樹影の下で 第四章 サンタクルス・デ・ラ・シエーラ 1973年8月  Ⅳ

渓谷の坂道を二台の車は距離を置いて走っていた。幸いなことに、アンドレアは前の車に追いつかないようゆっくり走っているので今度は車に酔うことはなかった。彼女は途切れた話を続ける気がないようで、さっきから小さな声で歌い、左手の薬指でステアリングを軽く叩いて調子をとっている。わたしも催促する気になれず、窓の外の風景に過ぎ去った六年の日々を重ねていた。空から「キー」という甲高い鳴き声が聞こえた。渓谷の切り立ったふたつの岩が突き抜けた上空に大きな鳥が飛んでいた。
―あの鳥はあれからずっと飛び続けていたのだろうか―

「ケー・エルモーソ」という声で眼が覚めた。いつの間にか眠り込んでいたようだ。アンドレアは道路脇に車を停めた。そして、はしゃぐように車から飛び出すと「早く、トーマ、早く降りて」と、私をひっぱり出すような性急さで呼んだ。
車を降りてアンドレアの横に立つと、蒼空の下に、なだらかな緑の峰々が遥か遠く連なっていた。―あの神聖なるパノラマだ―と思った。
「こういうの、好きだわ」アンドレアの頬が輝いていた。
それだけで私も幸福になれた。
「ねえ、どうしてアレハンドロの車はここに停まってないのかしら。彼の心にはこの美しい風景も映らないのかしら」アンドレアは私の返答を望むように見つめる。私は答えなければならなかった。
「彼にはこの風景は美しすぎて、眩しくて、顔をそむけて通り過ぎるしかないんだ」

アンデスはその高さを保っていたが、最初の山脈を登りきると、傾斜は少なくなり、辺りの山はその高さを失なったが、さらの遠くの山が見渡せた。道は平坦になり、右手の低くなった道路脇の木陰には隠れるように数軒の家が建ち並び、その後ろにはなだらかな低い丘がいくつも重なり、丘の中腹に熟したトウモロコシ畑が黄色く広がっていた。左手の方は少し開けた地形になっていて、本道から目立たない石敷きの小路が続いていた。
アンドレアはそのまま通り過ぎが、しばらく直進すると家影が消えたので「ミエルダ!」と悪態をつき、乱暴に車をターンさせ、通り過ぎたばかりの石敷の路に戻って曲がった。
トヨタの車体は敷石で細かく揺れた。両側にはサンタクルスと似た造りの家が立ち並んでいる。赤いスペイン瓦の屋根、アドベレンガを積んだ白い土壁、家々の扉は上下に分かれ、窓代りに上部を開け放っていた。
その窓から痩せた老人が好奇心に満ちた目でトヨタが通り過ぎるのを見ていた。
アンドレアはブレーキを踏み、ギアをバックに入れ、老人のところまで戻り「アブエロ、ローバーが通らなかった?」と訊いた。
「何の車か知らないけど、十五分前にプラサの方に向かったよ。セニョリータ、君はガウチョかい。ケ・エルモーサ、わしは歳とったことを今ほど後悔したことはない」
「グラシャス、アブエロ」
アンドレアは最高の笑顔で老人に礼を言ったが「アレハンドロは、君の思惑通りに行動しているわ。まったく、元ゲリリェーロともあろう者がどうかしているわ」なぜか怒ったように唇を強く結んで、ギアをローに入れなおした。
サマイパタは、四方を山に囲まれた寒村だった。「アンゴストゥラの検問所で、サマイパタの海抜は千五百メートルだと教えてくれたわ」アンドレアはプラサの手前で車を停めて、赤い革ジャンパーをもう一度着ながらわたしにそう言った。そういえば高地のせいだろうか、風は乾いたように冷たく、肌寒かった。
その時、鐘が鳴った。
「教会の鐘ね。多分、二人はそこにいるわ」と言って左に曲がった。
サマイパタ村のプラサは大きな木もなく、家々の軒は歳月で歪んで波を打っていた。スペインからの開拓者がこの村に辿りつき住み始めた時代の面影はまだ色濃く残っていた。赤瓦の屋根はかびたパンのように点々と濃緑の苔で覆われ、プラサに面した軒の下にテーブルを出した民家が何軒かあって、その一軒に、アレハンドロとマルセーロが腰掛け、食事をしていた。そのペンションの前に繋がれた馬のようにローバーが停まっていた。
「見つけたわ。さあ、どう料理しようか」
「多分、まだ食べ頃ではないと思う。ここからなら、充分、今日中にサンタクルスに戻れる。僕にとってはありがたいけど、どうする?」
「いいわ、別に昼食できる所を探しましょう」アンドレアはまだ怒っているようだった。「ありがたい。僕はとても腹が空いているんだ」

料理は鶏と野菜をトマトソースと香辛料で煮込んだものだった。軟らかく煮込まれた鶏肉は美味かったが辛かった。しかし、乗り物酔いで朦朧としていた意識がその辛さで目覚めるようにすっきりとした。
「傍についているこの芋のようなものは何?」
「ユーカと呼ばれている。サンタクルスでは肉料理には必ず付いてくる」私は鶏の腿肉をほお張りながら答えた。
アンドレアは食事をする私を呆れたように見ながら「ふん、どうせ田舎料理だわ」と言ってかじるように少し口を付けたが、気が付くと二人とも料理をきれいに平らげていた。
「セニョリータ、田舎料理はお気にめしましたか」
「ええ、田舎料理にしてはまずまずね。ご馳走さま」アンドレアはトマトソースの付いた口元を拭きながら答え「それで、これからどうするの、参謀殿」と尋ねた。
「そうだね、何となくだけど、アレハンドロは後をつけられることを用心している気がする。彼らが後を気にしているなら、バリェ・グランデまで先に行って待っている方がよいと思うけど」
「いい作戦ね。わたしも後をつけまわすのは嫌い。先に行って待ち伏せしましょう」
私たちは、アレハンドロたちがまだプラサにいることを確認して、急いで車に乗り込みサマイパタ村を後にした。

村を出ると、平坦になった道路をアンドレアは思いっきり飛ばした。窓からは冷たい風が吹き込んできた。窓ガラスを上げながら「アンドレア、もう少し先、マタラニ村の手前には山がある。この道はもうすぐ傾斜とカーブが多くなるからスピードを落としてくれないか」と頼むと「いいわよ」と言って彼女はますますアクセルを踏んだ。
「カプリチョーサ」僕は彼女をなじったが、アンドレアは笑っただけだったので、諦めて目を閉じることにした。

「ねえ、トーマ、おきているでしょう・・・さっきの話の続きを聞きたい?」
わたしは目を閉じている方が良い気がして答えなかった。
「ホセは、コルドバから戻って来る度に変わったわ。彼の中から清らかな聖水が乾いてしまったように。眼が落ち込み、頬も削げて、口元の笑みはとうになくなっていた」
「・・・・」
「彼は苦しんでいた。彼の中には偉大なペロンと、その友人で、やはり偉大な将軍である父、そして貧しい民衆、それぞれが溶け合わなくなり、どこかで水と油のように分かれ、そして彼の信仰すべき神はその水面に漂っていた。ホセは静かに話すことを止め、街頭に出ると拳を振り上げて叫び、人々を扇動するようになっていた。あの頃、若者たちはアルヘンティーナから理想が消え、権力が生活の中まで忍び寄ってくることに、不安と焦燥感をつのらせていたわ。だから、コルドバーソが起こった時、ホセは先頭に立っていたのだと思う。それは、彼がわたしの楽屋に訪ねて来て『ねえ、きれいなプリマ。人生はもっと価値のあるものだよ・・』っと、諭していた頃と何も変らなかった。ただ、その対象があたしから、世の中の全ての貧しい者に変わっただけ。世の中を良くしたい。それだけの気持ちしかなかったと思う。彼が信じていた正義が弾圧された時、彼の中で何とか形を保っていた信仰が壊れたの。それは天使を悪魔に変えるほどのショックだったと思う。そうでなければ、あのコルドバーソの後、将軍であった父の家に帰れなくなって、あたしの部屋に隠れるように来るわけないわ。だって、あたしは彼にとって頼る者ではなくて、救うべき対象だったのだから」
トヨタは、上り坂を登りきって、登った分だけ下り始めた。その坂道の向こうには山並みに囲まれているにせよマタラニ村の広々とした緑の平野が続いていた。六七年にはチェがこの地の奥で最後の血を流し、彼の人生は終息した。この平野を見下ろす高台を降りながら、わたしはホセというチェと同じアルヘンティーノの物語を聞いている。チェとホセには何ら違いがない。自身の理想を生きようとしただけの二人だった。チェの目指した革命と、ホセが神から離れて民衆と生きようとしたことは何の変わりもない。
「ホセにはショックだったと思う・・・」そう言ってアンドレアは言葉を続けようとしなかった。
「何が?」と、催促した。
「彼の父。将軍が警察に連行されて、行方不明になったこと。ホセはペロンの理想に忠実で、それを実現させることが夢だった。それが原因で両親が連行されるなんて信じることができなかったはずだわ。彼は純粋にペロンが唱える理想に身を捧げていた。それが民衆の解放に繋がると何度も熱っぽく語っていたわ・・・・。だけど・・こっちは人生の辛苦を嫌というほど舐めていたから、教会の説教だってこれっぽっちも信じていなかった。ましてペロンなんて、売春婦にだって彼の魂胆は透け透けに見えていたはずだわ」
「それなら、なぜ?」
「ホセは恵まれて育ったわ。世界は愛情で満ちていて、信じられるものがあって、お互いに理解し合える世界にしか彼の世界は存在しなかった。不実、不信、不正、人を陥れる悪巧みなど彼の意識の世界には存在しなかったはずだわ。だから、彼の父親も母親も、兄弟達も煙のように消えてしまい、行方不明者の名簿の載ったとき、誰もそのことに触れたがらなくなって、その時、彼は住んでいた、信じていた世界が足元から抜けて消滅してしまったように呆然として、そして過激な民衆運動に身を投じたの」
「彼は、コルドバッソの後、投獄され、カンポラ大統領の恩赦で釈放されたのだね」わたしは目を閉じたまま確かめた。
「そう、ホセは釈放されるとモントネーロに加わって活動を始めた。そしてボリビアで戦死したチェに傾倒して、エルネスト・ゲバラの亡くなった母親、セリア・デ・ラ・セルナを訪ねて、彼女は亡くなっていたけど、彼女の家で写真を見つけ、エルネスト・ゲバラの従兄弟であるアレハンドロ・デ・ラ・セルナがチェと共にボリビアで戦ったことを知ったの」
「・・・・・・」
「そして、アレハンドロが戦死したという記録もなければ、チェと共にボリビアで戦った記録も、その後、キューバに逃れたキューバ人ゲリラのボンボやウルバーノ、そしてベニグノたちも、アレハンドロについて、一言も語っていないことに疑問を感じたの。そして、何度もゲバラの実家を訪ねて、母親のセリアが大切にしまってあったもっと古いアルバムをやっと見せてもらって、二人が一緒に写った学生時代の写真を見て衝撃を覚えたの」
「そっくりだったんだね」
「ええ、双子といってもよいほど。そしてホセはボリビアで死んだのはチェなのか、アレハンドロなのか疑問を持ち始めた。セリア・デ・ラ・セルナは生前『わたしは死んだ息子と会ったことがないわ』と言っていたという。彼女の息子は殺害された後、いずれの地に葬られたのか今でも不明のまま。ボリビア政府はチェであることを確認するため指紋をアルゼンチンに送って照合したというけど、その発表が真実であるという証拠はないわ。チェの遺体はいまだに見つかってないのだから」そして「わたしたちは今、その地に向かっているね」と、呟いた。

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