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樹影の下で 第一章 サンパウロ 1973年4月 ②

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 レストラン ドン・ジョゼ と、 白い字で に 書かれた扉を開けて店に入ると、レストランの中は思ったより明く眩しかった。入口正面のレジらしきカウンターには誰もいなかったが、古いキャッシャーがどしっと置かれていた。その右手がレストランで、賑やかな声が伝わって来た。  空いているテーブルに腰掛けると、牛脂の焼ける、なんともいえない甘い匂いを含んだ煙が鼻から胃袋に伝わり、情けないほどの空腹を感じた。 すぐに、白いシャツのボタンが千切れそうで、ズボンにおさまり切れないほどの太っ腹を揺すって年配のウェイターが注文を取りに来た。私はサンパウロを出た時の奇妙な気弱さと、置き去りにしてきた多くのものへの想いに気持ちが沈み込んでいた。また所持金の心配もあったので、空腹を我慢することにした。 「コーヒーだけでも注文できますか」と訊ねると、ウェイターは エプロンで手を拭きながら 「勿論ですとも。ありがとうございます」と、丁寧に答えてくれたので、私はほっとした。  そして、あまり待つこともなく、コーヒーの香りが置かれ「フィカ・ボンタージ」と言って、ウェイターは丸顔の目尻にクシャとしわをよせてにっこりと笑った。私はコーヒーの香りを何度か楽しんでから口に含んだ。ブラジルコーヒー独特の強い焙煎の苦味に砂糖のなめらかな甘さがなじんで美味かった。ゆっくりと、少しずつ味わって飲み込むと、喉から胃袋に温かさが流れ込み、やっと少しの勇気を取り戻すことができた。 コーヒーを半分ほど飲み終えた頃だろうか、街道に面した暗い窓がいきなり車のライトに照らされ、別のバスが砂利を踏みながら停車する音が聞こえた。そして暫らくの間をおいて、同じように旅人たちが慌しく店に入ってくると、店の中はすぐに、それぞれのテーブルのイスを引く物音や食事を注文する声で更に賑やかになり、私も自分の中から憂鬱が遠ざかり、気分が華やいでくるような気がした。 私から注文を取った年配の太ったウェイターが料理を運んでいる。そして、もうひとり髪をきれいに後ろに撫で付けた背の高い白人の男がテーブルの間を小走りにメニューを配っている。年配のウェイターと同じように白シャツと黒いズボン、その上にエプロンという姿だが、右耳に鉛筆を差していて、ふたつ向こうのテーブルで立ち止まって、鉛筆を耳から抜きながら注文を訊いている。そ...