樹影の下で 第一章 サンパウロ 1973年4月 ⑥
トーマの物語 1963年4月 ブラジルは移民の国だから移民について説明する必要はないよね。それにぼくは父がなぜ日本から、いや当時は、沖縄は米軍の統治下にあって正確には日本ではなかったが、父がなぜ移民に出たのか知らない・・・・。 「オキナワって?」と、アントニーナが訊いた。 沖縄は日本と台湾の中間にある南の小さな島でね、那覇というのがぼくの生まれた町。ぼくらの乗船した移民船はその町の港から1963年の春に出航した。もう十年も前のことだが、船出の時に投げられた別れの紙テープの色をおぼえているよ。汽笛が決別を知らせるように響き、航がゆっくりと埠頭を離れると人々の想いが離れると同時にテープが千切れて波間に落ちて漂っていたのを今でも思い出すことができる。それから、汽笛が鳴るたびに島が遠ざかり、島影が見えなくなると母が泣き、父は厳しい顔でデッキの手すりを握りしめて立っていた。ぼくはまだ子供で、両親の感傷の 外 にいた。 そして、 ただ遠くに行けるという喜びだけで わくわく していた。 アントニーナはテーブルに両肘をついて手を組むと、その上に笑顔を乗せてわたしの話を熱心に聞いていた。 それから、海の向こうに台湾、香港、シンガポール、そしてインド洋、モーリシャス島の沖合を過ぎて南アフリカの不思議な国々ローレンソ・マルケスやダーバン、それからケープタウンで喜望峰を廻ると、そこは大西洋という未知の海原だった。海鳥の姿もなくなって、太陽が照りつける 毎日 が続いたかと思うと、水平線に現れた雲がどんどん広がり船を覆うと海面を激しく叩きつけるような雨を降らせて去った、そしてまた何も変わらない穏やかな波のうねりを飽きずに見ていると、ぼくは少年ながら自然にたいする自分の価値観が変っていくのを感じていた。あまりにも毎日広い自然を見せつけられて、船の中の人々の小さな営み、たとえば食事のおかずでごねている者、もっと広いところに部屋を移せと要求する者、丁寧な言葉で客と接しながら「ふん、ごたいそうに」と唾を吐く中国人の船員たち・・・、例をあげればきりがなかった。ともかく外にある海と比べれば人はあまりに小さく狭かった。そのせいだろうか、ぼくの関心は船の中よりも外の海に向けられていた。 やがて、渡り鳥が飛来して船のマストにとまると波間には流木が漂いは...