樹影の下で 第一章 サンパウロ 1973年4月






その日は雨になった。
なぜか今日は雨になるような気がしていた。いや、雨が似つかわしいと思っていたのかもしれない。午後から降り出した雨は夕暮れになると、旅人の勇気を削ぐように勢いを増していた。
ルス駅は、出発と到着を告げる案内アナウンス。そして、切符売り女や飲料水や新聞雑誌を勧める物売りたちの甲高い声など、構内は騒音に満ちていた。しかし雨のせいか、見送る者も旅立つ者も不安そうな瞳を激しく降り続ける雨にむけていた。
わたしは、たったひとつの荷物である肩掛けのバッグを持って、軒先から滴る雨粒で濡れないように、急いでバスに飛び乗った。車内の通路は暗く、乗客の姿はシルエットになって車窓に浮かび上がっていた。そして、小さな車内灯の明かりで座席番号を見つけ、通路側に座った女性に「失礼」と声をかけると、白人の若い娘は何も言わずに 座ったまま膝を横にそらして私のために空間をつくってくれた。
わたしは窓際に座ると、雨の湿度で白く曇った窓ガラスを掌で拭いた。いく筋もの線がガラス窓に引かれて水滴になって流れ、その水滴の間から大勢の見送り人の中に母を探した。
小柄な母は、傘に埋もれるようにホームにぽつんと立っていた。顔を近づけると窓ガラスは吐息でまた曇ったが、窓向こうの母もわたしに気付いて、赤い傘を持ち上げると胸元で手を振った。
旅立ちの大きな決心とは裏腹に、惜別の想いも無視するかのようにあっけなくバスは走りだし、大降りの雨の中に母の姿を置き去りにした。
雨のサンパウロをバスはゆっくりと走っていた。ルス駅を出ると古い赤煉瓦の建物の周りには雨に追われた人々の影が走っていた。バスはエスター ド大通りを南に向かい、いくつかの道路を曲がりタバチンゲーラ通りの坂道を登りきるとセー大聖堂の裏に出た。大聖堂の青銅葺きの丸い屋根は、降り続ける雨の中にすぐに霞んで消えたが、樹木に覆われたアルドーサ公園の横に出ると、セー大聖堂の石積みの側壁を立木の合間からもう一度見ることができた。そして、つかのまに大聖堂が雨の中に消えると、青春の風景に別れを告げた淋しさが胸を息苦しくさせた。
タバチンゲーラ通りはセー大聖堂を過ぎると下り坂になり、ドン・ペドロ二世公園に続いている。サンパウロの渋滞はそこまでで、バスはスピードをいく分か増し、さらに半時ほど走って市街地を過ぎる頃には夕暮れは漆黒の闇に変わり、雨は降ることに疲れたのか、幼子の頬に優しく触れる母の手のように、窓ガラスを柔らかく濡らしていた。
車内に灯りが灯った。出発時にはざわめいていた乗客も各自の席に落ち着き、互いに話しかける者や、新聞や雑誌を手荷物から取り出して読む者、そして、不安そうに一人で暗い窓の外をながめる者など、それぞれが其々の居心地を定めていた。
サ ンパウロの灯りが遠くなり、夜の暗闇に風景が閉ざされると、わたしは窓ガラスに写った自分自身の不安そうな顔を見つめながら、自分が決めたはずのこの旅の理由を思い出そうとしていた。旅は始まったばかりなのに、すでに心は不安に侵され、バスの速度が増すとごとに、取り返しのつかない愚かなことをした後悔が 『まだ戻れる』という誘惑を耳元で囁いていた。大切にしていたものに別れを告げるのはいつだって辛い。わたしは誘惑に逆らうように『もう振り向かな い』と何度も呟いていた。
不安から逃れるように目を閉じていると、いつの間にか眠ったらしく、バスが横に揺れてアスファルト道路を逸れる振動が伝わって目が覚めた。走行時には消えていた車内灯が眩しく点灯すると、シャリシャリという砂利を踏むタイヤの音がし、そしてバスは停まった。
「皆さん、食事にしますよ」と、黒人の運転手が振り返って言うと、乗客はいっせいに立ち上がり、通路に出ると座席の上部の棚から手荷物を降ろし、時間を惜しむように慌しく降りて行った。隣の席の娘も棚からリュックを降ろすとすぐに通路に出た。「お先に」という声に娘を見ると、娘は唇に薄っすらと微笑みを浮かべて立ち去った。わたしは娘の美しさに驚いてしばらく立ちつくしていた。
またたくまに乗客は一人残らずいなくなり、わたしは最後に残された。バスを降りようとすると、ドアの傍にいた運転手が神経質そうに注意した。
「三十分の休憩ですよ。遅れないで下さい」
「すみません。ここは何処ですか」と訊ねると、
「ヘジストロだ」と答え、彼はこれ以上の質問はされたくないというふうに急いでレストランらしき建物の方へ去っていった。
わたしは、ドアの最後のステップから身をのりだして夜空を見た。いつの間にか雨は上がっていたが、まだ雨の匂いを含んだ漆黒の空に無数の星が美しく瞬いていた。そしてバスを降りると、靴の底には少し雨水を含んだ砂利がシャリシャリと心地よく鳴った。その感触を楽しむため、歩を少し強めにして踏み出すと、暗闇 の向こうにある灯りの点いた窓に向かってゆっくりと歩きはじめた。

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