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樹影の下で  第三章 ブエノス・アイレス 1973年6月 ⑧

案内された部屋には店の騒音は届かなかった。照明を暗くした室内に慣れるまで、そこに座っていた人の姿を見ることはできなかった。その影が立ち上がってわたしに近づき、マルセーロに言った。 「二人だけにしてくれ」 「はい」 その男は神父のような詰襟の黒い上着を着ていた。照明のせいか少し長めの髪は黒く、後ろにきっちり撫で付けていた。痩身の身体は過ちを許さないかのように真直ぐな姿勢を保ち、わたしに近づくと値踏みするように立ち止まった。 「ホセ・アギレーラさんですね。トーマです」そう挨拶すると、彼は一瞬だがはっとしたような表情を見せたが、すぐに目を細めてもう一度わたしを見なおした。 「フェデリコの情報に感心しろというのかね、それとも身元は割れているぞという脅かしかね?」 「・・・・・・」 「なかなか、いい戦略だよ。いつでも相手の意表をつく。フェデリコのような街のやくざが使う常とう手段とだといってもいい。それで、君はわたしの意表をついて何を有利にしようというのかね。身の安全のためなら心配ない。わたしは君に関心はない。君が何を知っているか教えて欲しいだけだ。アレハンドロの何を知っているかを教えて欲しい」 「わたしは大して知っているわけではないのです。ただ、アレハンドロとボリビアのサンタクルスであったことがあって、彼が結婚したブラジルの女性から手紙を預かってきただけです」 「サンタクルスのどこであったのかね」 「コチャバンバに行くバスの中です」 「彼は誰かと接触したかね、たとえば・・・ゲリラの誰かと、ゲバラ・・チェとは会わなかったかね」 「知りません。夜行バスでしたので」 「そうかね、それなら君はなぜ彼を覚えている」 「実は、自信がないのです。彼だったかどうか。確かに似ているような気はします。六年前のことですし、話したのも夕暮れ時で、コチャバンバで別れたのですがその時は話すこともしませんでした」 パードレは真実を確かめようと、わたしに一歩近づいた。何かが彼の目元で反射した。わたしはその時はじめて彼が縁なしの丸い眼鏡をかけていることに気付いた。 「トーマ君、やめてくれないか。わたしにはその気はないが、君がそのような態度をとっていては部下を抑えることを約束できない。素直になってくれ、わたしの知りたいことがなんであるか分...

樹影の下で  第三章 ブエノス・アイレス 1973年6月 ⑦

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クエバ・デル・タンゴは別の店かと疑うほど混んでいた。 ドアを開けると女性の歌声が聞こえ、大勢の客が 暗がりの中で 息をひそめている気配を感じた。テーブルもカウンターも人で埋まっていた。座れない者は影のように壁際に寄りかかってグラスを片手に聴いていた。 スポットライト がステージ を 光で浮かび上がらせていた。 ステージには女性歌手 が タンゴを唄っていた。 ショートにカット した 髪先が 頬に 添って内側に カールし 、 真紅の細いヘアーバンドで留めていた 。ドレスは 漆黒の皮膚のように 彼女の身体の曲線に添ってぴったりと 鈍く光 り 、 スリットから赤いヒールを履いた陶磁器のような白い脚が横に投げ出されていた。   彼女 は 目を閉じて、 両手を胸を覆うように クロスさせ 、真っ赤な唇に笑みを浮かべていた 。 そして笑みを消し、切なそうに歌を止めた。静けさが全ての動きを制した。すると、ゆっくりと ピアノの旋律が さざ波のように奏でられた。それに合わすように彼女は目を開け、胸からほっそりとした細いウエストまで白い手を 撫でるように 下ろし 、 ゆ っくりと 腕を 真横に 伸ばし 、 形のいい胸を突き出した 。 観衆は固唾をのんだ。それに応えるように彼女は 細い顎を上げて白い喉から耐えられない悲しみを込めて最後の絶唱を歌い上げた 。 その声は哀傷 に 震え、 聴衆 を虜にした。 爆発するような拍手。テーブルの客は 席を立ち、 壁 の 客は一歩前に出て彼女の唄を称えた 。 しかし、その男はテーブルに頬杖をついた まま 、興味なさそうに ワイン を グラスに 注いで飲んでいた。 マルセーロが近づいてきた。顎をしゃくって「あの男だ」と告げて離れた。 わたしは彼を見た。伸びた前髪は縮れていた。男の眼はには光がなく泥酔者のように濁っ ていた 。 そして世間をあざ笑う 皮肉な目で人々を見ていた。 「誰だ!」近づくと男はそういった。 「トーマです」 「俺が知っている男か、それともお前が俺を知っているのか。どっちにしても俺は死んだ男だ。亡霊にかかわるな」 「生きていた頃の、医者としてのあなたを知っています」 「医者が必要なら、ここではないぞ。病院に行け!」 わたしはマルセーロのジョークを思い出し、あれはこの人の受け売りだと納...