら。トーマの定義には時間が含まれていないわ」
「時間?」
「そう時間。あなたの知っている季節の移り変わりはいつから始まりいつまで続くの、人が存在するのはいつからいつまで。永遠に存在するものはなくて、すべてが秩序をもって正確に変わるということではないの。その変化の上にはさらに大きな変化があって、その上の変化へと続くの」
わたしはフランチェスカが「樹影の下」のことを話しているような気がして不安になった。
「トーマ、言葉に捕らわれてはダメ。言葉は人が生み出すものであって、人が言葉に捕らわれる必要はないわ。人の心をひとつの言葉であらわすことなどできないわ。必然か偶然か、生か死かなどと言葉に置き換える必要もないわ。そういう言葉の決めごとが争いを生むわ。ただ感ずることを素直に受け止めるだけでいいの。さあ、あなたの物語を続けて」
わたしは
フランチェスカの言葉が、いやフランチェスカそのものが自分の中に沁み込んでくるのを歓喜とともに受け止めた。
そして、わたしは旅に出た理由を話し始めた。

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