樹影の下で  第一章 サンパウロ 1973年4月 ④



いく時間が過ぎた。書き疲れてノートを閉じてライトを消し、シートに寄りかかったが、眠れないまま窓の外の闇を見つめていた。
暗い窓ガラスに不安そうなわたしの顔が写っている。ガラスに写ったわたしはわたしを見つめていた。奇妙な感覚にとらわれて笑うと意識が揺れた。すると、窓に写ったわたしに被さるように白い顔がフワッとあらわれて話しかけた。
「ジョゼの店を思い出しているの」
わたしは驚いて、しばらく忘れていた彼女を振り向いた。
「あなたはいつもわたしを驚かせる。どうして、そう言うのですか」
「だって、あなたは可笑しそうにしているわ。きっと、ジョゼの店のことを思い出したのよ」
「え、あなたには見えるのですか」
「あら、トーマには私が見えないの」私にも彼女の微笑んでいる唇がよく見えた。暗闇に目がなれたことさえもわたしは気づいていなかったようだ。
「でも、どうしてジョゼの店だと思うのですか?」といって、さっきも同じ質問をしたことを思い出したが、彼女は別の答えで応えた。
「わたしも楽しかったからよ。あの日本人がトーマのテーブルに座ったときから、何か起るだろうと予感がしたの。だからわたし、気を付けていたわ」
「・・・・・・・」
「本当はね、同じテーブルに座ろうと思ったの。でもわたしが先に席に着いていたし、あまり近づくと失礼でしょう、好奇心でいっぱいの女のようで」と言って、小さく笑った。
わたしは、その笑顔が素敵だと思った。大理石のような固い彫像物だと思っていたビーナスがいきなり生命を吹き込まれ、可憐に動き出したかのようだった。
「で、どうして、あなたは驚いたの?」
わたしはどう答えてよいか迷った。いくぶんか恥ずかしさがあった。しかし、見つめる彼女を前に何か答えなければならないと思うと、伝える言葉が見つからず焦った。アントニーナは可笑しそうに「答えなくていいのよ。わたし分るから」と、言った。
「いえ、答えます。あなたを見ていたら、つまり、なんだか夢の中に漂っているような、現実がなくなって、意識が遠のいてしまうような・・・・、そんな状態になったのです。そして、夢の中からいきなり引き出されて驚いたのです」私は焦りながら、しどろもどろになって答えた。
「それって、私が美しいとほめているの」アントニーナは首をかしげた。
「いえ、ちがいます。いえ、そうです」慌てて言いなおすと、わたしは顔が赤らむのがわかった。
「ありがとう。とてもうれしいわ」と言うと、アントニーナは膝の上にあった本を前のシートの網棚に入れた。
「クリチーバに着くのは明日の朝ね。トーマはそこからフォス・デ・イグァスーに行くのね」
「どうして知っているのですか。あ、」
「そう、わたし、ひとつ向こうの席にいたから。あなたは、あの人にからかわれてむきになって答えていたじゃない」といたずらっぽく微笑んだ。
「あなたもからかうのですか」
「そうじゃないの。あの日本人の鼻をあかしてみない?」と急に真顔になって聞いた。
「どういうことですか」
「ほら、定番じゃない旅にするのよ。つまり、あなたが行こうとしているところから逸れる気はないの?」
「どこに?」
「おしえないわ。でも、もしその気になったら、わたしと一緒に次にバスが停まるクリチーバで降りることね」
「おやすみなさい。それからトーマと呼ばせてね」そう言って、毛布を目の下まで引き上げて目をとじた。わたしはしばらくアントニーナの寝顔を見ていたが、ひょっとするとわたしが見ていることを知っていて突然目を開けて笑いだすのではないかと思うと慌ててシートを倒して目を閉じた。しかし、解けないクイズをもらったように眠れなかった。

だれかが窓を開けたらしい。冷たい朝の風を顔に受けてわたしは目が覚めた。風にはためいているカーテンを脇に寄せて外を見た。朝もやの中で羊の群れを追うように朝日が夜を急かして運びさって行こうとしている。地上にはもうすぐ陽の光が広がろうとしている。バスはブラジルの南部に向かって走っている。白い朝霧が遠景を隠していたが、それでも切れ間から、緑に覆われたなだらかな起伏のある地平が広がっているのが見えた。自然はまだその眠りから覚めていなかった。沿道には淡い黄色の外灯が点いた家屋の影がぽっつりと視界に現われては急いで後ろに消えたが、屋内に灯りのついた家はまだなかった。
隣をみるとアントニーナの席は空席だった。動揺したが、毛布と赤い上着がシートの上に残されていたので安堵した。わたしも窓を開けようと窓枠の端に指をかけて強く引いたが、錆びているのか窓はまったく動かなかった。
「ボンジーア」という明るい声を背中に聞いて振り向くと、アントニーナが通路に立っていた。昨夜は気づかなかったが、着ふるしたようなジーンズを着ていた。洗顔を済ませてきたのかさっぱりとした顔で、金色の丸い小さなピアスを耳につけるため首を傾けていた
「クリチーバまでは後一時間半ほどよ」と言って席に着くと、赤い上着と毛布を膝にかけて、胸のポケットからルージュをだして唇にひいた。透明なルージュなのか薄紅の唇は濡れたように艶だけが増した。
「どう、決心はついたの?」
「いえ、わからないのです。あなたの提案が・・」
するとアントニーナは、すこし怒ったように小さな皺を眉間によせて言った。
「トーマは、わからなければ進まないの。あなたの旅は誰かの轍をなぞっているの?分わかりきったことを確認するために旅をしているの。それとも、わからないことに答えをだそうとしているの。どっち」
「・・・・・・・・」
「トーマ。わたしはあなたの旅の理由は知らないわ。でも、あなたとよく似た人を知っているの。その人が尊敬していたのはわたしの母よ。だから、あなたに会わせようと思ったの。母もその人を尊敬し・・・そして愛していたわ」
わたしは、その人のことを訊ねようと思ったが、アントニーナは下唇を少し噛んで強いまなざしでわたしの質問を封じてしまった。
「いいの、無理強いはしないわ。似ていると思ったわたしの思い違いね。ごめんなさい」とアントニーナは謝った。わたしは遠退いていた意識が戻ってきて慌てて答えた。
「クリチーバは初めてです。そのまま通り過ぎるのはもったいないですよね」と言うと、アントニーナは、しばらくわたしを見て、それから柔らかな表情になり「やっぱり、似ているわ」と言ってクスッと笑った。

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