第二章 アントニーナ 1973年4月~7月 ②





アルベス通りはそう長い通りではなかった。いや、町自体が小さいのだ。数軒の雑貨屋や果物屋が並ぶ小さな商店街をほんの十五分も歩くと杉林と小さな噴水のある公園に突き当たった。
 「マセード公園よ」アントニーナは立ち止まって言った。
「私の家は・・・この公園の向こうでホテルを経営しているの、でもこの時間ならママイはトラピッシェにいるわ」と言って、公園には入らず左の通りに曲がった。
その通りをしばらく歩き、マルセーロ通りいう表示のある道路に出ると今度は右に折れた。
そして、わたしはそこで立ち止まってしまった。
「どうしたの」と、アントニーナが訊いた。
「いや・・・、海が見える」
「そうよ、アントニーナは海沿いの町だもの」
「そうではなくて、久しぶりに海を見たような気がした。それに、いきなり海が現れたのでドキッとした」
「それなら、もっと近づきましょう」といって彼女は微笑んだ。 
海に近づくと海岸線の砂浜は弓なりになって遠くまで眺望できた。アントニーナの町並は海岸に沿って弧を描き、南西に広がっている。惹かれるようにわたしは海に向かって歩いた。アントニーナは黙ってわたしの歩くまま後についてきた。
海岸に向かって下り坂を降りて行くと、そこが町の中心部になるのだろうか。アントニーナの町はブラジルの古い町によくあるように、人々の営みは変わっても町並みは過去の歴史を刻んで数百年の時が止まり、昔そうであった町の景観がそのまま真昼の太陽の下に残されていた。
ポルトガル調の建物は色鮮やかで、壁は濃いえんじ色や、青色などの原色、また、白色を溶け込ませて、やわらかくした色で塗装されていた。しかし、窓枠だけはほとんどの家が白く縁取られ、その窓に寄りかかって外を眺める人々が時折「アントニーナ」と、声をかけた。その度に町と同じ名を持つ彼女は手を挙げて挨拶を返した。
雲ひとつない、晴天の澄んだ青空の下で、町の美しさとアントニーナの姿は、まるで一点の絵画のように想像しうる完璧な世界を当たり前のように現実として、そこに存在させていた。
「その先はトラピッシェよ」
町を抜けた海岸沿いの小さな公園の入口でアントニーナはそう言ってわたしの歩みを止めた。
公園の木々の間からは、わたしが目指していた海が見えた。入江になった海は安らかで、沖合の島々の影が外洋を隠していた。そして、岸から青い海に向かって板桟橋が長く突き出て、数人の子供たちが足を海に投げ出して釣り竿の先を見つめていた。
その桟橋の先に、長身の女性が一人立っていた。白いドレスとつば広の帽子をかぶり、真昼の太陽が海面に反射してキラキラと白く光り輝くのを背景に、女性は ノースリーブのドレスから伸びた腕を後ろ手にかるく組み、海風を楽しむように少しだけ上を向いて伸びをするようにつま先だって海に向かって立っていた。
「お母さまよ」と言って、アントニーナが桟橋に向かって歩き出した。
桟橋の踏み板の下に波が寄せて支柱にぶつかって揺れた。釣りをしていた少年がこちらを見て高い声で叫んだ。
「あ、アントニーナだ」
その声で桟橋の女性が振り返り、眩しそうに帽子のひさしの先に手を添えてこちらを見た。
「ママーイ」アントニーナが突然走りだした。
桟橋の上に、娘を抱きしめるために両腕を広げた背の高い母と、その腕の中に飛び込んでいく娘の姿をわたしは茫然と見ていた。そして、母親のかぶっていた帽子が風にふわっと浮んで流され、そして海に落ちた。
わたしは桟橋の中ほどでふたりの姿をみて立ちどまった。アントニーナがわたしを指差しながら母親に話しているが、風の音が混ざって二人の会話は聞こえなかっ た。母娘は肩を抱き合ってゆっくりとこちらへ歩いてきた。すると、傍らで水に飛び込む音がした。見ると、釣りをしていた少年が波に浮ぶ白い帽子に向かって 泳いでいた。
「ようこそトーマ。お待ちしていました」と、深みのある澄んだ声で女性が片手を差し出した。わたしはその手をためらいがちに握った。
「お伺いしましたのは、ご迷惑ではないでしょうか」と、訊いた。
「いいえ、あなたがここへ来たことは偶然ではないわ」
「・・・・・・」
「わたしは娘が誰かと出会ったことを感じたの、そして、アントニーナに来ることも知っていた。だから、ここで待っていたの」
「でも、これほどとは・・、アン、あなたはこの出会いがどれほど重要なことか分かっているかしら」 母は娘を振り返って言った。
「ママイ、わたしも何かが起こったことを感じているわ。でも教えて欲しいの、彼はアレハンドロと関係があるの?」
「もちろんよ、そうでないはずがないわ」
「アン、元気」少年がアントニーナを見ながら、海で拾った帽子を母親に差し出した。濡れた半ズボンとTシャツが少年の細い体にくっついていた。
「ありがとうパウロ」礼を云って母が受け取った。
「もう少しで沖に流されるところだったよ。でも僕、泳ぎが速くなったから追いつけたんだ」少年は自慢そうに海を見た。
「ええ、君はイルカのように速く泳げるのね」と褒めると、少年は恥ずかしそうに
「あ、釣竿を忘れていた」と言って逃げ出した。
「アレハンドロって誰ですか?」
わたしは会ったこともない知らない人物の名を訊いた。アントニーナと母親はお互いの顔を見合せた。
「それはトーマに聞きたいの。トーマはどこかできっとアレハンドロに会ったことがあるはずだわ」
「そうよ、あのボリビアの話の続きを聞けばわかるわ」
アントニーナが言うと、「トーマはボリビアにいたの?でもその話はあとでゆっくりと訊くわ。さあ、行きましょう」と言って母親は歩きだしたが、ふり返って「わたしの名はフランチェスカよ」と、告げた。
南岸に沿った道を私たちは歩いた。母と娘は少し先を歩いている。海から吹き寄せる風が心地よくシャツの襟首に触れている。
わたしは前を歩く二人の姿を見ているだけで楽しかった。アントニーナは母親に話しかけてはクスクス笑っている。母はただうなずくだけで娘の心を捉えている。
しばらく二人を見ながら歩いていたわたしは、自分のある勘違いに気づいて可笑しくなった。すると風に告げられたようにアントニーナがわたしを振り返った。
「どうしたの、なにが可笑しいの?」
「いや、君はいつもそうやって誰かの手を握って歩く癖があるのかい?」
「・・・・・・」
「僕もクリチーバでそうやって君と歩いたよ。そして勘違いした」
アントニーナは首をかしげた。「なにを?」
「僕は女性と手を握って歩いたことがない。だから自惚れるところだった」
「あら、・・」といって、アントニーナは顔を赤らめた。彼女がそういう反応するとは予期しなかった。新しい一面を知って嬉しくなった。そして、笑ったのはフランチェスカだった。
「そう、この娘は歩きながらすぐに相手の手を取るの、いつだったか教会の若い司祭の手を握って困らせたこともあったの。トーマはそれにすぐに気付いたのね。自惚れていない証拠よ」
「あら、わたしはそんなことしないわ」
赤くなった頬を少し膨らせてアントニーナは母の腕を放して歩き出した。わたしは初めてアントニーナと優位に話せたのが楽しかった。
こうして海を見ながら歩くのは素晴らしかった。アントニーナはもう話すことを止めて母の肩に頭をのせ、左手をその腰に添えている。潮が引いた遠浅の海に餌を探すカモメが舞い降りた。
ふと、「アレハンドロとは、誰だろう・・」と、思った。

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