第二章 アントニーナ 1973年4月~7月 ①



 アントニーナの駅は、駅と呼ぶには躊躇するような小さな建物だった。しかし、浅黄色に塗られ壁やアーチ型の窓枠の白、濃緑色の木製の扉の色は、ポルトガル植民地時代の様式を取り入れた、がっしりとした造りの駅によくつりあっていた。
 この駅が終着駅のせいか、降車する客はまばらで、アントニーナとわたしは急ぐこともなく、ゆっくりと汽車を降りた。プラットホームは汽車が停車していなければ幅広の廊下と見まちがうほどに短かった。列車の車蓋の上からは緑の丘陵が重なるように間近に見え、プラットフォームの反対側は駅と道路を隔てる柵もなく、雑草の生い茂る先にはクリチーバに向かう石敷の道路へと続いていた。振り返ると駅の少し手前の線路脇には、傾いだ給水塔があり、蒸気機関車が走っていた時代もあったのだろう。
 全ての乗客が降りたことを知らせる合図だろうか、鐘が鳴った。濃紺の制服を着た駅員が、黒光りする重そうな鋳物の鐘の先に付いたロープを振っていた打ち鳴らしていた。その鐘が急かされたようにアントニーナは歩き出し、わたしも続いた。
 汽車から降りた乗客たちはプラットホームから駅の中に入って行った。アントニーナはその後ろを歩いている。そしてわたしもその後に続いて構内入った。そこは待合室らしかったが、中央部分に二階に続く木の階段があり、その階段以外は吹きぬけのホールで、二階の通路の手すりによりかかって数人の男女が到着した人々を見下ろしていた。そして両脇は駅の事務室のようだったが、小さな駅は確かめる間もなく、通り抜けるとすぐに駅の外に出ていた。
 駅の外には、正面は数本の杉の木が影を落としている公園があり、右手に煤けた小さな教会があった。その教会の左手の灰色の壁は墓地を囲む高い塀へと続き、開けはなたれた鉄扉の奥は墓地だろうか、十字架と墓標の影が見えていた。墓地の入口の門柱の傍には箒を持った女性と、墓地の管理人のような男が駅から出てくる乗客たちを所在なさそうに座り込んで煙草を吸っていた。

「アントニーナお嬢さん」
制服を着た背の高い男が駅の構内から出てきて呼び止めた。豊かな口鬚をたくわえた五十代半ばの男の髭には白髪が混ざり、目元にもいく筋か皺が刻まれていたが、その顔は驚くほど端正で、ブルーの瞳はヨーロッパ系の移民だということがすぐにわかった。
「いまお帰りでしたか、サンパウロに行かれたと伺いましたが」
「ええ、駅長さんはどうして知っているのですか」
「息子のルイスが、アントニーナお嬢さんがいないと言ってさみしがっていました。あいつはお嬢さんがいないと元気をなくしますから、すぐに分かりました。どのくらい旅行なさっていたのですか」
「5日間だけよ。あっという間だったわ」
「お嬢さまにはね。ルイスには長かったようですよ。このお方は?」
「サンパウロからご一緒していただいたの。トーマさんです」
「お母さんのお客さまですか?」
「いえ、お母様は知らないの、わたしのお客さまよ」アントニーナは少し皮肉っぽく答えた。
「トーマです。アントニーナが美しい町と伺って訪問することにしました」普段よりも社交辞令の口調で手を差し出しながらわたしは言った。
「アントニーナ駅の駅長ゴンサーロ・ダ・ソウザです。美しいのはこの町でしょうか、同じ名前の娘ではないでしょうか?」駅長は握手をしながらアントニーナの皮肉をわたしに返しながら差し出した手を握ったが、大きな手のわりに力のない奇妙な握手だった。
「では、ルイスによろしく」アントニーナはバックの中から帽子を取り出してかぶりながらいった。
「ええ、あいつは大喜びしますよ。お送りいたしましょうか?」
「いえ、結構です、それにはおよびません。トーマに、この町を見せたいと思いますので歩きますわ」別れを告げると、駅長は残念そうな表情をしたが、それ以上は勧めなかった。

「暑いけど少し歩くわ、構わない?」
「ああ、こんな天気なら、いくらでも歩けるよ。」
太陽は真上にあった。アントニーナは駅を出るとすぐにアルベス・ジ・アラウージョという通りに曲がった。道は平坦で四角く切った小さな石がびっしりと敷き詰められていた。
わたしはポケットからハンカチを出して額に吹き出した汗を拭いた。そして空の色を見ると、そこにあるのは真夏ののしかかるような青ではなく、遠ざかっていくような秋の透きとおった青さで、その空に雲雀のような小さな鳥が数羽戯れるように飛んでいた。アントニーナを見ると、帽子の下の白い陶磁のような額に汗の粒が浮いていたが拭おうともしなかった。
「わたし、風を感じるのが好きよ。だから汗を拭かないの」
アントニーナは前を向いたままで話し、それから意地悪そうな顔で、何かを催促するようにわたしを見たが、思い当たることがなくわたしは首を傾げた。
「ルイスが誰なのかトーマは気にならないの?」
焦れたようにアントニーナが訊いた。
「ああ、誰ですか?」
「つまらない答え方ね。それだけなの?」
「どうして?」
「もういいわ」
怒ったように歩きだしたアントニーナにどう反応してよいかわからず立ちどまったままだったが、すぐに追いかけた。
「ねえ、なにを怒っているんだ。どうしたの?」
アントニーナは立ちどまってもう一度私を見た。
「トーマ、ガールフレンドは?」
「え、どうして?」
「だからサンパウロに彼女はいたの?」
「・・・・・」
「答えて!」
「どうしてそんなことをいま聞くの、いったいどうしたの」
「また同じ質問をする。わたしの質問に答えて」
「・・・・、いや、いなかったよ」
「やっぱりね」
「だからどうして」
「だからわからないんだわ」
「なにが?」
アントニーナは強い瞳でわたしを見つめたが、その光がだんだんと優しくなり、手を伸ばしてわたしの頬に触れた。
「トーマは自分をよく知っているわ。そんなトーマは素敵よ。でもそのためにトーマは自分を、自分の感情を閉じ込めて隠す癖があるわ。なぜかしら?自分を知るのは恥ずかしいことなのかしら。母はいつも、人は自分自身を知らなければ他人も世の中の仕組みでさえも理解できないというわ。でもそれは隠すことではないわ。お願い、もっと心を開いて」
わたしは答えることができずアントニーナをみつめていた。彼女は驚くほど簡単に私の内部に侵入してきた。わたしの中に通ずる道は固く閉ざされていたはずなのに。

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